料理をすることに関しても興味を持ち始めたヒロイン。 だから時間が合えば俺が教えるようになった。 オートサーバーが主流の時代故に包丁すら握ったことのなかったヒロインに全てを一から教える状況だが、飲み込みも悪くなく、苦でもなかった。 むしろそんな一時を歓迎している自分も感じていた。 で、今夜はダンナは帰って来られないらしいから。 仕事休みのヒロインに「肉料理にでも挑戦しますか」と提案したところ、「じゃあ今夜は唐揚げな気分!」と返ってきて、今夜のメインは唐揚げに決定した。 だが。 「あれ?聖護くん!おかえりなさい」 「ただいま、ヒロイン」 「ダンナ、帰ってきたんですか」 「僕が帰ってきたらまずかったのかな」 「いや、そういうわけじゃないんですけど…」 「あのね聖護くん、今夜は鶏の唐揚げなの」 「ああ、そういうことか…、少し時間ができたから寄っただけで、食事をしていく時間はないだろうから大丈夫だよ」 ということはおそらくダンナはヒロインの顔を見る為に、合間を縫い帰ってきたんだろう。 現に、エプロン姿で笑顔を向けるヒロインを見るダンナの眼差しはひどく優しかった。 「ヒロイン、だから僕のことは気にせずに続きもしっかり学ぶといいよ」 「でしたらヒロインさん、次の作業に取り掛かりましょうか」 「はーい」 ダンナがダイニングの椅子に座り本を開いたことを見届け、唐揚げ作りを再開させた。 数分前に下味を付けた鶏肉がそろそろいい頃合いだろうから、冷蔵庫から取り出す。 この鶏肉はヒロインが一人で調達してきたものだ。 ヒロインは興味を持った場所へは一人でもどんどん出向く。 故にヒロインには廃棄区画内ではなく、天然の食材を扱っている数少ない正規店を教えた。 廃棄区画内の方が品揃えはいいだろうが、粗悪品を掴まされる可能性も否定できなかったからだ。 俺と一緒に行けば回避もできるが、毎度そういうわけにもいかない。 しかしヒロインに教えたそこは俺が近付ける場ではなかった。 だからヒロインはもう何度か一人でも食材の調達に向かっている。 おまけにきちんと目利きされている物を買ってきた。 聞けばヒロインはその店でも既に、約束をするわけではないが時間帯で会う顔見知りができたようで、食材の選び方を教わっているらしかった。 まったくヒロインの他人と関わる力には感心させられる。 今日の鶏肉も、ヒロインが「おいしく揚がるやつがいい」と言えば。 「揚げ方は目利き関係ねーし、それ無茶ぶり過ぎねェ?」と笑われつつも、そいつが一緒に選んでくれたとのことだった。 そのおかげか厚みもあり鮮度の良さそうな鶏肉が手元にやって来た。 「それではヒロインさん、衣を付けたら揚げていきましょう」 「ついに揚げ…!」 「どうかしましたか」 唐揚げなのだから、大抵の場合揚げる。 唐揚げをリクエストしたのだからヒロインだって理解もしていたはずだ。 だがそのことにヒロインは少し過敏に反応した。 「揚げって油使うあれでしょ?グソンさんがいつもじゅーバチバチってやってる攻防」 「フ、攻防、」 「油が怖い音を立ててグソンさんを攻撃してる、でもグソンさんは余裕であしらってるの」 「ヒロインさんにはそんなふうに見えているんですね」 「ふふ、うん、それにだってすごく熱いんだよね?グソンさんは涼しい顔してるけど…」 確かに今までヒロインが傍にいるときに揚げ物をする際には「はねたら熱いので少し離れていてくださいね」と声を掛けていた。 何度くらいなのかと聞かれたから、油の温度を伝えたこともあった。 温度を聞いたヒロインは驚愕もしていた。 そういやその都度ヒロインは若干不安げな顔で俺を眺めてたな…。 ヒロインが油に対して恐怖を感じていることが伝わってきた。 「油がはねればね、そりゃあ熱いですけど…、慣れるしかないですよね」 「慣れかぁ…」 「もし怖けりゃその作業は今日は俺がやりますよ」 「ううん、でもそれじゃあずっと怖いままだし…がんばる」 無理にやらせるつもりはなかったが、恐怖心よりも向上心が上回ったようだ。 ヒロインのこういった性格には単純に好感が持てた。 本を読むダンナの耳にもヒロインと俺の会話は届いているはずで、ダンナの表情も心なしかいつもより穏やかに微笑んでいるように見える。 「ではまず俺が一つやりますんで、見ていてくださいね」 「はい」 衣を付けてから一つを摘まみ、そっと油の中に浸けていった。 最初はじゅうっと静かに音を立てるだけ。 