雲行きは怪しかった。


失望した相手を殺し、帰路を辿る途中。


一つの雨粒が落ち、地面に跡を残したかと思えば、それはすぐに一面に広がった。


容赦なく打ち付ける雨。


屋根のある場所で止むことを待つだとか、グソンを呼ぶだとか、濡れずに済む手段はいくらでもあった。


だが僕はそのまま家を目指した。



人を殺すこと自体に感情が動くことは全くない。


代わりならまたすぐに見付ければいい。


しかし失望を繰り返すことに僅かに感傷的になることはあった。


退屈な人間の為に手を汚すことは、必然だったとしても無価値でしかない。


人間の愚かさや脆さを目の当たりにした事態にも短く溜め息が漏れた。



それと同時に無性に触れたくなった、ヒロインの笑み。


今の時刻ならばヒロインも既に帰宅しているはずだ。


これ以上の無駄は避けたかった為、降りしきる雨など気にも留めずに、ただ歩いた。


手にしていた本も水分を含み、役を果たせなくなりそうだったが、それも厭わなかった。



すると予想よりも早く捕らえることができた求めていた姿。


角を曲がると、僕と同じく傘も持たずに、雨に濡れるヒロインの横顔が視界に飛び込んできた。


ヒロインはしゃがんでいて、ヒロインの前には普段リビングで世話をしている観葉植物が置いてあった。


形容するならば、どちらもちょこんと存在していた。


僕には気付くことなく、柔らかな眼差しで観葉植物を眺めているヒロイン。


ずぶ濡れではあるが、その様は愛らしく僕の瞳に映った。


先程まで胸の奥で小さくわだかまっていた感情には蓋がされ、口角は緩やかに上がっていった。


「―――ヒロイン、」


水が滴り煩わしい髪を掻き上げながら名を呼べば。


雨音に混じり響いた僕の声に反応したヒロインは、首を回し嬉々として僕を見た。


「聖護くん、おかえりなさい……って、びしょ濡れ!どうしたの」

「フ、君にだけは言われたくないけどね」

「あ…ふふ、私のは水浴び、暖かくなってきたらしようと思ってたから」


近付きながら言葉を交わして、僕もヒロインの隣に腰を落とす。


観葉植物を持ちこの場所にいたことから、ヒロインの行為に関してはすぐに察しがついた。


そして今“水浴び”という単語も出てきて確信に変わった。


「…ヒロインは水浴びが必要な生物だったかな、本当は翼が生えているとか」

「あはは、私じゃなくて、こっち、」


だが少しからかうつもりで見当違いのことを言えば、ヒロインは楽しげに笑って。


こっちと言いながら観葉植物を指差した。


「陽の光だけじゃなくて、雨にも触れさせたかったの」

「うん、いいと思うよ」

「でも両手で持ってきたら、傘が差せないことに外に出てから気が付いて」


数ヵ月前にヒロインが購入してきたこの観葉植物。


その日からヒロインはリビングで大切に育てていた。


だが昼夜問わず溢れているあの部屋の光は、当然だが植物に良い影響を与えることはなかった。


故にヒロインは時折外へ持ち出しては陽の光を浴びさせていた。


その感情の延長で雨空に晒したくなったのであろうヒロインの気持ちは汲み取れた。


「だがヒロインは、自身が濡れてしまうことは厭わなかったんだね」

「ん、なんか葉っぱに落ちる雨粒とか見てたら楽しくなってきちゃって…、どうせ濡れちゃったしいいかなって」

「そう」


自然と観葉植物に向いていた僕達の視線。


だが今ヒロインがこうしている理由も明確となり、話題をヒロインの感情に移したと共に視線も向けた。


ヒロインの長いまつげを伝い落下する雫が見えた。


「それに緑も綺麗」

「室内で見た感覚とはまた違うんだろうね」

「うん、それもあるし、聖護くん、私ね、此処で暮らすようになってから、雨も好きになったの」

