ヒロインが「今日は少し運動が足りない気がする」と言えば、「ならジョギングでも行くかい?」と小気味好く返したダンナ。 すぐさま、いつの間にか増えていた揃いのジャージに着替え、夜の街へと出かけて行った二人。 帰宅をしたのは二十三時を迎えた頃だった。 「おかえりなさい」 「ただいま」 「ただいまーグソンさん」 「ヒロインさん、いい運動になりましたか?」 「うん、とっても、むしろくたくただよー」 そう言って微笑むヒロインは、首に掛けてあるタオルで額の汗を拭った。 頬も日常生活の中ではあまり見られない程度に紅潮をしている。 用意しておいたスポーツドリンクを渡すと、「ありがとう」と受け取り、ソファに座りながら早速喉を潤している。 充分な運動ができたのであろうことは一目瞭然だった。 「ふう、落ち着いたー、汗気持ち悪いしシャワー浴びてこようかな」 「じゃあ僕も一緒に行くよ」 「それなら一緒におふろ入る?聖護くん」 「そうだね、そうしようか」 ドリンクを半分程飲み終えたところで、一息つけたらしいヒロインは「着替え持ってくるからちょっと待っててね」と言って一旦部屋を出ていった。 色の白いヒロインの頬は未だに紅く、ジョギングの余韻はまだまだ抜けきらないのだろう。 だがヒロインの隣へ座っていたダンナへと改めて目をやれば、その表情は涼しげで。 それは帰宅をした際から変化のないものだった。 ヒロインと同時にドリンクも手渡したが、ダンナは一度口を付けたきりだった。 見て取れる疲労の差は言うまでもなかった。 「―――今夜は風呂くらい一人で入らせてやったらどうです?」 「何故?ヒロインも同意していたけど」 「そうですけど……ヒロインさん、かなりお疲れのように見えましたので、だから、」 此処で暮らすようになってから体力作りも始めたヒロインではあるが、ダンナとの基礎体力の差も比べるまでもなかった。 ヒロインへの気遣いを欠くことはないとは思うが、それでもダンナがペースの主導権を握っていたとしたら、ヒロインに掛かる負担はゼロにはならない。 故に、脚を伸ばしゆっくりと風呂に浸かることがヒロインの疲労回復にも繋がるんじゃねェかと思い提案をした。 「……何故、そう感じたのかな?」 「いや、だって今もダンナは涼しい顔してんのに、ヒロインさんだけ汗かいて頬染めて……」 「フフ、少し扇情的だよね」 しかし俺の心配を余所にダンナは若干楽しげに口角を上げた。 やはりそんなヒロインを見たいが為に小さな無理をさせている可能性は大いにあると思えた。 「だから僕を煽るヒロインも悪いと思わないかい?」 「全く思いませんよ…!それに関しては全面的にヒロインさんのペースを尊重して欲しいですよ、俺は」 「まあ…僕もそう思うことはあるからね、これでも努力はしてるんだ」 「……本当ですか?」 「そんなに疑わしい目で見られても困るな…」 思わずじっとりと見つめちまう。 するとダンナは眉を下げ困惑を混ぜた苦笑いを見せた。 こんな表情を本心から作るのはヒロインが関わる時だけで、少なからず努力しているということは偽りではないのだろう。 だからこそ俺の伝えたことが、微量でもいいからダンナの心に響くといいのだが……。 「でも結局はヒロインもそれでいいと言うんだよ、僕の好きにしたらいい、と…」 「それもヒロインさんらしいですけど……やっぱり無理をさせたら可哀想ですよ」 「可哀想、か……だが、チェ・グソン」 「はい?」 「ヒロインからねだってくる場合もあるんだよ」 「…へえ?」 意図せず間の抜けた声が漏れた。 ねだるとは……もっと速く走りたい等と言って駄々をこねたりするのだろうか……。 ヒロインの願いは余さず叶えてやりたいダンナ故に、ヒロインに無理をさせているということになるのか。 現に俺だってヒロインの要望にはできる限り答えたいと思っている。 考え出したらキリがねェ。 とんでもないジレンマに陥った気がして、これ以上は口を噤むしかなかった。 「随分と難しい顔をしているね」 「ああ……すみません、でも俺にどうにかできる領域じゃねェなァと思いまして」 「君がヒロインを大切に想っていることは理解しているつもりだよ」 「そりゃあどうも…」 結局、ヒロインのことは最も傍で意志を尊重できるダンナに委ねるのが、いつだって最適なはずだ。 だが、帰宅後のヒロインの姿が瞬時に脳内から消える訳もなく。 「いずれ菖蒲か杜若、か……」 「はい?」 