「あれ、案外静かだね」 「始めはこんなもんですよ」 「じゃあ今からバチバチするの?」 「そうですね、」 「あ、ほんとだ」 満遍なく色付くよう菜箸で転がせば、芳ばしい匂いも立ち上り始める。 だがそれと共にヒロインの恐れる音と油はねも激しくなっていった。 「グソンさんはやっぱりすごいね」 「ヒロインさんもすぐにできるようになりますよ」 「そうかな…」 ヒロインの真剣な視線が手元に注がれる中、まずは一つ出来上がった。 油切りバットに乗せれば、緊張していたヒロインの口許も綻んだ。 「グソンさんおいしそうだね」 「味見、しますか?」 「いいの?やった」 「はい、ヒロインさん、」 近くにあったフォークで揚げ立ての唐揚げを刺し、ヒロインに手渡そうと近付けた。 だがヒロインは嬉しそうに口を開けたから。 自身の笑みが眉の下がったものになるのを感じつつも、必然的にヒロインの口にフォークを運び入れてやることになった。 人懐っこい小動物と戯れている気分になる。 「おいしい」 「それは良かったです」 咀嚼を始め味わうとヒロインの表情は更に柔らかくなった。 念の為、ダンナにもちらりと目をやり様子を確認した。 ヒロインと俺が何をしていようが基本的には寛容なダンナだが。 時々、ダンナ自身は無意識のようだが、嫉妬を露にする。 だから今も、もしかしたら…と思った。 しかし今は変わらぬ所作で本を読み進めていたから、先程の行為が嫉妬の境に触れることはなかったようだ。 「じゃあグソンさん…次は私の番だね」 「ええ、できそうですか?」 「うん、やってみる…!」 ヒロインの顔付きは再び真剣なものへと移り、油の張られた鍋の前に立った。 肉を挟む指先にまでも緊張が走っていることが伝わってきた。 俺はいざとなればすぐに手出しできるように隣で見守っていた。 油との距離を詰めていくヒロインの手。 「……えいっ!」 「!?」 すると意を決したらしいヒロインだが、ギリギリまで手を近付けるのはやはり怖かったようで。 少し高い位置から油の中へ肉を放り込んだ。 おかげで静かに入れた時よりも、反発するかのように油もはね音も煩く鳴った。 「ぎゃー!グソンさん!危険危険!」 「放るから…!」 咄嗟にヒロインより前に出ようとしたのと同時に、ヒロインも俺の背に隠れた。 そして背後で俺の服をぎゅっと握りながら、恐る恐る顔を覗かせ唐揚げの様子を確かめている。 投げ入れるとは正直思ってもみなかった行動で。 振り向きつつヒロインを見下ろせば、目が合って、思わず笑っちまった。 そうすりゃつられてヒロインも笑った。 「今のは上から放り込んだからはねたんですよ」 「あ…!そっか!…ふふふ、ごめんなさい」 「もっと近くからやれば大丈夫ですよ、ほら、ね?」 ついでにもう一つ手本を見せれば、ヒロインはまだ俺の後ろに隠れたままだが、うんうんと真面目に頷いている。 こうなっても未だやる気はあるのだろう。 ヒロインが入れたものと俺が今入れたものに火を通す為にもう一度菜箸を手にし揚げていく。 さて…ヒロインの恐怖心を和らげるにはどうしたものか。 「――…あ、じゃあ箸、次は油に入れるところから菜箸を使ってやりましょうか」 「菜箸…でも私グソンさんの弟子だから、グソンさん流でやりたい」 「あー…そしたら俺も今日は全部箸でやりますんで、」 自分の手元を見ながら浮かんだ案を告げる。 手でやっちまった方が手っ取り早いから手でやっていたが、箸を使えば油との距離はできる。 だからヒロインも慣れるまでそうしていけばいい。 二つの唐揚げを油切りバットに乗せながらそう思った。 だが、その時。 「ヒロイン、初めてというものに恐怖心を抱くのは無理もない」 「聖護くん」 静かに本を閉じたダンナが立ち上がり、こちら側までやって来た。 もしかすると今ヒロインが俺の背中にくっついていたことは若干妬けたのかも知れない。 ダンナはヒロインの手を取り引き寄せて。 「だが僕と一緒なら怖くないだろう」 何故だが艶を含ませ優しく語りかけた。 …声色のせいで所々言い回しが引っ掛かるのは気のせいだろうか。 とりあえず、菜箸の件は置いておき、今は二人を見守ることにした。 「ヒロイン、大丈夫だよ」 「聖護くん、一緒にやってくれるの?」 「ああ、だから怖がることなんて何もないよ」 ダンナはヒロインを包むように背後に回り、ヒロインの右手の甲に自身の手のひらを重ねた。 