「それはどうして?」

「街が丸洗いされてるみたいで……そのあとに晴れると街並みがキラキラして見えるし」


言いながら、視線を感じたらしいヒロインも僕を見つめ返し、ふんわりと微笑んだ。


「ホロなんかで覆わなくたって、それだけでとても綺麗」

「そっか……君のその感性、僕は好きだよ」

「うれしい、ありがとう」

「だからこれも緑が綺麗になったんだね」

「うん、天然シャワーで丸洗い」


―――笑みに触れたいとは思っていたが、具体的な何かをこの女に求め帰ってきたわけではない。


しかしヒロインの言葉に、僕の嘆きも洗われていくような心地がした。


灰色に覆われた空を仰げば、限りなく降り注ぐ雨粒。


瞳を閉じ、全身に浴びていることを改めて実感する。



「聖護くん…?」


するとすぐさまヒロインに声を掛けられ、左の手の甲には華奢な手のひらが重ねられた感触。


雨に打たれたせいで、互いに体温は奪われ始めているが、それでもヒロインのぬくもりは捉えることができた。


その体温に妙に安堵している自身を感じつつ、瞼を上げもう一度ヒロインの顔を見つめた。


「…僕も汚れを落として帰ろうかと思ってさ」


目が合った瞬間は不思議そうな顔をしていたヒロイン。


だが言葉を紡いで微笑めば、ヒロインの表情も再び綻び。


「聖護くんはそんなことしなくてもいつだって綺麗だよ」


屈託のない純粋な笑みが向けられる。


それだけで、総体的に見れば、悪くない一日だったと思える。



「そういえば聖護くんはなんで濡れてるの?」

「一刻も早くヒロインの顔が見たかったからね」

「…本、濡れちゃってもいい程に?」

「ああ、そうだよ」


宥めるように重ねられていた手を僕から握り直し。


一度だけキスをしたら家へ帰るつもりで、おもむろに顔を近付けた。


僕の雰囲気を察したらしいヒロインも静かに瞼を下ろした。


だが、その時。



「………げ、」


もう一つの聞き慣れた声が少し離れた所から届き。


キスはし損ね、視線を向ければ、傘を差したグソンが呆気に取られたように立ち竦んでいた。


「あ、グソンさん!おかえりなさい」

「はい、ヒロインさん、今戻りました、が…」

「チェ・グソン、君が今発した言葉は何かな」

「思わず心の声が漏れちまいました……だって…何故お二人でそんなに濡れてるんですか」

「水浴びをしていたんだよ、ね、ヒロイン」

「ねー聖護くん」

「話がよく見えませんけど……そのまま家に上がったら水浸しになっちまうでしょう、それを綺麗にするのは誰だとお思いで…」


繋いでいない方の手で観葉植物を抱え。


ごめんねグソンさん、等と言いながらくすくすと笑うヒロインの手を引き立たせた。


それからグソンの持つ傘の中へ入る。


「ちょ……狭い…!俺の傘に三人は無理ですって、なんで入ってくるんですか」

「君が濡れるなと言うから」

「あはは、グソンさん、お邪魔します」

「今更濡れるなとは言ってませんよ…!これじゃあ俺まで濡れちまう、特にあなた方の水分で」

「ならば君もいっそ濡れてしまえばいいよ」

「ああ……、……そうですね…これだけ濡れちまったらなんだかもうどうでもよくなってきました」

「じゃあ三人で濡れて帰る?」


言いながら嬉しそうに傘から飛び出していったヒロイン。


そんなヒロインの姿を見届けたグソンも、諦めたかのように眉を下げつつ微笑み傘を閉じた。


三人で雨空の下を歩き、同じ場所へと帰る。


平等に僕達を濡らす雨が止めば、きっとまたヒロインの望む景色が歓びをもたらしてくれることだろう。




雫となったメランコリー


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