静かな夜に、時折枯れ葉が地を這う乾いた音。 独りで眠る夜がこんなにも淋しいなんて思わなかった。 ―――事の発端は数日前。 この界隈に足を踏み入れたとき、薬売りさんが立ち止まった。 そうして退魔の剣も動いた。 私は何の気配も捉えることができなかったけれど、薬売りさんを見てればモノノ怪だってすぐに分かる。 何かを考え込む薬売りさんの横顔を黙って見つめていた。 数秒の間の後、薬売りさんも私の顔を見て「…ヒロインさん、少しばかり、厄介なことになりそうです」と言った。 「厄介なこと…?強いモノノ怪…?」 「まぁ……、どいつも簡単に斬らせては、くれないでしょうね」 「ぇ…?どいつも?」 「はい…複数、感じるんですよ」 「てことは…モノノ怪が、たくさんいるの?」 最初は同じ場所に複数のモノノ怪がいるのかと思った。 けれどよくよく聞けば、気配を感じる場所は一ヶ所ではないみたいで。 広く見て、この辺りの数ヵ所に別々のものの存在を感じるらしい。 もちろん薬売りさんでもそれを同時に斬ることはできないし。 「一日で全てを斬って歩くことも不可能でしょうね」とのこと。 「…そっか、じゃあ何日もかけて一つ一つ斬るんだね…」 「そういうことになりますねぇ…」 「それは…薬売りさんに大きな負担が掛かったりしない…?」 どうしても真っ先に気になってしまうのは薬売りさんのこと。 多分そんな気持ちはすぐに顔にも表れてしまう。 すると薬売りさんは僅かに目を細め優しい顔をして、私の頬をそっと撫でた。 「俺の心配は無用ですぜ、為すことはいつもと変わりません」 「ん…」 撫でてもらった自分の頬が妙に愛しくなった。 「ですがヒロインさん、一つだけ、提案が、」 「うん?なあに、薬売りさん」 「この辺りの何処かに拠点を置こうかと思うのですが」 「拠点?」 「その方が俺も効率良く動けますので」 「そっか、わかった」 そういうことなら私は薬売りさんに従うまで。 だから早速拠点探しを実行に移した。 今までは旅をしながら、モノノ怪の居る場所には立ち寄っていたから、拠点を作るというのは初めてのことだった。 でもこの辺りは小さな村みたいで。 「どこかのお宿に何泊かするの?」 「そうですね、それでも良いのですが…、この辺りにあるかどうか……とりあえず聞いてみましょう」 宿屋さんらしきものは見当たらないから、薬売りさんは目に入った民家に入っていった。 中にいたのは感じの良さそうな中年の女性。 薬売りさんが「行商をするのに暫しの間拠点にできる場を探しているのですが…」と仮の事情を説明すれば。 丁度隣の隣が空き家になっていることを教えてくれて、村長さんに口利きまでしてくれた。 結果、とんとん拍子でそこの空き家が借りられることになった。 そんな話をしているうちに近所の人も出てきたから、薬売りさんは暫く世話になることを告げた。 最初に話したおばちゃんや村長さん含め優しい人達ばかりみたいで、暖かく迎えてくれた。 その上生活に必要な最低限の物も持ち寄って貸してくれた。 時代模様、土地柄を感じる。 「それから…私が行商へ行っている間、妻が一人になっちまいますので…、」 「ああ、分かってるよ!お嬢ちゃん、何かあったらいつでも声を掛けておくれ!」 「困った時はお互い様だからね!」 「ぁ…!お世話になります、よろしくお願いします」 今この瞬間からこの村では、私は薬売りさんの妻になった。 時々、場面によっては必要に応じて薬売りさんの妻を演じる。 まぁ…普段から夫婦と呼んでもおかしくないような生活もしてるし、お互いの気持ちもそれで問題ない。 でも薬売りさんの口から妻と紹介をされることは、何度されても照れくさくてほんのり頬が染まってしまう。 けれどそんな幸せ気分とは裏腹に、今の言葉から発覚したことが一つ。 薄々そうなんじゃないかと思ってたけど……、今回は私はここで待たなければならないらしい。 付いて行ったって何かができるわけじゃないのは分かってる。 でもいつだって傍にいたい気持ちはやまやまだから。 「薬売りさん…私お留守番なの…?」 村の人へ改めて挨拶も済ませ、暫く暮らすことになった家へ入って二人きり。 薬売りさんを見つめ、言葉にし確認してみた。 「ヒロイン…」 私を瞳に写した薬売りさんは、眉を下げ少しだけ困ったような、でもさっきみたいに優しい顔。 私の手首に腕を伸ばして掴み、私を引き寄せつつ。 「…そんな顔をしないでください、」 離れがたくなっちまう…、と。 私を腕の中に収めながら、独り言みたいに耳許で呟いた。 「薬売りさん…」 「拠点があるのなら…わざわざ、危険の伴う場に、あなたを連れて行きたくはないのですよ」 「…うん」 こんなふうに幸せな言葉をもらっているのだから、でも、とか、だって、とか、これ以上口にするのは愚かしい。 