私にはとても愛しいひとがいる。


だけど今、何故だか思い出せなくて。


名をなんといっただろうか。


そもそも名なんてあったのだろうか。


凛とした姿で、高下駄を鳴らして歩く。


端整な顔立ちに着物を着て、柔らかな髪を靡かせて。


低く柔らかく穏やかな口調。


でも時に力強く。


そして時に甘く。


「――…   」


私の名を呼ぶ声が、大好きだった。


でもその声は消えた。


こんなにもはっきりと、愛しく想う気持ちはあるのに。


私を呼ぶ声は聞こえなくなった。


そのことを筆頭についさっきまで想うことができた他の部分もぼやけ始めた。



愛しいひとに呼んでもらえた名は、なんという名だったろうか。


呼ばれなくなった私は名を失くした。


部屋の片隅に置かれていた鏡台に姿を写す。


けれどどうにもピンと来ない。


私はこんな姿をしていたのかな。



どうして独りで此処に…。


その瞬間、鏡の中の私は涙を流した。



此処は何処なんだろう。


愛しいひとは何処へ行ってしまったんだろう。


愛しいひとは誰なんだろう。


私は、誰なんだろう。



そうして私の記憶はさらに霞んで、終いに消えた―――。





消えた。


ヒロインが消えた。


昼を済ませた食事処を出て程なくして、ヒロインの草履の鼻緒が切れた。


応急措置をしても良かったが、幸い店も立ち並ぶ通りだったこともあり、新しい物を調達することが最善だと考えた。


都合よく置かれていた長椅子にヒロインを座らせ。


「すぐに戻って来ますから、少しだけ待っていてくださいね」と告げた。


さすればヒロインは微笑んで「ありがとう、薬売りさん、いってらっしゃい」と言い手を振った。


しかし戻った時、ヒロインの姿はなく。


悪い予感だけがした。


第一ヒロインが俺の言いつけを破り単独で行動するとは考えにくい。


まるで神隠しのような出来事に、一瞬にして平常心を失いそうになった。


気が狂っちまいそうな心地だ。



だがその時、妙な気配を感じた。


ヒロインを置いていった長椅子の向かいの民家。


先程まではなかった空気が漂っている。


モノノ怪ではないが、おそらくこの世の物でもない。


こうなってくると必然的にヒロインが消えた原因もあそこにあると思えた。


とは言え姿を確認するまでは安堵などできるわけもなく。


許可も取らず戸を開け、中へ入った。


すると囲炉裏の奥に細身の男が座っていて。


細い切れ長の目で俺を見た。


口を衝いて出た問い。


「―――あんた、何者だ」

「おや、それはこっちの台詞だがね」


俺の問いに男は口角を吊り上げ、さぞ愉快そうに笑った。


まるで俺がこうしてやってくるのは想定の内だったかのように。


ひどく不愉快だった。


男と呼んでいいものかも分からん存在。


「妖…が、一体何をしている」

「アヤカシだって?そんなことをいきなり問うあんたはやっぱり何者だい?」

「聞いていることに答えろ」


余裕がない。


言葉を交わす時間すら惜しい。


おそらくこいつはモノノ怪になり損ねた妖。


恨み、憎しみ、哀しみ、怒り、モノノ怪を成すそういった類いのものがこいつにはない。


ただ人間をからかい惑わせ楽しんでいる。


故に斬ることもできん。


「私は別に…ここで静かに暮らしているだけの男ですがね」

「嘘を吐け、女を隠しただろう」

「へぇ?女?」


言いながら男は奥の襖へちらと視線を流した。


あそこにヒロインがいるのか。


だがヒロインがいるならば、俺の声に気付き動きを見せなければおかしいとも感じる。


はたまた身動きが取れず声も出せぬ状況か…?


