ダンナとヒロインは出掛け、静寂に包まれる部屋で作業をしていた。


晩飯までには戻るらしい二人の為に、そろそろ支度でも始めようかと腰を上げる。


しかし冷蔵庫の品揃えが悪かったことを思い出し、まずは食材を調達しに行くことにした。


ヒロインに“夕飯に食べたいものはありますか”とメッセージを送りつつ外へ出る。


傾き始めた陽につられ冷え込んでいく空気。


それが妙に心地好かった故、バイクよりも徒歩を選択。


だがしばらく歩くと、予想外に冷えを感じてきている身体に気付き、思わず苦笑いが漏れる。


アウターは置いてきた。


いつだって最適な温度で保たれるあの部屋のせいだと思えた。


途中チープな缶コーヒーを買い、手のひらに程良い温かさを与えながら歩道橋を上った。


眼下に広がるのは大通り。


街路樹を彩るイルミネーションが夜を待つ。


缶コーヒーの蓋を開け口に運びながら、黄昏に滲む様をぼんやりと眺めた。


ヒロインからの返信は未だなく、待つ意味も兼ねた。


これを飲み終えるまでに返信がなければ、この間食べたいと言っていたチーズフォンデュにでもしようかと思案する。


そんな中、視界に流れ込んできたのは見覚えのある一台の車。


運転席を目視するとハンドルを握るダンナの姿があった。


助手席にも目をやれば案の定ヒロインがいる。


だがヒロインは眠ってしまっているようで、安堵に満ちた寝息が聞こえてきそうな程の安らかさを感じた。


「…フ、連絡来ねェわけだ」


夕飯についての返信がないことにも合点がいく。


俺との距離が僅かに縮んだところで、赤になった信号に従い緩やかな減速の末停止した車。


今日もまたあの人は自動運転など存在しないかのように扱う。


少し長めの赤と知ってのことか、ダンナはヒロインへと向きを変え、頬を指で撫でた。


完全に表情が見えるわけではないが、俺には見せねェ柔らかさを持ち合わせていることは容易に知れた。


それから何をするのかと思えば、顔を寄せ。


ほんの小さなキスをヒロインの唇に落とした。


ああ…相変わらず……と心の中で独りごちる。


…だが表現方法こそ違うものの、ヒロインを構いたくて仕方ねェのは俺も似たようなものかも知れない。


キスをされたヒロインは反応を示し、瞼を上げ幸福だけが映る瞳にダンナを収めた。


今しがた触れられたばかりの唇が「おはよう、しょうごくん」とゆるり動く。


おそらくダンナも満足したんだろう。


「起こしてしまったね」と言いながらも、ゼロまで近付いた距離を元に戻そうとしたように見えた。


しかしそれも束の間。


ヒロインはダンナの動きを止め、何故かダンナの首に腕を回した。


「ヒロイン?」

「もうおしまいなの…?」

「うん?」

「だっていつももっとしてくれるのに…」

「……フフ、ああ…」


今もまだヒロインの瞳に映るのはダンナのみ。


この瞬間ダンナと俺の脳裏に浮かんだ事柄は同一であったに違いない。


“二人きりの部屋での寝起きと勘違いしているのだろう…”と。


その上おそらくダンナは、僅かに膨れたヒロインに耳許で密めかれた。


ヒロインに甘えられれば存分に応えるダンナだし、例え世間を脅かす男だとしてもヒロインのアレには弱いらしく。


この状況とて例外にはならなかったようだ。


繰り返されるのは、ついばむように触れるだけの口付け。


一層の幸福で染まるヒロイン。


魔性、だとか最も似合わねェ言葉なのに、イコールになっちまいそうになる。



「はあ…もう……相変わらず……」


と、今度は無意識に音となり零れた。


甘ェなァ……と呟きながら、甘味料など一滴も入っていないコーヒーを飲み干した。


同時に喧騒の中、一際目立つ音で鳴り響いたのはクラクション。


二人の間を貫いた。


自動運転が主流なこのご時世、青信号で進まねェ車なんてまずない。


ダンナは想定内といった面持ちだが。


二人きりの空間にいると思い込んでいたヒロインにとっては随分と異質な響きとなったことだろう。


目をまん丸にさせ肩を竦ませてから辺りを見回した。


自分の置かれている状況に気付き、眠気も一気に吹き飛んだようだ。


「……まだ外…!」


咄嗟に赤らめた頬を両手で覆い、恥じらいを最大にあらわにした。


今度こそヒロインから離れ前を向いたダンナは、至極楽しげに笑いつつ、アクセルを踏み車を発信させた。


再び流れ出す停滞した色。


気付けばイルミネーションの輪郭は更に明瞭さを増していた。


「――……さて、行くか…」


物凄く甘ったるい現場に遭遇しちまったけど、爽快なクラクションのおかげで後味も悪くない。


階段を下りた所で目に入ったごみ箱に空き缶を捨て、改めて食材を調達しに向かった。


運良く焼きたてのバゲットを手にできた時、端末が鳴りヒロインからの連絡を知らせた。


だがそれはメッセージではなく着信だった。


「もしもし、ヒロインさん?」

「グソンさんごめんね!夕飯のこと気付けなくて返事できなくて…」

「構いませんよ、その為にわざわざ連絡くれたんです?」


ヒロインが気付けなかった原因は目の当たりにしたし、そうでなくとも咎める気など更々ない。


ヒロインの性格を思えば、連絡にも気付かず眠っていた上に車内とはいえ公の場でダンナとじゃれあっていた件も相俟って、後ろめたさを感じていることも分かるが……。


それでもヒロインが幸福ならば何だって構わないと思えちまうのは紛れもなく本心から来る現状だった。


「だって…ごめんねグソンさん、もしかして今買い物してくれてる?」

「ええ、結局今夜はヒロインさんが先日仰っていたチーズフォンデュにしようかと」

「覚えててくれたの?ありがとう、うれしい」

「いいえ」


電話越しの雰囲気が綻んだことを感じ、つられて頬が緩む。


レジで会計を済ませながら会話を続けた。


「あのね、私たちもうすぐ家に着くから、冷蔵庫のありもので良ければ作るよって思って電話したんだけど……グソンさんさっきまでお仕事もしてただろうし」

「ああ…ですがヒロインさんはそんなこと気にしなくて大丈夫ですよ、もうすぐ帰りますし、帰ったら俺が用意するんで」

「本当に?……あ、じゃあ何かスープとかだけでも」

「本当に大丈夫ですって」

「でも、いつも甘えてばっかりなのに」

「そんなの……それこそ、」


本望ですよ――と返事をしつつ、常日頃のダンナの気持ちとのシンクロを実感した。


全く別物の立ち位置だというのに、ひとりの女に対し、可笑しなものだと感心すら覚える。


「ヒロインさんは笑顔で迎えてくだされば、それでいいですから」

「…ふふ、本当にそれだけで?」

「何よりですよ」

「ん…じゃあ今日もお言葉に甘えて……、待ってるね、グソンさん」


なるべく急いで帰ることを告げれば、返ってきたのは気を付けてねという穏やかな声。


通話を終え外へ出ると、もうすっかり陽は落ちていた。


夕暮れ時より更に冴えた空気。


だが向かう先が、明かりの点いた暖かな部屋だということは明白だから。


三人分の食材を手に、苦ではない寒空を連れ歩いた。




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