些細な悪戯心が発端。


自らが要因となり蒸し返す感情。



「ただいま、ヒロイン」

「聖護くん、おかえりなさい!」


退屈だった要件から抜け出し帰宅した二十二時。


ヒロインはベッドの上で座ったまま読書に耽っていたらしい。


僕の声に反応を示し上げた笑みには花が舞った。


「チェ・グソンは帰ったのかな」

「うん、少し前に」

「そう」


僕もベッドへと腰を掛け、ヒロインの微笑みを見つめ返す。


ヒロインは読んでいた本を閉じてから、もう一度、聖護くんおかえりなさい、と口にした。


僕の帰宅を喜ばしく感じていることは一目瞭然で。


極めて平常。



そんなヒロインに、どうしようもないと実感する。


この感情が憚るのはヒロインが関わる時のみだった。



「……?聖護くん?」


おもむろにヒロインの首筋に顔を近付ける。


ヒロインは不思議そうに首を傾げた。


だが返答もせず、首筋に唇を宛てがい少しきつく跡を残した。


「ん……っ、聖護くん、……どうかしたの…?」


甘い香りに甘い声。


感じるのは安堵と苛立ち。


きっちりと咲いた紅を目視したところで変化はない。


以前突き止めた対処法も、今夜は何の意味も持たなかった。


蔓延ったまま。


決してヒロインが悪い訳ではないのだが。


これ以上どうする事もできず、言い様のない気持ちを抱え過ごす事にも納得がいかず。


不満を投げ出すかのようにヒロインの腿の上に頭を乗せ仰向けになった。


ヒロインは何の反論もせずに、この行動も受け入れた。


「噛み付かれるのかと思っちゃった」

「怖かったかい?」

「ううん、まったく」


柔らかな眼差しで見下ろされる。


「…聖護くん、つかれちゃったの?」

「疲れた、か……ああ、まあ、そうだね、」


華奢な指が僕の髪を撫でた。


悪い気はせず、ゆっくりと瞼を閉じつつヒロインの声に心地を委ねる。


「親睦会、あんまり楽しくなかった?」

「全く面白味のない時間だったよ」

「ぁ、ふふ、一緒に働く先生達なのに」


新任の教師も入った為、今夜は桜霜学園の教師達と親睦会という名のバーチャルの飲み会があった。


円滑に柴田幸盛を演じる為に参加はしたが、当然何か見出すことも出来ず。


引き止められる中、偽りの笑顔を連れ早々に引き上げた。


「僕にとったらどうでもいい人間達だからね」

「もう…まきしませんせー、こわーい」


怖いと言いつつも、僕の性質を理解した上でくすくすと笑い声を零すヒロイン。


ヒロインだけが持つ空気。


そんな空間の中に舞い戻り、出掛ける以前より今夜は離れ難いと思っていた自身を思い返す。


それでも一旦外に出てしまえばこんな感情は闇に紛れるのではないかとも感じていた。


元より独りなのだから。


だがそれも違った。


独りになろうと、跡を残そうと、意味などなかった。


だとしたら、傍に置いておくべきだったのだろうか。


たかが数時間だとしても。



「……君も連れて行けば良かった」

「でも先生達の中に連れていってもらってもきっと私は何もできないよ」

「それでもヒロインがいれば、何処であろうと退屈はしないよ」

「ほんと?そう思ってもらえるのは嬉しい」


終始保たれる穏やかな雰囲気。


瞼を上げ表情を確認すれば、脳内で描いていた通りのもの。


「ハ……」


それなのに未だヒロインに求めるものが曖昧な自分に自嘲気味に溜め息が漏れた。


すると一転、ヒロインの眉は微かに下がり、小さな不安が瞳を揺らす。


「聖護くん、出掛けてる間に何かあったの…?」

「いや、何もないよ、ただ―――」


そんな表情も相も変わらず愛しいと感じるのに。


相俟って殊更に纒わり付く感情が鬱陶しかった。


「ただ、今夜は…、」

「ん?」

「処女の君も僕が抱きたかった―――と思っただけだよ」


故に口にした本音。


唐突な発言だと感じたらしいヒロインは目を丸くし驚きを露わにした。


だがそれも束の間で、すぐにけらけらと笑い出した。


「なあに、急にどうしたの、聖護くん」

「さぁね、自分でもどうかしてしまったんじゃないかと思うよ」

「それって唐揚げのせい?一緒に初体験してくれたから」

「それが発端だろうね 」


どんなに願っても手に入る日は来ない。


打開策がある訳でもない滑稽な台詞を口にしたことは自覚している。


まるで駄々をこねる子供のようだとも思う。


こんな感情に手を焼くのも、こんな戯言に時間を費やしたとしても無意味ではないと感じるのもヒロインだけだと再認識する。


その朗らかな笑みの対極。


艶を持ったヒロインの耽美も知り尽くした。


初々しい頃のヒロインはどんなに麗しく歪んだことか―――。



「破瓜の痛みで泣かせたかった」

「あは、やだ、聖護くんやらしー」

「その時のヒロインを僕以外の男が知っているのかと思うと、何だか……」


何だか―――なんだというのだろう。


この先の感情を言葉で表すことは困難で。


表情を作ることもせず、ヒロインの澄んだ瞳を見つめるだけ。


ヒロインも答えを探っているのか、流れるのは沈黙。


しかし数秒の後、密めくようにそっと口を開いたヒロイン。


「…もしかして聖護くん、」

「なにかな」

「なんだか…妬けちゃう?」

「妬ける……?」


ヒロインが導き出した答え。


それは僕にとっては思いもよらぬ発想で。


「うん、やきもち」

