歌舞伎町へ寄るとリビングで独り、ダンナがパソコンに向かっていた。


表情はなんだか楽しげで。


時間のある時は大概本を読んでいるダンナにしては珍しい光景だった。


仕事休みのはずのヒロインの姿も見当たらない。



「ダンナ?何してるんです?」

「ああ、君か……あとはこれを提出すれば完了だよ」

「提出?何をどこに………は?」


声を掛ければ俺に視線を流したダンナだったが、またすぐにモニタに意識を戻し満足げに笑んだ。


何が映し出されているのか確認する為に近付き、ダンナの視線の先に俺も目をやった。


だが思いもよらぬ文字が飛び込んできて思わずぎょっとする。



その文字は、婚姻届。



「今からヒロインは槙島ヒロインになるよ」

「ちょ…ちょっと待ってくださいよ、ダンナ…どうして、こんな……急に」

「急なわけではないよ、ヒロインとだったら経験しておくのも悪くないと思っていたからね」

「だからって……あ、しかもなんですか、これ…!!勝手に…」

「うん?」

「俺を証人にしたら駄目でしょう」

「構わないだろ?」

「いやいやいや…構う構わないの問題じゃなくてですね…」


俺は無論、この人だってこんな文字とは生涯無縁だと思っていた。


それなのにそんなものが今俺の視界で主張をしていて、正直動揺しちまってる。


その上ここの住所や俺の存在を含め、表に出すわけにはいかないものも堂々と記入されていて。


「ヒロインさんのご両親は…」

「名を拝借したよ」

「もちろん無許可ですよね…、じゃあダンナの父母の欄は………」

「偽造だね」

「ああ…やっぱり…」


この偽造だって、おそらく短時間で行った雑なものだろうし。


受理されるわけもないが、それ以前の問題が山積みだ。


相手がヒロインならばこれを提出しても構わないと思っているらしいダンナの心境だけは腑に落ちなくもないが…。


しかし今は、そもそも肝心のヒロインがいない。


「…まずダンナ、ヒロインさんはどうしたんですか?」

「ヒロインなら帰らないと言って出ていったよ」

「え…?出て……え?」

「もう帰って来ない」

「………嘘、ですよね?」

「君は僕がそんな意味のない嘘を吐くと思っているのか」

「何があったんですか…!!」


婚姻届に続き、二つ目の衝撃。


俺の動揺は静まることを忘れたようだった。


一昨日の晩も三人で食事を取ったが、普段と何ら変わりはなかったというのに。


相変わらずヒロインはダンナに惚れているし、そんなヒロインをダンナも大切にしていることは一目瞭然だった。


それなのにヒロインが出ていった。


あのヒロインが出ていくなんて余程のことだろう。


しかもそんな状況で婚姻届など以ての外だ。


何がどうしてこうなったのか。


「独りで過ごす休日は久々でね、出掛ける気も起きなかったから朝から本を読んでいたんだ」

「そりゃあヒロインさんがいなくなっちまったんなら久々だったんでしょうけど…」

「途中、君もヒロインもいないから自ら紅茶を淹れた」

「はあ…」

「それで泉宮寺さんの遺したウイスキーがあったことを思い出したから、入れて飲んでいたんだよ」


ここまで聞いて、婚姻届の衝撃で気付かなかったが、空のボトルとグラスが置いてあることも目に入った。


紅茶を飲んだと言うティーカップがあるようには見えない。


「そのウイスキー、一本空けたんですか」

「味が良かったからね、紅茶の後はストレートで呑むことにしたんだ」

「てことはダンナ…酔ってるんですね」

「ハ…酔ってなどいないよ」

「……」


普段そこまで呑む人でもない。


ましてや酔っているところなど見たこともない。


しかし今は、上機嫌で婚姻届なんか書いちまうくらいだし、確実に酔っている。


ダンナが酔っていないと言うならば、これ以上言及しても仕方ないが…。


