暫くの間、拠点として借りている家で、今日も薬売りさんの帰りを待っていた。


表の掃き掃除をしていると、特によく気に掛けてくれるおばちゃんが、声を掛けてくれた。


「ヒロインちゃん、今日も寒いわねぇ、明日は立春だっていうのに」

「はい、本当に、毎日寒いですね」

「それでね、さっきお豆を煎ったから、良かったら使って」

「へ?……あ、そういえば節分ですね!」

「あはは、やぁねぇ、ヒロインちゃん!旦那のことばっかり考えてて日付も忘れちゃったのかい」

「ふふ、ついうっかりしてました」

「薬売りの旦那も今日辺り帰ってくるんじゃない、それじゃあね」

「ありがとうございます」


おばちゃんは升を渡して帰っていった。


ありがたくいただいて、掃除を済ませてから私も家の中に入った。


座卓の上に升を置いて、ぼんやりと眺める。


「…帰ってくるかな……」


やっぱり何事も薬売りさんと一緒にできることが何よりだし、とりあえず夜まで待つことにした。


次第に陽も傾き始めたから、先に夕飯の支度でもしようかと腰を上げた。


薬売りさんがいつ帰ってくるかは分からないけど、二人分。


薬売りさんの分が薬売りさんの胃に収まることがなかったとしても、私が明日食べればいいだけだし、夕飯は毎日二人分作るようにしていた。


今夜は何にしようかと考えつつ、使いこなせるようになったと言うにはまだ不安の残る台所へと向かった。


だけどその時、戸が開いて。


「ヒロインさん、」


振り向けば大好きな姿。


「薬売りさん!」

「ただいま、ヒロインさん」

「おかえりなさい」


こうなると夕飯の支度は後回し。


嬉しくていつもみたいに抱き付こうとした。


でもそれよりも先に、薬売りさんが手にしているものに意識は奪われた。


「薬売りさん、それ…」

「はい、節分ですので」


指をさし確認をすれば、薬売りさんは小さく笑んだ。


そして手に持っているそれ―――鬼のお面を軽く上げた。


「帰り道で見掛け、あなたが喜ぶかと思いまして…ね」


私が独りでいる間、薬売りさんのことを考えているように、薬売りさんも独りの時間に私のことを想ってくれていたのかと思えば、一層大きな幸福に包まれる。


胸がいっぱいになり、ただうんうんと頷くしかできないでいると、きっと私の気持ちなんかお見通しな薬売りさんは柔らかく瞳を細めた。


それからお面に視線を移し、でも…まぁ…、と続けた。


「もしヒロインさんに鬼が襲ってきたら俺が斬っちまいますんで問題ないですが…」

「ん…そうだね」


今薬売りさんが言ったシーンは容易に想像することもできて、寄り添いながらくすくすと笑った。


そもそも薬売りさんにとっては、きっと興味のない事柄だし、意味もない。


でもこうして帰ってきてくれるのは―――。


「だけど行事としては楽しみたいのでしょう」

「ありがとう、薬売りさん」


全部私の為だ。


本当に嬉しくて、さっき抱きつきそびれた分も込めて、ぎゅうって腕を回した。


薬売りさんが優しく息を吐いた気配を間近で感じる。


「薬売りさん、あのね、ご近所さんがお豆をお裾分けしてくれたの」

「そいつぁ丁度よかった、では、少し早いですが……今先にしちまいましょうか」

「うん!」


まだこのままこうしていたい気持ちがないって言ったら嘘になるけど、薬売りさんの言う通り準備も整っていることだし、今は豆まきが優先だ。


薬売りさんから離れ升を手にすると、薬売りさんは飄々と鬼のお面を被った。


「あ……薬売りさんがつける、んだよね…」

「何か、問題でも?」

「んーん…問題ってわけじゃないんだけど…」


用意してくれたってことは、薬売りさんは最初から自分が鬼をやってくれるつもりだったんだろう。


お面だってこれが正しい使い方だし、知ってる節分もこれだ。


でも。


「ではヒロインさん、どうぞ」

「鬼は外、だね…、…鬼は………っ、」

「ヒロインさん?どうしました?」

「やっぱり、だめ…!」


鬼は外、そう言いながら薬売りさんに豆をぶつけようとした。


けど、いくら鬼のお面をしていようと大好きな薬売りさんには変わりなくて。


私が躊躇していると薬売りさんはお面を上へとずらして、不思議そうな顔。


ますます、だめ。


「こんなに素敵な薬売りさんに向かって物を投げ付けるなんてできない…!」

「ふ…そうですか」


まさかこんな理由で豆まきができないなんて自分でも驚き。


もしもここに小田島さんがいたなら、なんと馬鹿げた理由だ…って呆れられてしまいそうな事態だと自分でも分かる。


だけど体が拒否してる。


「だったら今はもう必要ないであろう……」


それに、そんな私を見て、薬売りさんも満足げに鬼のお面を外した。


「ヒロインさん、その升を貸してください」


お面を置いた薬売りさんは今度は升に手を伸ばしたからそのまま手渡す。


理由は分からずに、薬売りさんの手元を眺めていると、薬売りさんは中のお豆を指先で摘まんで。


「福は、内」


そう言って私の手のひらに置いた。


ころんと転がる一粒のお豆に思わず注いでしまう視線。


「俺の福はここにありますから…」


でも今の薬売りさんの台詞に反射的に顔を上げれば。


「あなたを幸福にするのは俺ですし……わざわざ呼び込む必要もない」


自信に満ちた薬売りさんの表情が、どうしようもなく幸せだった。


手のひらの、ただの一粒のお豆だって、これだけでもう特別。


「我が家の豆まきはこれにて終いです」

「ふふふ、あっという間」


鬼や邪気も怖くない。


二人なら、在るもの全てが幸福に染まっていくんだ。




「でもせっかく薬売りさんが用意してくれたお面なのに使えないのも寂しいから……床に置いてお豆だけ投げようかな」

「いや……、でしたらヒロインさん、一旦これを持ち外へ出ましょうか」

「外に?」

「隣の男にこの面をつけさせます」

「お隣さんに?どうして?」

「さすればヒロインさんが心置きなく豆まきもできるでしょう?」

「え!ふふ、それはちょっと…」

「遠慮する必要はないのですよ、さあ…鬼退治に参りますよ、ヒロインさん」

「あはは、待って、薬売りさん」




絶対的幸福論

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