だとしても何の気配もせず、雰囲気すら変わらず、全くの無反応であることが不可解だった。


得も知れぬ焦燥がじわりと広がっていく。



「女ねぇ…そこの奥の部屋にいるけれど、あんたの探している女ではないんじゃないかい」


この状況と、相変わらずにたにたと笑う男に無性に腹が立ち。


力任せに男の薄っぺらい着物の襟をぐいと掴んだ。


「なにをするんです、乱暴な人ですねぇ」

「お前やはり………ヒロインに何をした」


尚も男は卑しい笑みを崩さぬが。


男が身動いだ刹那、ふわりとヒロインの香りが舞った。


意識せずともそれはすかざず捉えることができた。


きっと俺でなければ気付かない程度の僅かなものであったが、確実にヒロインの残り香だった。


自然と凄むような声が腹から出た。


が、男の態度は変わらず。


「…埒が明かん」

「だったら開けて確認してみたらいいですよ」

「言われずともそうする」


突き放すように男の襟を掴んでいた手を離した。


何、故、そこまで薄気味悪く笑えるというのだ。


此処にはヒロインがいないという自信からか。


だが今までのやり取りからこの男が一因なのは一目瞭然で。


とにかく無事でさえあってくれればいい。


祈るように、襖を引いた。


すると目に入ってきた光景は。


「――…だれ、ですか…?」


ヒロインではない、見知らぬ女。


先刻まで涙を流していたのだろうか。


そんな面持ちで、部屋の隅で怯えていた。


顔の造りは何処となく男に似て。


声も随分としゃがれている。



しかし。


座る姿が描く曲線、言葉の流れ。


姿形は違えど、俺の胸を締め付けた。



「ひひ、この不細工はあんたの探している女ではないだろう?」

「うるさい」

「な…!?」


変わらぬ位置から楽しげに傍観していた男の顔めがけ、札を一枚放った。


すると男は顔に張り付いた札を取ろうと藻掻き始めた。


が、札の力が効いているのだろう。


手は空を切るばかり。



これで静かにこの女と向き合える。


「恐れることは…ありませんよ」


声を掛けながら近付き、薬箱を下ろしてから女の前で膝をついた。


間近で見る女の顔はやはり泣いていたようだった。


ただ今は、涙も、怯えた態度も失せ、細い目で真っ直ぐに俺を見ている。


「何故、泣いていたのです」

「…いとしいひとが、消えてしまったの」


おもむろに言葉を並べ出した女だったが。


「ほぉ…消えてしまった、とは…?」

「…よくわからない、でも、とにかくいなくなってしまったの…」


…余裕が、できた。


確信できた訳でもないが、女が纏う空気の範疇に居座り。


紡ぐ言葉を聞き、安らいだ。



無事でさえあればいいのだから―――。



“何処が無事なんだ、姿も声も変わっているではないか”


金色の着衣をはだけさせているもう一人の声が脳内で響いた。


それは妙に冷ややかであった。


“それに俺達のことも記憶から抜け落ちている、これの何処が無事なんだ”


