(気まぐれな犯罪者たち派生)



あたたかな部屋で、偽りのない食材を摂取する。


愛しい彼と、そんな彼が信頼を置くひとと。


幸福なとき。



「そうだ、ヒロイン」

「うん?」

「泉宮寺さんが君にと、土産を持たせてくれてね」

「なになに」


グソンさんが作ってくれた夜ご飯は今日も美味しかった。


三人で摂る食事も楽しかった。


食器の片付けを手伝ってから、ソファで聖護くんの隣へと座る。


「モンブランだそうだよ、冷蔵庫に入っているから早めに食べた方がいい」

「モンブラン!うれしい、じゃあ今からデザートにいただこうかな」

「それならちょうどお持ちしようと思ってたところなんで、ヒロインさんはそのまま待っていてくださいね」

「ほんと?ありがとう、グソンさん」

「いいえ」


思いがけないモンブランに喜ぶ私を、優しい眼差しで視界に収めた聖護くん。


それから自身の手元に視線を戻したけど、今日の聖護くんの手元には少しだけ違和感があった。


見慣れた風景では厚い本が置かれていることが殆どなのに。


今はタブレット端末で何かを見ているようだった。


本ではないことがなんだか気になったから、距離を詰め覗いてみた。


目に飛び込んでくる文章量はいつも通り。


でも縦書きではなく横書きなこともよく見る光景とは違っていた。


極めつけは、ぱっと見でも感じる、いつも以上に知らない単語の数々。


「ヒロイン、気になるかい?」

「ぁ……ふふ、うん、だって紙の本じゃないの珍しいから」


興味津々な私を察してか、聖護くんは静かに笑い声を零した。


それから私が関心を示したことを歓迎するかのように、タブレットを見えやすい角度に変えてくれた。


だから漢字の羅列でもなく、なんとなく読めたものを言葉にしてみた。


「ウカノミ…タマ…?人の名前?」

「ウカノミタマ、本来は日本神話に登場する穀物の神の名称だね、だがヒロイン、これはね、物語ではないんだ」

「物語じゃないお話なの?」

「話というか……論文だよ、探せば紙媒体もあるのかも知れないが、遠い時代のものではないからね」

「だからこっちの方が主流なんだね、でも論文って難しそう……、聖護くんはおもしろい?」

「面白いかどうかで目を通している訳ではないよ、強いて言えば今は読書中ではなく勉強中というところかな」

「勉強…!聖護くんほど頭が良くてもまだ勉強するの」

「知識に果てはないからね」


そう言ってゆったりと微笑んだ聖護くん。


どこまで賢くなるんだと思うと同時に、そんな聖護くんにもまたときめいて。


今日も私の好きにも果てがない。



「そういやダンナ、俺も少し調べてみたんですがね……と、お先に、ヒロインさん、スプマンテとご一緒にどうぞ」

「スプマンテ?」


グソンさんも聖護くんの勉強の話題に反応しつつも、綺麗に造形されたモンブランを丁寧に私の前に置いてくれた。


タルト生地の上で、淡い茶色のクリームが螺旋状に絞り出され、粉砂糖が雪のように振り掛けられている。


頂上には艶めいたマロングラッセと繊細なチョコレートの細工。


隣に並ぶのは透き通る淡黄色の液体が入ったグラス。


小さな気泡が上がってきている。


「スプマンテ、簡単に言えばスパークリングワインだよ」

「そのケーキに合うかと思いまして」

「そうなんだ、グソンさんありがとう」

「きっとヒロインさんお好きだと思いますよ、ダンナには食後酒にベリーニを」


続けてグソンさんは聖護くんの前に桃色のカクテルを置いた。


自分の分は私と同じものをテーブルに置き、向かいのソファに座った。



「それでダンナ、ウカノミタマ防御ウィルスなんですが」

「ああ、チェ・グソン、君はどう思う?」


聖護くんとグソンさんは本格的に会話を始めた。


タブレットの中の勉強の話題みたいで、これ以上ついていけそうにない。


会話の邪魔をしないように手だけ合わせていただきますをして、フォークを手にした。


私には理解できないことが大半を占めていることもあるけれど、二人の会話を聞くのはとても好きだった。


それに二人が話しているときの私の脳は、無理に理解しようともしていない。


聖護くんと一対一のときは、どんなに難しい話だとしても、言葉にしてくれた知識は全て取り込んで、正しく得たいと思う。


だけど、聖護くんとグソンさんの会話だと、知っている単語がなんとなく輪郭を得るだけ。


あとは耳の中へすんなりと入ってくる音をただ聞く。


声質こそ違う二人だけど、どちらも低く落ち着いていて、ゆとりのある口調で。


私にとっては、麗らかに流れるメロディーにも似て。


二人が織り成す独特のテンポは、どんなに名高いクラシックよりも魅力的だった。


だからこんなとき私は、ただただ空気のように居たい。



「細胞内のRNAを操作する、」

「RNAシーケンサー」

「はい、こいつぁこのシーケンサーをうまく使えば…」

「そうだね、僕も同じことを考えていたよ、しかもウィルスの管理センターは閉鎖された旧出雲大学の研究所をそのまま転用しているようだ」


C検査?Qイズモ?