「そして呑みながら一冊読み終えた、だが今日は一冊読む間も読み終えた後もじゃれついてくるヒロインがいなくてさ…」

「そうですね…」

「いないことが不思議だなんて不思議だろ」


そう言ってダンナはクスクスと笑っている。


だがきっとヒロインがいなくなっちまったことが相当のダメージだったんだろう。


でなければ考えられない行動ばかりだ。


「だからね僕はヒロインと婚姻関係を結ぼうと思い至った」

「なんだか色々と端折られた気もしますが……それは至りすぎですよ、ダンナ」

「そう?僕の生活にヒロインの居場所を表面的にも作っておくだけの話だよ」


確かにダンナの言う通りヒロインはダンナの暮らしにすっかり馴染んでいた。


そして関わり合う俺の生活の一部にもなっていた。


だから実際ヒロインが出て行っちまったとなると、俺の心にも空虚が訪れる。


駆け引きや利益とは無縁のヒロインとの時間。


それは今の俺にとって唯一と言っても過言ではない程に貴重なものになっていた。


故にヒロインにはここで暮らしていてほしいという本音が存在していることも否めなかった。


それが例えエゴだったとしても。


とは言えこんな方法で繋ぎ止めておく訳にもいかない。


そんなことダンナだって分かりきっているはずだ。


むしろそんなもので他人を縛る行為は真っ先に嫌うはずだが…。


「だいたいヒロインさんの意志はどうなるんですか」

「それは問題ないよ」

「いや…だって出て行っちまったのに……ダンナはヒロインさんの意志を無下に扱うような人じゃないでしょう」

「フ、馬鹿だな、僕はむしろ尊重しているつもりだけどね」

「っ!」


そうして会話は噛み合わねェままに。


ついにダンナの右手は、送信ボタンをクリックしようとした。


咄嗟に手首を掴んで全力で阻止し、空いている方の手で全項目をクリアした。


仲睦まじく並んでいたダンナとヒロインの名は白紙に戻る。


刹那鋭い眼光が刺さり、物凄く居心地が悪くなったが、この際気にしていられない。


「まずダンナ、ヒロインさんと話し合いましょう!ね?俺もいますんで」

「君は今、自分のしたことを分かっているのか」

「分かってますよ、分かってますけど…、ああ…もう……」


このままじゃ埒が明かねェから、端末を取り出しヒロインに電話を掛けた。


出て行っちまうほどのことがダンナとの間にあったんだから、泣いている可能性もある。


ヒロインを呼ぶ電子音を聞きながらも、まずなんて声を掛けてやるべきか…と模索していた。


だが考えが纏まる前にその音は途切れ。


「もしもし、グソンさん?」

「あ…、」

「どうかした?」


思っていたよりもずっと明るいヒロインの声が聞こえてきた。


予想外の声色に、俺の返答の方が不明瞭なものになっちまった。


「えー…と…、ヒロインさん、今何処に、いるんですか」

「今夜はね友達とお泊まり会なの、だから今は友達の家だよー」

「…!!おとまりかい…」

「うん?グソンさん?なんかあった?」


いつもと変わらないヒロインの空気が軽やかに流れ込む。


緊迫していた心が一気にほぐれていくことが分かった。


それにしても…俺の早とちりもあったかも知れないが、明らかにダンナの説明不足だ。


さっきまでの混乱が杞憂だった反動で、恨めしげな視線を向けたくもなっちまう。


だが見れば、ダンナは今も自身に否は全くないと言わんばかりの態度で。


貫かれる傍若無人ぶりに、安堵したことも相俟って、恨めしさは通り越し溜め息と笑みが漏れた。


「いえね、ダンナが酔ってまして…」

「え?酔うって…聖護くんが、お酒で?」

「はい、それでヒロインさんに助けていただこうかと思って電話をしたのですが…」

「うそ…!聖護くんが酔うことなんてあるの?」