「分かったよ、チェ・グソン、今夜は君の意志を尊重する」 すぐに晴れ晴れした気持ちに切り替えられねェ様が表情に残っていたのだろう。 そんな俺に珍しくダンナが妥協した。 そう素直に思えた。 「今夜はどれだけねだられてもヒロインを浴室で抱いたりはしないよ」 「…え…?………はい??」 矢先だったが。 ダンナから思いもよらぬ発言が飛び出し、しばし思考は停止する。 てっきりヒロインを一人で風呂へ行かせるのかと思った。 しかし、抱いたりしないとは…? そんな話をした覚えは一切ない。 ダンナと俺は今まで一体何について議論をしていたというのか。 「ちょっと待ってくださいよ、ダンナ……いきなり何の話ですか?」 「いきなり?ヒロインが部屋を出ていってから変わらずこの話題だったと思うけど」 「違いますよ、俺はただ一人で風呂へ浸かった方が身体が休まるんじゃねェかと思いまして…、」 「ならば僕には端からその選択肢はないよ」 「えぇ…?」 「欲望のままに抱くか、君に言われた通りヒロインを我慢させ焦らすか、」 「そんな話してませんって…!」 「どちらにせよ僕にとっては大差ないという話だったんじゃないかな」 さも愉快だと言わんばかりに瞳を細めたダンナに対し、思わず頭を抱えるよう額に手を当てた。 まさかダンナの脳内ではそんな方向へ話が転がっていたとは……。 数分間交わした言葉を思い返せば、確かに始めから食い違っていたのかも知れない。 ねだる、というくだりもこうなりゃ理解できる。 だが納得できるかと言ったら別の話だ。 「君が何かを察してヒロインの身体を気遣っているのかと思ったけど違ったんだね」 「そんな発想になりませんって……」 「そう?ならば、君が言っていたのはジョギングのことだったのかな」 「ええ、そうですよ」 「だとしたらそもそも僕がヒロインに無理をさせる訳ないだろう、それこそ僕のペースに併せていたらヒロインにとってはきついランニングになってしまうからね」 「だからそれを心配してたんですよ」 「確かに今日はいつもより少し長く走ったけど、それでもヒロインのペースを尊重した上で調整しているから問題ないよ」 「ではその件に関しては安心しましたよ…」 そもそもの気掛かりは、ただの杞憂に過ぎなかったようで、解消された。 だが根本は形を変えず、今度は更に厄介な事情を知っちまったこととなった。 「ていうかダンナ、風呂場で何しようとしてんですか、まったく……」 「それを僕の口から説かれたいかい?」 「いえ…!遠慮しときますけど…!」 内情を知りたい訳ではないから、全力で首を横に振り否定をした。 事態は覆らねェままに。 「聖護くんおまたせー、おふろ行こう」 着替えの準備が済んだらしいヒロインが部屋へと入ってきた。 そうして俺からすりゃあ魔境のような風呂場へとダンナを誘っている。 俺を一瞥してから立ち上がったダンナは早々にヒロインの隣へと並んだ。 「ヒロインさん…!待ってください」 「ん?なあに、グソンさん」 「いや…あの、今夜は一人で風呂に入るという選択肢があったりしませんか…?」 「うん?ふふ、なんで?聖護くん一緒に入るよね?」 「入るよ」 呼び止めるしかできねェ俺の言葉はただの悪足掻きとなり宙に散る。 俺の気持ちなど知る由もないヒロインは不思議そうに首を傾げた。 「もしかしてグソンさん、まだ聖護くんと話すことあった?なら私ひとりで、」 「いえ、そういう訳じゃないんですけど…」 「ヒロイン、大丈夫だよ、むしろチェ・グソンは君が来るまでの話題をあれ以上繰り広げるのは願い下げだろうしね」 「そうなの?」 ひとり柔い雰囲気でくすくすと笑うヒロイン。 そんなヒロインの腰へと、したり顔のダンナは腕を回した。 もう完璧に捕獲されちまった。 「行こうか、ヒロイン」 「じゃあグソンさん、おふろ行ってくるね」 「はい……せめてゆっくり浸かってくださいね」 「うん、ありがとうグソンさん」 ダンナと俺の意見が噛み合うことは最後までなく。 さながら物語の中から切り取った王子のようなエスコートでヒロインはダンナに連れていかれた。 やはり俺が踏み込める領域ではない。 ヒロインの望むことならば仕方がないと自身に言い聞かせ。 今夜は此処で、これ以上作業を続けるのは野暮だろうから。 全てをシャットダウンし、静かに地下室を後にした。 すれ違いアフェクション ← top ← contents ×
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