そういえば大学って…昔あった教育制度だっけ。


案の定今日の話もちんぷんかんぷん。


でもこの空間で味わうモンブランも、やっぱりとびきりおいしくて。


ふわっとしたクリームが舌の上で溶けて、広がるのは上品な甘み。


グソンさんが用意してくれたワインもモンブランの後味と程よく調和されて幸せで。


どこを切り取っても贅沢しかなかった。


「…ふふ、」

「ヒロイン、美味しいかい?」

「あ…うん!とっても」

「それは良かった」


あまりにも満たされて、思わず小さく笑い声を漏らしてしまえば。


聖護くんは聞き逃すことなく、すかさず拾ってくれた。


「あとグソンさん、このワインもすごくおいしい」

「ヒロインさんの口に合ったんなら何よりです」


空気のように存在したいなんて思いつつも、でも決して二人は私を空気のようには扱わないから。


この事実もひどく心地好かった。


聖護くんは人差し指で私の頬を撫でてから、会話に戻った。


「キャンパスはサイマティックスキャン実用化前の建物なんだね」

「保安体制は暗証番号と生体認証のみのようですし、仮にもこの国の食料供給を担っているというのに…」

「杜撰なものだ、それでも危機を抱かないこの国はやはりどうかしている」

「ですが事を起こすとすりゃあ、ダンナにとっちゃ都合がいいんじゃありませんか」

「まあね、…だがまだ積極的に動く時期ではない」

「時期、ですか」

「この間言った君主論にも書いてある」


フォークで掬うごとに、白く濃厚な生クリームの面積が広がっていって。


半分を過ぎると今度は徐々に減っていき、残るのはあと一口のみ。


惜しみながら最後の一口も堪能し、舌鼓を打つ。


仕上げにしゅわしゅわと弾ける炭酸の感覚も楽しむ為に、グラスを手にした。


するとグソンさんの視線を感じた。


「…マッコリ、でしたっけ?」

「だからマキャベリ、」

「ふ……あはは」


グソンさんが間違っているらしいことを言うと、聖護くんはかぶるくらいの勢いで訂正をした。


今までの難しい話はたゆたうように耳に届いていたけれど、今のは呼吸の良さに思わず笑ってしまう。


そして以前にもそういうやり取りがされていたことも伺えて。


私の知らない二人の時間が覗けた気がして嬉しくもなった。


「チェ・グソン、今回は明らかにわざと間違えただろう、しかもヒロインを笑わせる為に」

「バレちまいましたか」

「ふふふ、そうなの?」


わざとらしく肩を竦めながら、グソンさんもグラスを手にした。


聖護くんは瞼を落とし、フと息を吐きつつ、唇では弧を描いた。


もしかするとグソンさんは、モンブランを食べ終えた私が退屈しないようにと、気を遣ってくれたのかも知れない。


だからこのまま少しだけ会話にお邪魔させてもらうことにした。


「聖護くん、そのまっこりさんはなんて言ったの?」

「ヒロインまで……まあいいよ、―――運命の女神は積極果敢な行動をとる人間に味方する、と」

「女神ねぇ…、また神学論争に傾いちまいそうになりますけど」

「今日も議論をする気はないよ、ただ、ヒロイン」

「うん?」

「一つ、訊かせてくれないか」

「なあに、聖護くん」


聖護くんは真っ直ぐに私を見つめたから、私もしっかりと見つめ返した。


「ヒロインは神を信じているのかな」


それから聖護くんが口にした問い。


さっきまでと違い簡単に理解はできる単語。


でもとてつもなく壮大で難解な話。


グラスをテーブルに戻し、問いについて考える。


いわゆる神頼みというものも、したことがないわけではないけれど、だからといって熱心に信仰したことなど一度もない。


もしも今神を名乗る人物が現れたとして、願いを叶えてくれると言っても信用すらできないはず。