「ええ、俺も初めて見たんてすけど…って、あ、」


平静を取り戻し、とりあえずこの状況の説明をしておこうかと思った時。


白い手が視界に入ったかと思えば、すぐさま端末を奪い取られた。


俺の端末を耳に当てたダンナは、ヒロインだけに向ける笑顔にきっちりと切り替えて。


柔らかな口調で会話を始めた。


「ヒロイン」

「あれ?聖護くん、」

「チェ・グソンの戯れ言は気にすることはないよ」

「けど聖護くん酔ってるって本当?大丈夫?」

「今日は呑みながら読書をしていたんだ、でもヒロインが心配するようなことは何もないよ」

「ん、ふふ、だけどまたグソンさんに何か迷惑を掛けたんじゃないの?」

「まさか、むしろ迷惑を被ったのは僕達の方だ」

「?、僕達?」


通話をしながらもダンナの右手は、さっき俺が決死の思いで消した全てをまた一から埋め始めた。


「―――婚姻届をね、書いたんだ」

「婚姻届?」

「僕とヒロインの、」

「ぇ………え!?本当に?私聖護くんのお嫁さんになれるの?」

「フフ、お嫁さん、ああ、そうだね、ヒロイン、僕のお嫁さんになって」

「嬉しい!…でも聖護くん、やっぱり酔ってるでしょ」

「ヒロイン、僕がそんな呑み方をすると思うかい?」

「んーん、そんな聖護くん見たことないけど」


全てをはっきりと聞き取ることはできないが、受話器の向こうにいるヒロインは今も終始優しくダンナを受け入れてやっていることだろう。


だから、確かにヒロインならば知らぬ間にダンナと婚姻関係が結ばれるようなことがあっても、手放しで喜ぶに違いない。


しかしそれでも、これを提出するわけにはいかないことには変わりねェのに。


「ただヒロインを驚かそうと思っていただけなんだよ」

「あはは、そっか、それ成功してたら超すごいサプライズだったね」

「なのにチェ・グソンという障害物が阻んできたんだ」


だが俺の言うことなんて聞きゃしねェし。


ヒロイン個人の時間を邪魔するのは気が引けるが、やはりヒロインを帰ってこさせるしか道はないのか…。


「あ、でもね、聖護くん、」

「なにかな」

「婚姻届って昔ながらの紙でもいいんだよね?」

「そうだね、印刷したものに記入して厚生省に直接提出することもできるそうだよ、この時代そんなやり方をする人間はそうそういないだろうけどね」

「だけど、じゃあ私それがいいな、自分で紙に書いた方がより実感が湧いて幸せだと思うから」

「一理あるね、ヒロイン、僕はそんな君の姿を眺めていたいとも思うし」


ヒロインに帰宅を促すにしても、まずダンナに端末を返してもらわねェと始まらない。


しかしそれがまた難関だ…と頭を抱えそうになった。


が、どうやら帰ってこさせるまでもなく纏まりそうで。


「だからもし本当にお嫁さんにしてくれるなら、私が帰るまで待っててくれる?」

「ああ、分かった、待っているよ」


ヒロインの提案を聞いたダンナは呆気なく届け出を破棄した。


…俺のした苦労は計り知れねェっつーのに。


ヒロインの一声があればこんなにも簡単に丸く収まっちまうわけだ。


「明日になっちゃうけどいい?」

「もちろんだよ、友人達と過ごすのは久々だろう、ゆっくりしておいで」

「ありがとう、…じゃあ聖護くん、もう一回グソンさんに、」

「代わらなくても平気だよ、おやすみ、ヒロイン」

「ふふふ、わかった、おやすみなさい、聖護くん」


…何はともあれ、無事にあの婚姻届が破棄されたことにほっと胸を撫で下ろす。


これで今夜の問題は全て解決だ。


穏やかな表情で通話を終えたダンナから、何事もなかったかのように差し出される用済みになった端末を受け取る。


「…お友達さんの所へ行っていて帰ってこられないだけならそう言ってくださいよ」

「言っただろう、今夜は帰らないと言って出ていった、今日はもう帰ってこない、と」

