風が、通り抜けた。 だがそれは、モノノ怪を感じる時とは程遠く。 物珍しく、爽快であった。 街が、少しばかり見下ろせる、丘で。 月の美しい、夜半。 思わず見惚れちまうほどの、咲き誇った桜。 「見事な、ものだ…」 すると、女が突然、俺の前で座っていた。 モノノ怪の気配など微塵もなく。 月明かりに照らされ俺を見つめるのは、優美な桜がよく似合う女。 それでいて、ふわりふわりと、不思議な空気を纏い―――。 その上初対面である俺に、想いを寄せていると。 なんと奇っ怪な出来事。 会話も妙に噛み合わず。 ただひたすら、俺の存在に夢中、な。 モノノ怪ではないが、突如現れたこの女は何者なのか。 さしあたって試しに頬に触れてもみたが、温く。 皮膚を通じ、女の艶を感じ取ることすら、できそうだった。 心地好い、温度。 どちらにしろ関係のない女だが。 何故だか、目が離せずに。 関わらず…立ち去ればいいものを。 座り込み、自ら話したい、などと。 「…名を、お聞かせ願いたく、」 「あ…、えっと、ヒロインです」 「ヒロイン…さん、」 「!!!」 名を尋ね、呼んでみたところ、ヒロインは大いに喜び。 「はぁ…きゅん…!薬売りさんが私の名前を…!嬉しい…ほんとに嬉しい!」 成人の癖に、まるで幼子のような喜びようで。 理解できぬが、自然と微笑ましくも思えた。 「ふ、それで、ヒロインさん、」 「はい、なんでしょう、薬売りさん」 今度は、じっと、目を見つめてみる。 ヒロインも逸らすことなく、俺の目を見る。 頬を紅く、染め。 それは本当に、恋する女のような表情で。 何が、真か。 「ヒロインさんは、何処からやって来たんで?」 「あ…、そっか、最終話は大正っぽかったし…薬売りさんはタイムリープとかできるのかな?…えっと平成です、知ってますか?」 「…いいえ、存じません」 居所ではなく、時の流れの話をしている、のか。 嘘を吐いているようにも到底見えぬが。 「ヒロインさん…、そのへいせいとやらには、帰らなくても?」 「え!…うん、だって、まだ薬売りさんといたいもん」 「なる、ほど…では、帰り方はご存知で?」 「帰り方っていうか…、起きればいいだけだよね?」 「………起きてるじゃあ、ないですか」 こんなにもしっかりと大きな目が開いて、俺と言葉を交わしているではないか。 だが起きてると言えばヒロインは「まぁそうなんだけどね」と楽しげに笑った。 …確かに、突如此処へ現れたはずのヒロインだが、状況に驚愕することはなかった。 自分が眠っていると思っている故に、か…。 とにもかくにも、おそらく、ヒロインは。 怪や、モノノ怪の類いでもなければ。 この世界の人間でも、ない。 夢の中で生きる女。 …さて、どうしたものか。 「――…俺のせい、ですかな」 「へ?なにが?薬売りさんのせい?」 「今し方、…いい女を、抱きたいと、思っていたところで」 「え!?」 「呼びよせちまいやしたか」 「薬売りさんってば、もう!でもそんな薬売りさんも好きー、くすくす、好きなだけ抱いてください」 ヒロインが俺の前に現れたことにだって、きっと何かしらの理があるはずなんだ。 今のところ、見当たるのは、ヒロインが俺に想いを寄せているということ。 だが、何故。 知りもせぬ俺のことを、このように。 本当にそんな想いだけで、俺の前に現れたというのか。 「それにしても…ヒロインさん、なに故に、慕ってくださるのですか」 「なぜって…、だって、本当にあなたの全てが好きなの、穏やかな薬売りさんも、戦う薬売りさんも、」 「戦う…?俺はただの、薬売り、ですよ」 「でもモノノ怪と戦ってるときの薬売りさん、超かっこいいし」 「……知って、いるのか」 するとヒロインは、今までの笑みよりも尚、ふんわりと柔らかな面で。 「もちろん、毎日見てるもん」と、俺の顔を覗き込んだ。 またもや、奇っ怪な。 見てる。 何を。 俺、を? だがこれだけ妙でも、ヒロイン自体から不気味なものは一切感じられず。 寧ろ、澄んだ純粋な想いが、ひしひしと伝わってきて。 ますます放っておけぬような。 「…ではヒロインさん、今夜はどのように過ごすおつもりで?」 「んー…、ふふふ、薬売りさんに抱かれながら?」 「ほぉ…、そいつはいい」 「あはは、いいの?」 多分、帰る処などなかろう。 お節介が過ぎるかも知れんが。 何の因果か、この縁。 幾ばくか、付き合ってみようじゃねェか。 「では…ヒロインさん、行きますか」 「うん?何処へ?」 「俺一人でしたら、野宿でも構わなかったのですが、ね、」 「私も薬売りさんさえいてくれたら、野宿でも全然大丈夫!」 「ふ…、そういうわけにはいきません」 立ち上がり、ヒロインに手を差し出す。 ヒロインはまたうっとりと俺を見つめて。 少し躊躇しつつも、俺の手に手を重ねた。 ヒロインも立ち上がり再び同じ目線。 「ありがとう、薬売りさん」 「いいえ」 「は…!でも薬売りさん…今気付いたんだけど、私裸足のようです」 「おや…」 やはりヒロインはこの世界の人間ではないのだろう。 立ち上がったヒロインをまじまじと見れば、装束もそれを物語っていた。 「此処では…見慣れぬ、なりだ」 「あ、今日着てた服そのまま…、裸足なのは家の中だったからなのかなぁ?そこまで反映されなくてもいいのに…」 「裸足の訳は分からぬが…履き物は、とりあえず俺のものを、」 「薬売りさんの?」 「はい、もう一足…ありますから」 「あ!薬箱!薬売りさんの薬箱だー!」 隣に置いておいた薬箱の中から、ヒロインに履かせる下駄を。 ヒロインは瞳を輝かせ、俺が薬箱を漁る様を眺めた。 「では、どうぞ」 「わー!すごい!やっぱり薬売りさんの薬箱って何でも出てくるんだね、ふふ、四次元ポケットみたい」 何がそんなに嬉しいのか…、嬉々とするヒロインの足元へ、下駄を揃える。 「転ばぬよう、お気を付けて」 「はい」 「参ります、か」 「はーい」 「着物は明日、調達しましょう」 …明日、と言ってはみたものの。 明日もこの女は姿を成すのか。 分からぬ、が。 「あの、薬売りさん…」 「はい」 「手を、繋いでもらっても…いいですか?」 ヒロインより一歩先を歩き出したところ、呼ばれたので振り向けば。 ヒロインは恥じらいを含みつつも、真剣、かつ不安げな顔で問うた。 冗談めかして、抱いてくれとは、容易に口にする癖に。 だがそのちぐはぐさに、何故だか従ってやりたくもなっちまって。 「…いいですよ」 「ほんと!?やった、薬売りさん優しい!ほんとにだいすき」 俺の前に居る限り、受け入れてみようぞ。 02 ← top ← contents ×
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