「…いつも、大切にしてくれて、ありがとう、薬売りさん」 「はい、当然ですよ」 今となっては慣れた腕の中だけど。 小柄で華奢な見た目よりも、ずっとずっと男らしいことを知っている此処。 此処がどんなに心地がいいか思い知った。 「いい子で待っていてくださいね、」 「ん…大丈夫だよ」 待つ私にできることは、薬売りさんに心配を掛けないようにすることだ。 何処にいたって想う気持ちは変わらない。 だから笑顔で見送って、帰ってきた薬売りさんのことも笑顔で迎えたいと思った。 一緒にモノノ怪に立ち向かうことができなくても、私も薬売りさんにとって心休まる場所でありたいよ。 「ではヒロインさん、行ってきます」 「いってらっしゃい、薬売りさん」 もうすぐ黄昏時。 薬売りさんは休む間もなく一つ目の目的地へと出掛けていった。 その夜私はとても久しぶりに一晩中独りで過ごした。 張り詰めた気持ちが私を気丈に保たせてくれた。 何よりも案ずるのは薬売りさんの無事。 次の日は、徹底的に家の掃除をして忙しなく過ごした。 外へ出ればご近所さんが誰かしら声を掛けてくれるし、暖かな気遣いも感じて、独りぼっちではない環境がありがたかった。 それから薬売りさんは宵闇と共に帰ってきた。 「ヒロインさん、今、帰りましたよ」 「薬売りさん!おかえりなさい!」 ほっとして、嬉しくて思わず抱き付けば。 薬売りさんは「おやおや…早速ですか」なんて言いながらも、私を離さずに優しく髪を撫でてくれた。 この日は、夕べは独りで眠った布団で、薬売りさんの腕の中で安心して眠った。 この場所で共に眠った思い出が増える。 翌朝、薬売りさんはまた次の目的地へと向かっていった。 私は日常生活をこなしつつ、薬売りさんの帰りをひたすら待った。 近所のおばちゃんが分けてくれた食材で夕飯は二人分作ったけれど、一緒に食べることはできなかった。 夜も更け始めそろそろ布団に入ろうかと思った時に、薬売りさんが帰ってきた。 私はまた笑顔で薬売りさんに飛び付いて。 「ヒロインさん、変わったことはなかったですか」 「うん!大丈夫」 「ふ…そのようですね」 「ん?」 「ヒロインさんがとてもいい笑顔ですので、」 「あ…ふふ、だってすごく嬉しいんだもん」 「はい、俺もあなたのその顔が見れると安心できます」 薬売りさんは優しく私を受け止めてくれた。 この晩も安堵できる香りに包まれて眠った。 そうして、三度目のお見送りの朝。 遠ざかっていく、薬箱を背負った背中は、何度見ても愛しくて仕方ない。 けれど今回は今までの二回とは少し違っていた。 一晩待っても、二晩待っても、薬売りさんは帰って来なかった。 今夜は三日目の晩。 なんとか強く維持できていた気持ちだけれど。 薬売りさんが心配で不安も募って、今夜は心細くて仕方ない。 きっと明日までには帰ってくるだろうと言い聞かせながら布団に入った。 でも今夜も冷たい布団に涙が込み上げてきた。 同じ布団でも、薬売りさんの腕の中で眠った夜はあんなにあたたかかったのに…。 ああ…だめだ……。 薬売りさんに抱き締められる癖のある向きで横になったけれど、いない事実を余計に痛感して。 寝返りを打ち、薬売りさんの幻像に背を向けた。 途端、閉じた瞳から涙が零れ始めた。 「……さむい…」 布団の中で縮こまっても、一向にぬくもりも宿らなくて。 今日の昼、薬売りさんが帰ってこないことを気に掛けてくれた隣の家の人に「夜が寒くて」と少し弱音を漏らしてしまったら、湯たんぽを貸してくれた。 それに足を付けてみたけど、それでも冷えが和らぐことはなかった。 …情けない。 笑顔で待ってるって決めたのに。 薬売りさんも私の笑顔が安心できるって言ってくれたのに。 何もできない私が泣くなんて、自分が情けない。 明日はまた笑って待っていられるように、とりあえず今夜は早く眠ってしまおう。 泣きながら固く瞼を閉じた。 すると、その時。 静かに戸の開く音がして、高下駄が脱ぎ捨てられる気配。 すぐさま襖も引かれて。 「――…ヒロインさん、」 投げ掛けられる柔らかな声に薬売りさんが帰ってきたことを確信する。 良かった…薬売りさんが無事に帰ってきた…! でも安堵したら更に涙が溢れてきてしまって。 「くすりうりさん…!おか、おかえりなさい…!!」 「……ふ、」 こんな顔を薬売りさんに見せたくないから。 必死に涙を拭いながら、まずはおかえりなさいだけ伝えた。 焦って少しどもってしまえば、薬売りさんは優しく息を吐いた。 薬売りさんも布団の中に入ってきて、頭上付近に薬売りさんの片腕が置かれそこに薬売りさんの頭も。 