どんなにこの平穏に浸かっていたかったとしても、神には頼まないだろう。


「神様かー…証明しようがないものだもんね…」

「じゃあヒロインさんも、俺やダンナと同じ、不可知論者だ」

「うん、でもね、最近思うこともあって、」


ただ一つだけ、考えなくても分かることがあった。


聖護くんに置き換えてみれば、答えは明快でしかなかった。


「今の私にとったら聖護くんが神様みたいなものだなぁって…」


不幸から救ってくれた。


新しい世界を教えてくれた。


そしてとことん満たしてくれる。


今の私の世界は聖護くんでいっぱいだから―――。


そう思って口にした。


普通に考えればちょっと突拍子もない発言だったかも知れない。


事実グソンさんは狐目を開いて私を見た。


でもすぐにやれやれといった感じで笑った。


だけど肝心の聖護くんは微塵も驚くことはなく。


「そう」


どことなく満足げに口角を上げた。


「……ダンナ、」


そんな光景を見て、諭すように優しく聖護くんを呼んだグソンさん。


「もしかして今の問いは、ヒロインさんのこの返答を期待してのものだったんじゃないですか」


こう言われれば、聖護くんはさっきのグソンさんみたいに肩を竦めた。


これに私はまた満たされて、聖護くんの肩に頭を預け寄り添った。


「本当に仲がよろしいことで…」


私達を眺め穏やかな表情を見せるグソンさんはもう一度グラスを口に運んだ。


聖護くんはグソンさんの言葉を肯定もしないけど、否定もしなくて。


私の全てを受け入れてくれる。


こうして此処に居られることが何よりの幸福だと改めて実感する。


「…ですが、どおりで少しあなたらしくない引用だった」

「だが全く無関係なわけでもないんだ、日本神話に興味はあるかい?」

「フ、ありませんよ」

「ウカノミタマは明確な記述はないが古くから女神とされていた」


再開された二人の会話を聖護くんに凭れたまま聴く。


今度は瞳を閉じて、深いところで音として捉える。


誘われるのは安らかな世界。


やがてそれは混沌とし始めて。


女神。ハイパーオーツ。ヘルメット。


拾えた単語は繋がりもせず、頭の中でぷかぷかと浮いているだけ。


「次の結果次第では動くこともなく破滅するかもしれないな」

「まぁ…そうですね」

「今、見据えるべきは、信託の女神―――」


睡魔と雑ざり合う。


「…ヒロイン、眠くなってしまったかい」

「…んー…」

「ヒロインさん、眠るんなら寝室へ行った方がいいですよ、風邪ひいちまう」

「ん…でも、もうちょっと…」

「いいんだ、チェ・グソン、」


構わないよ、と言いながら聖護くんは、私の髪を撫でた。


きっとそれは、グソンさんだけではなくて、私に対しても掛けられた言葉。


柔く響く声に、気持ちは更に和らいで。


それからは夢の中の出来事。


グソンさんが「何か掛けるものを持ってきます」と言って。


聖護くんは「どんな夢を見ているのか…また明日聞かせてもらおうか」と言った。


ぬくもりに身を委ねながら、夢の中で満面の笑みを返した。




「退屈な思いさせちまいましたかね、…そういやこの間チェスをやっていたときも眺めながら居眠りしちまいましたもんね」

「いや、だがヒロインは退屈ではなく幸福だと言っていたよ」

「幸福?」

「僕と君の声を聞きながら微睡むことは、この上なく幸福なことなんだそうだ」

「ヘェ……確かに、今も幸せそうな顔して眠ってますもんねぇ」

「ああ、だから僕はしばらくこのままでいるよ、君は休んでくるといい」

「そうさせてもらいます、ヒロインさん、良い夢を」




ドルチェが奏でる子守唄


<< 47 >>


topcontents
×