「どちらも大切な主語が抜けていましたよ…」


意図的だったのか、無意識だったのか。


知る由もないが、俺の疲弊を目の当たりにしたダンナはフと口角を吊り上げた。


ヒロインのいない時間を持て余していたことは定かであろう。


「でもてっきり先程ヒロインさんに早く帰ってくるよう言うのかと思いましたよ」

「言うわけないだろ―――例え、指通りのいい髪を撫で、頬にキスをし耳朶を甘噛して、首筋に顔を埋めつつ優しく抱き締め、ゆっくりと唇を重ね、余すことなく触れながら抱きたいと思っていたとしても、そんなことは言わないよ」

「………ダンナは酔うとおかしな方向にアクティブで饒舌になるんですね…」

「だから酔っていないと何度言えば分かるんだ」


それから持て余したのは、時間だけではなく、心も。


一晩離れるだけだったとしても、今のダンナにとっちゃ物足りなさがあるんだろう。


恋しさ故に婚姻関係を結ぼうと思い立つなんて、ダンナにも一般的な男心のようなものがあるのか。


と、一瞬頭を過り、感心しそうにさえなったが。


「………普通の男は勝手に婚姻届書いたりしねェか…」

「何が?」

「いや…俺も少し思い至っただけですよ」


普通に考えりゃあ行き過ぎてる。


そのことを独りごちれば、改めてダンナと目が合った。


「そういえば、そもそも君は何をしに来たのかな」

「作業の方が大詰めですからね、今夜は少し疲れたんでヒロインさんの顔でも見れればと思ったんですが…」

「そう、それは残念だったね」

「余計疲れましたよ」


振り回されたことは事実なのだから少しくらい大仰に疲れたと主張してもいい気がした。


が、ダンナの目線は既に俺ではなく。


何もない天井を仰ぎ、それからゆっくりと瞼を下ろした。


やっぱ聞く耳持たねェなァ…と苦笑いが零れる。


そのまま静寂が生まれたから、寝ちまうのかも知れねェと思った。


しかし清々しい程に秀麗な横顔は、小さく「ヒロイン」と呟いて。


想いを馳せている様子。


それに対して俺は、やれやれと返し。


空のボトルとグラスを片付ける為に、立ち上がった。


グラスと、シンクに置かれたままになっていたティーカップを洗いながら、もしも本当にダンナがヒロインを妻にする気があるのなら、と無意識に考えていた。


やはりどう考えても現実的ではない話だ。


だが煩わしい思考を取っ払っていいのであれば、偽造にだって手を貸し最善を尽くすだろう。


祝福の準備は万全なことに気付く。


もうすぐシビュラの正体を暴いて、世界を引っくり返すことを目論んでいる頭で、こんな風に浮わついたことを考えている場合じゃねェのかも知れねェけど。


全てが必要な現実だった。


どう転んでいくのか、全てダンナ次第の現実―――。



少量の洗い物を終え水を止め、今夜はもう細かいことを考えるのも止めた。


疲労感があったとしても、気分は悪くない。


そんな心地に身を委ねたまま、今日という一日を終えた。




「ダンナも今夜はもうお休みになったらどうですか、もう一冊本でも読んで―――そうですね、太宰治なんていいんじゃないかと、」

「太宰?……人間失格、とでも言いたいのか?」

「俺はそれ読んだことないから知らないですけど………一部分の冒頭くらいしか…」

「知っているんじゃないか、確かに酒は呑んだけど、僕は恥の多い生涯を送るつもりはないよ、チェ・グソン、どういうつもりか説明してもらおうかな」

「あー……軽いジョークってことで流してもらえませんかね」

「いいや、納得がいかない、少し話し合うとしようか、チェ・グソン?」

「はぁ…ヒロインさん、やっぱり早く帰ってきて……」




ほろ酔いトリック


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