すぐ傍で呼吸を感じてまたほっとする。 そしてもう片方の腕は私の体を包むように回され、後ろから抱き締められて。 ぬくもりに覆われた。 「…あったかい……」 口を衝いて出た感情。 お疲れさまとか怪我はない?とか、もっと他に言いたいことも聞きたいこともたくさんあったのに。 「…三日、淋しい思いをさせちまいましたね、」 「ううん………だい、じょうぶ…、薬売りさんこそ、大丈夫だった…?」 「はい、俺も大丈夫ですよ」 私が泣いてるのなんて、きっと薬売りさんもとっくに気が付いてる。 「…ヒロインさん、手も、足も、冷たい…ですね」 「ん…、寒かったの、でももう大丈夫」 「そうですか……、おや、ですが…湯たんぽが…」 「あ、それね、今日世間話したときにお隣さんが貸してくれたんだ」 「ほぉ…お隣さんが、ねぇ……、だがヒロインさん、隣は確か若い男でしたよね」 「そうだけど……もしかして薬売りさん、あらぬことを心配してる?」 「明日…さりげなく釘を刺しておくべきか…」 「ふふ、やめて、せっかく良好なご近所付き合いが、」 薬売りさんは離れてた時間なんて感じさせないような口調で、私に安らぎをくれる。 嬉しくなって泣きながらくすくす笑った。 久しぶりの薬売りさんに、取り戻される熱。 「では、ヒロインさん、」 「なぁに、薬売りさん」 「そろそろ顔を見せてはくださいませんかね…?」 「ぁ…、あのね、もうちょっとだけ、待って、ください…」 「ふ……泣いて、いるから?」 やっぱり気付かれてる。 胸の前に置いていた手に、薬売りさんの手のひらが宥めるように重なった。 指の間に指を絡めれば、そっと握り返してくれた。 素直に気持ちを口にする。 「…うん、だって笑顔で迎えたかったの、薬売りさんも私の笑顔が安心するって言ってくれたでしょ、だから…」 「あぁ…はい…言いました、が…申し訳ありません」 「うん?」 「実際のところは、どうでもいいようです」 「…?え?…薬売りさん、私の笑顔、どうでもいい…?」 「はい、どうでもいいです」 「…!!」 笑顔がどうでもいいって…。 安心できるって言われた時は本当に嬉しかった。 けど今はあからさまに否定をされて、衝撃が隠しきれないっていうか…。 薬売りさんにとってはどうでもいいものだったなんて。 私一人で空回ってるのかな。 淋しかった情緒不安定さも作用して、驚きの発言にまた涙が溢れそうになった。 でもそんな私とは相反して、薬売りさんはくつくつと笑い始めた。 「何か…勘違いを……、」 「…うぅ…だって……、かんちがい…?」 「俺がいなくて淋しかったから、泣いていたのでしょう?」 「そうです…」 「だったら、やはり、どうでもいい」 薬売りさんの低音で発せられる、どうでもいい、が、ぐさぐさと胸に突き刺さる。 こうなってくると離れてる間に薬売りさんの心境に何か変化があったんじゃないかと心配にもなってきちゃう。 触れる体温はこんなにも愛に満ちていて、疑う余地もないと思わせてくれる程なのに。 「ヒロイン、」 薬売りさんが少し上体を起こし、顔を覗き込もうとしていることを感じた。 呼ばれた私の名も穏やかに響いたけれど。 何を言われるのかと思えば、ちょっとだけ身構えてしまう。 でも私の心配もよそに。 目尻に、薬売りさんの唇が、涙を掬うように触れた。 「っ…、」 「笑っていても、泣いていても、ヒロインならば、何だっていい」 「ぇ…?」 「だからどうでもいいんです、早く顔を見せてください」 薬売りさんの行動と台詞におもいっきり気が抜けた。 それは私の想定よりも遥かに幸せな愛情だったということ。 そうしてされるがままに腕を引かれて。 向きを変えれば、端麗な落ち着いた笑みと目が合う。 「ただいま、ヒロイン」 「薬売りさーん…おかえりなさい!」 改めて言葉を交わす。 薬売りさんは、涙でぐちゃぐちゃな私のことだって、愛おしそうに見つめてくれたから。 首に腕を回して縋れば、しっかりと抱き締めてくれた。 やっぱり、此処がいい。 だって、ほら。 「一刻も早く、会いたかったんですよ」 「私もだよー…!薬売りさん」 あんなに物悲しかった夜が、もうこんなにも優しいよ。 「…なのに、顔を見せぬという加虐性愛を発揮させられるとは……」 「あは、違う違う、そんなつもりじゃなくて」 「少し…仕置きが、必要ですかな」 「!、いらないいらない、大丈夫です…!」 ▼50万打企画で書かせていただきました。 魔法にかかる腕の中 ← top ← contents ×
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