「嫉妬、ということかい?」


今まで無縁の単語でしかなかった為におそらく怪訝さが際立った。


「もしそうだったなら私はちょっと嬉しい、だって聖護くんがやきもちを焼いてくれるなんて」


―――嫉妬。


そんな感情が自身の中に存在していたのか、とは思うが。


結び付け紐解いていけば、腑に落ちる部分は山程あった。


「……嫉妬の類の自己顕示欲はゼロだと自負していたけどね 」

「私もそう思ってたよ、聖護くんって嫉妬とか無縁そう」


ふわりと笑むヒロインはいつだって僕の全てを肯定するから。


憑き物が落ちたかのように、訝しさは消え去った。


それどころかこの変化もまた面白いと受け止められた。


「ヒロインに対しては違うようだよ」

「うれしいな」

「次からはゼロに近い、と自負するべきかな」


明確となる自身の自己顕示欲。


その欲は犯罪係数をコントロールする源泉とも感じていた。


ならば僕の色相に何らかの変化が起きたとしてもおかしくはない。


しかし結論としてそれは起こり得ない事柄なのだろう。


実際この感情自体を得たのは今夜が初めてという訳でもなく。


嫉妬を自覚したからといって変化があるようには思えなかった。


ヒロインを想い起きる感情は確かに在るというのに。


確固として揺らぐことのないサイコパス。


期待するだけ馬鹿を見る。


そんな世界に僕は何度だって、憐れみと諦めを覚えるのだろう。


手を伸ばしヒロインの頬に触れれば、慈しむように細められた瞳。


いつだって触れられる距離で、目まぐるしく表情を変える。


ヒロインこそが清廉だった。



「でも、聖護くんのここ、」

「うん?」

「まだもやもやする?」


不意に、ヒロインの手が僕の心臓部分に置かれた。


それから緩やかに撫でられる。


「……理由も解明されたことだし、僕の戯言を気にすることはないよ」

「けど……、」


今度は僕の心を気遣い始めたヒロイン。


嫉妬の根源が覆ることはない故にだろう。


確かに欲しかった想いは今更消せない。


それでも。


触れられた箇所から自身の鼓動をより強く感じ、生存の輪郭は明瞭さを増していく。


そんな感情をもたらす女と生きる今は間違いなく幸福なのだから、嫉妬との共存だって厭わない。


「――…幸福な人とは、客観的な生き方をし、自由な愛情と広い興味を持っている人である」

「ん…幸福論?」

「ラッセルのね―――…だからさ、ヒロイン、」


言いながら上体を起こし、座り直した。


同じ高さで見つめ合い「僕も君もとても幸福なんだと思うよ」と告げる。


するとヒロインは眉尻を下げ、複雑な表情を見せた。


幸福に満ちた微笑みが返ってくるかと思ったが、想定外。


しかし真意を確かめるより先に、ヒロインは僕の肩口に額を預けた。


「……ほんとうに幸せ」


どことなくか弱く零れ落ちた言葉に偽りはなかった。


思うところあっての行動だろう。


「だいすきだよ、聖護くん」

「ああ」


今度は僕がヒロインの髪を撫でながら、ヒロインの紡ぐ思考を待った。


「今もまた好きが増えた…」

「フ…僕の嫉妬でかい?」

「うん……こんなに好きなのに、今もまだことある毎に好きになるの」

「それは光栄だ」

「だから……」


静かに顔を上げたヒロイン。


再び絡む視線。


情けなく潤んだ瞳は無意識に僕を捕らえ。


「また好きが増えたら、私も初めても聖護くんがよかったって思っちゃった…」


切なげに溢れた台詞には懇願が込められていた。


求めたものは同一だというのに、決して交わることのない願いが錯綜する。


思わず言葉に詰まるが、お構いなしにヒロインは僕の心を揺さぶり続けた。


「聖護くんいたくして…」

「うん…?」

「私のことなんて構わないで、怖くていい、痛くして、聖護くん」

「……っ、」


――…それが出来たら苦労しないよ、と言いかけて止めた。


無理を願い困惑をさせ、今に至っては渇望するような真似をさせている。


おまけに僕の欲したものを奪った男は、その瞬間ヒロインへの気遣いも欠き、苦痛を植え付けた事も透けて見えた。


初めてがそんな男で凶だったと言うべきか、吉だったと言うべきか。


定かではないが。


「ヒロイン」

「ん……」

「じゃあ…加減しないよ、覚悟しておきな」


今夜はとことん甘やかしてやりたくなってしまっているのだから、やはりどうしようもない。


否定的な言葉も攻撃的な感情も粉々に砕いて。


ヒロインの顎に手を添え、まずは淡い口付けをひとつ。


すぐさま意図に気付いたらしいヒロインはそうではないと首を横に振った。


「なんで……聖護くん…」

「いやかい?」


触れるだけのキスを繰り返す。


「いやなわけない、けど……」

「きっと僕はどんな状況であろうと、君には大切に触れたよ」


ヒロインに与える苦痛など初めから持ち合わせてはいない。


涙を浮かべ聖護くんが好きと繰り返すヒロインをシーツの海へと沈め。


僅かだとしても思い返したであろう男との行為も葬れるよう溺れさせた。


呼吸もままならず縋り付くヒロインはいじらしく。


人体の限界を熟知した上で、降り積もる愛おしさには抗わず。


ひときわ繊細に扱った夜。




▼90万打企画で書かせていただきました。




徒花のソワレ


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