それから新たに揚げる鶏肉を掴むように手引きしている。 「ヒロイン、まずそれをしっかり掴んでみようか、できるかな」 「うん…それはできる」 「感触はどう?」 あぁ……やっぱり。 明らかに必要のない問いに、悪ふざけを把握する。 ヒロインも察したらしくダンナの問いにくすくすと笑って。 わざとらしい口調で悪乗りを始めた。 「っ…はずかしいよ……聖護くん、どうしても言わないとだめなの…?」 「ヒロインの口から聞きたいんだ、僕の言うこと聞けるよね?」 「聖護くん……あのね、おっきくて…ぬるぬるしてる」 「フフ、そっか、」 ……何を言わせて満足げに笑ってるんですダンナ…と口を挟みたくなったが。 ダンナとこうしていることでヒロインの緊張もほぐれているようだから、妙な小芝居の傍観を続ける。 「じゃあヒロインのタイミングで入れてごらん、僕はそれに合わせるから」 「でも待って…!やっぱり怖いよ、聖護くん」 「僕が誘導してあげないとできない?」 「できない…」 「フ……仕方のない子だね、ヒロイン?」 「聖護くん呆れちゃった…?」 「いいや、」 ダンナの唇がヒロインの耳許で何かを囁けば、ヒロインは幸せそうに頬を染めた。 もう…唐揚げさえ無事にできりゃあ何でもいい気がしてくる……。 「ゆっくり入れるよ」 「うん…!」 「大丈夫、力を抜いて」 ダンナの言う通り無駄な力は入れずに導かれているらしいヒロインの手。 今度は油に触れる寸前の所でそっと手を離すことに成功した。 さっきのような事態を避けられたことにまず胸を撫で下ろす。 「―――ほら、全部入った、ね、ヒロイン」 「聖護くんとだから…私、怖くなかった」 「だがまだこれで終わりではないよ、動かしてもいいかい?」 「わかった…」 ダンナの手が添えられているヒロインの手は今度は菜箸を持った。 ここらか先の行程はヒロインは先程もやっていないから、初めてのこととなる。 揚げていりゃあ手に油が飛んでくることは多々あった。 実際油はまた踊り始めているが、果たしてヒロインは平気だろうか。 「聖護くん、激しくなってきた…熱いのが来そう…!」 「ヒロイン…辛くはない?もし辛いようなら一度止めるから言うんだよ」 「ありがとう…聖護くん、でもだんだん慣れてきたし、大丈夫」 「そう…ヒロイン、いい子だね」 言いながらヒロインの耳にキスをしたダンナ。 相変わらずいちいちやらしい物言いも玉に瑕だが。 結果的にヒロインは油はねがどの程度のものなのかも理解し、耐性も身に付けていっているようだった。 「…もうすぐだ、ヒロイン、出すよ」 「聖護くん…一緒に、」 「ああ」 文字通り、二人は油から唐揚げを一緒に出した。 最後まで茶番だった。 とは言え見守った甲斐はあっただろう。 「ヒロイン、初めてとは思えない出来だね」 「ふふ、聖護くんと私の愛の結晶」 「素晴らしいよ」 「…食っちまいますけどね」 一先ず終わり、やっと口を開くこともできた。 二人の視界にも俺が映る。 「グソンさん!私にもできた!」 「いい手際でしたよ」 「良かった…!じゃあグソンさんも、はい、あーん、味見して?」 唐揚げを揚げることができ満面の笑みのヒロインは、さっき俺がしたみたいに唐揚げをフォークで刺した。 それから俺の口の前へと差し出したから。 条件反射でヒロインに食べさせてもらう形となった。 「おいしい?」 「ええ、とても上手に揚がっています」 「僕とヒロインで揚げたんだ、当然だろう」 これもダンナの嫉妬のラインを越すことはなかったようだ。 それどころかダンナはどことなく得意気な面持ちで。 まぁ…ヒロインが唐揚げを揚げられるようになったのは間違いなくダンナのおかげだから無理もないのだろう。 「…ですが、まだ続けなさるんで?」 「チェ・グソン、一度で済むと思うかい?」 「あぁ……、でしたらもう少しペースを上げてもらってもいいですかね」 「だそうだよ、ヒロイン、できるかい」 「聖護くん…さっきみたいに優しくしてくれる?」 「もちろんだよ」 どうやら全てを揚げ終わるまで茶番に付き合わなくてはならないらしいが。 楽しそうにじゃれる二人に必要以上に口出しをする気は起きず。 仕上がるまで見守ることに徹した。 それが今日の俺の役目だ。 ――…だが、ダンナのいる時にヒロインと揚げ物をするのは暫く避けたい。 そう秘かに誓ったのは、ここだけの話。 チェ・グソンの料理教室 ← top ← contents ×
|