そんなことは俺だって分かっている。


だがいいんだ、本当に。


それにお前だって既にこの女をヒロインだと認めているではないか。


金色の男にも“うるさい、ですよ”と言い放ち、意識を目の前の女――ヒロインだけに集中させた。


「…ヒロイン、」

「っ…」

「忘れちまいやしたか、俺のことも自分のことも…」


きちんと正座をし、目線を合わせ語りかける。


呼べばヒロインは眉を下げ俺を見つめた。


自分の名すら忘れているようだ。


しかし最初に見られた怯えはその後一切表れることなく。


寧ろ俺が傍にいることで、ヒロインもまた安らいだような。


「容姿すら別人にされてしまったのだから無理もない……だが、俺には分かりますよ」

「わかる…?」


それはヒロインの中にも俺が根強く存在している証拠だろうと思えた。


全て忘れ、姿が変わろうと、ヒロインの根本はヒロインのままである。


「あなたはヒロイン、俺の大切な女だ」


言えばヒロインの頬は紅く染まった。


通常、このようなことを見ず知らずの男に言われたら、疑心が生まれるだろうが。


ヒロインの反応は慣れ親しんだものであった。


「…でも私、何も覚えてなくて…」

「良いのだよ…すぐに思い出せなくとも」


ヒロインの髪を優しく撫でる。


「そうですね…もし永遠に思い出せなかったとしても、それでも良いのです」


ヒロインはただ俺を受け入れようとしていた。


俺の言葉に真剣に耳を傾け、頷く。


「それでも俺はあなたに愛想を尽かすことなどないですし、」


おかしなものだ。


見た目は全くヒロインではないのに。


ちょっとした仕草も愛おしく。


「あなたは俺に恋をする、自信が…ありますから」


思わず見知らぬ形をしたヒロインを抱き締めていた。


そうして更に強く確信した。


深く感じる香りも温度も間違いなくヒロイン、そのものだった。


「…ヒロインさん、俺のことを呼んでくれませんかね、薬売り…と、」

「…くすりうり、さん…?」


案の定ヒロインは俺を拒まない。


掠れがさがさとした声が、俺を呼んだ。


聞き覚えのない音だが、やはりこの発音もヒロインだけが持つ流れで。


脳内でも独りでにいつものヒロインの声に補完されていた。


呆れた顔をして―――、だが呆れを上回る程の安堵を感じているような金色の男も今一度だけ垣間見えた。


「…案ずることは、ありませんぜ」


立ち上がり薬箱を背負い直してから、ヒロインに手を差し出す。


「何処へ…?」

「俺と共に旅をするのです、…厭ですか?」


ヒロインは悩む素振りも見せず首を横に振って、俺の手のひらに手をそっと重ねた。


華奢な手を握り返せば、俺に手を引かれ立ったというよりも、自ら立ち上がった。


「その前にヒロインさん、少しだけ待っていてくださいね」

「くすりうりさん…」

「ああ…大丈夫ですよ、この手はもう、離しませんから」


待っていてほしいと言うと、ヒロインは大層不安げな顔をした。


俺と離れる前に俺が置いていった台詞と同一のものだったからだろう。


潜在意識から不安に駆られたようだ。


「先に…そこの目障りな男を始末しないといけません」

「ぁ…」


妖の男に話題が移ると、ヒロインの瞳には再び怯えが宿った。


何かをされ、此処に連れてこられ、記憶さえも失い。


俺を忘れ、独りになり。


怖くなかったわけがない。


ヒロインにされたことを改めて思い、もう一度激しく沸き上がる腹立たしさ。



「許せぬ…」

「貴様…!何を…!!」


男はのたうち回り、それでもまだ一枚の札すら対処できておらず。


体力も消耗したのだろう、息も絶え絶え言葉を口にした。


斬ることはできぬが、札は効く。


「やめ……ッ…!!!」

「二度と、このような真似はするな」


いっそこいつはモノノ怪になればいい。


自由を奪った俺を憎み恨んで。


そうしたら俺が、形も真も理も暴き。


斬れる。


ヒロインとは繋いでいない方の手で、男の全身に札を張り巡らせ男の動きを封じた。



そうすれば、次の瞬間。


「薬売りさん…!!」

「…!、ヒロイン…」


ヒロインは元の姿に戻った。


先程までの記憶も持ったまま、消されていた記憶も鮮明に蘇ったのだろう。


目が合えばヒロインは俺の首に腕を回し抱き付き。


「薬売りさん…怖かったよー…!!ありがとう、助けてくれて」

「もう、大丈夫ですよ」


子供のように泣き縋ってきた。


ヒロインでさえあれば良かったことは、偽りのない事実であったが。


全て元通りになるに越したことはない。


何処までも愛おしくて、堪らない。


泣きじゃくるヒロインの背をさすりヒロインが落ち着きを取り戻した所で、少し早いが最寄りの宿に入った。


二人きりになれば、ヒロインは早速俺を求めた。


未だ潤んだ瞳で俺だけを見て。


「薬売りさん、キスしたい…」


おそらく今日感じた恐怖を埋める為。


俺とて胸が苦しくなる程にヒロインを欲している。


故にヒロインの肩に腕を回しつつ顔を近付けた。


だが感情のままに動いたらつらくさせちまいそうだったから、できるだけ優しく愛でるよう自身に言い聞かせ。


唇を奪い、舌を絡ませた。


邪魔な衣服は剥ぎ取って素肌で重なる。


無我夢中で求め合った。


何度も何度も口付けを交わしながら、ヒロインの中でヒロインを感じる。


「薬売りさん…、あなたの目に写る私は、いつも通り…?」

「…当然であろう、知り尽くしたからだだ」

「ん、薬売りさん、好き…大好き…、もっと」


ヒロインは何もかもが蕩けていきそうな心地だった。


このまま今日の出来事も溶け出して消えてしまえばいいと願う。


そして同時に、ヒロインは俺が感じた恐怖も見通して。


俺の動きに柔順に応じ、何度も求め、俺を癒そうとしているようにも思えた。


その気持ちにも甘え依存し。


「ぁ…はぁ…くすりうりさん…!またイッちゃう…!」

「ああ、ヒロイン…ちゃんと見ているから、」

「んっ…薬売りさん…!!」

「ッ…」


ヒロインを執拗に果てさせ。


ヒロインが更に迎えた絶頂の締め付けに触発され、吐精した。


互いに呼吸を整えながら、それでも尚、緩やかに唇は重ねつつ。


「はぁ…くすりうりさん…」

「はい」

「薬売りさんの声、やっぱりすごく好き…」

「ふ、知って、いますよ」


ゆっくりと言葉を交わす。


「でもね、さっきは…薬売りさんの声から忘れちゃったの、すごく哀しかった」

「まぁ確かに……人の記憶は、声から忘れていく説がありますので」

「そうなんだ…、こんなに好きなのにな…」

「ですがヒロインは、記憶がない中でも俺の声にも惹かれていたのでしょう?」


だから、あの状況でも俺を拒まなかったはずだ。


耳許で囁いてから、顔を覗くと。


ヒロインは慈しむように目を細め、俺を見つめた。


「…薬売りさん、ありがとう」

「うん…?…礼を言われるようなことは何も…」

「ううん、だって私別人だったのに…、それなのに薬売りさんは気付いてくれたでしょ」

「ああ…こんなにも愛おしく想える存在は、この世でヒロインだけですからね」

「ん…ありがとう、薬売りさん…」

「だから、これからも安心して俺に、」


大切にされてください、そう告げれば。


ヒロインは心から幸せそうに頷いて、また俺を求めた。


もっともっと互いに記憶を刻み込んでと言わんばかりに。



いとほしい。



名を呼んで、呼び返されて。


気が済むまで耽溺する。


この感情を、持て余すことのないように。




▼アンケートを参考にさせていただきました。




いとほしい

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