第十章 22-1
宴は夜が更けても盛り上がりを見せていた。皆酔いが回ってくる頃合いのようで、顔を真っ赤にした人やその場で寝始めてしまう人もいたが、宴にはまだまだ活気が残っている。
そんな宴もたけなわな雰囲気の中、リタは喧騒から遠ざかるようにそっと抜け出し、集落の柵を越えて草原に出る。宴の熱気に当てられたせいか、風がより冷たく感じられた。
草原の暗がりに慣れれば、目の前には先程まで見えなかった星空が鮮明に広がっていた。
(あ、流れ星)
ちらりと姿を見せた流星は、夜空を縫うように小さな銀色の針のような軌跡を描く。そして、瞬く間に消えてしまった。人間界には、三回願い事を唱えれば叶う、という言い伝えがあるらしい。しかし、注意深く目を凝らしていても見逃してしまうような微かな輝きに三回も願いを繰り返し唱えるなんて、さすがに無理だ。
(願い事かぁ……)
願い事と言えば、リタが今集めている女神の果実にも願いを叶える力がある。ただし、願い主の意図せぬ方向に暴走しかねない危うさも孕んでいる。迂闊に願いを叶えようものならば、もれなく騒動も着いてくるという嫌な特典付きで、今までそのような事例を見てきたリタは、果実で願いを叶えようとは思わない。そもそも、天使にとって女神の果実とは、天の国へと帰り安寧を得るためのものだった。
さて、地上に落ちた果実はあと何個残っているのだろう。
(女神の果実を集め終わったら……ここにいちゃ、駄目だよね)
リタは天使だ。本来ならば、星空を見上げるのではなく、地上を見下ろす側のはずだった。
今となっては、それが寂しく感じてしまうなんて。
(私は、ウォルロ村の守護天使に戻れるのかな。もし、このまま羽根が生えないままだったら……?)
幽霊は見える。でも、星のオーラは見えなくなってしまった。
自分の姿が人間にも見えるようになった。でも、魔物にはリタが天使だと感付くものもいた。
結局、天使とも人間ともつかない、中途半端な位置にリタはいた。不安定な足元にも似た落ちつかなさが、心許なく感じられる。
(あ、でも女神の果実が実ったから守護天使としての役目は終わりなのかな)
それは、大昔から代々言い伝えられてきた天使達の宿願だった――女神の果実が実る時、神の国への道は開かれ、われら天使は永遠の救いを得る、と。
だとしたら、その後誰が人間界を守るというのだろうか。
(天の国に行ったらもう戻ってこれない、よね……)
天使としての力を取り戻せたとして、天の国へ行けたとしても。もう二度と会うことも、それどころか一目見ることすら叶わなくなってしまうのだろうか。根拠はないけれど、なぜだかそんな気がしてならなかった。
空を見上げながら、リタは天使について、人間について、そして自分がこれからどうするべきかを考える。地上から見上げた星空は、相も変わらず目の前いっぱいに広がっているけれど。
――なんて、遠い。
「何を考えてる?」
「ひゃっ?! ……あ、アル!」
耳元で突然声がした。肩をびくりと震わせ、後ろを振り返ると、呆れた表情を浮かべるアルティナがいた。これはもしかして、いや、もしかしなくても。
「ごめん、えっと……もしかして呼んでたり?」
「全く気付かなかったな」
最早慣れたとでも言っているようなセリフだった。
リタが考え事に没頭してしまうのはよくあることだ。故意ではなかったとはいえ、無視してしまったことには変わりない。申し訳なさに項垂れていると、アルティナは顔を夜空へと向けた。
「星を見ていたのか」
「あ、うん……良く見えるでしょう?」
天気が良く、雲は一片も見当たらない。この広い草原で、唯一の光源は大きく欠けた月だけだった。
二人で、しばらく空を眺めていた。言葉はなく、しかしその沈黙は決して気まずいものではなかった。
ただ、背中で感じるアルティナの気配に、少しだけ緊張してしまったけれど。
エルシオン学院の図書室での出来事を、未だに忘れられない自分がいる。あんなに近くから顔を眺めたことはない。鋭い眼差しに縫い止められたように体が動かなかった。
(どうして、アルは……)
あんなことをしたのだろう。
聞きたくても、聞けるわけがなかった。また同じことになったら――きっと、耐えられない。その時、自分がどうするのかなんて、全く想像がつかなかった。
(そうしたら、私は……どうすれば良いの?)
気持ちの整理は付かず、アルティナの意図も分からず。曖昧なままにして、ここまで来てしまった。困惑のせいか、そわそわとして落ち着かない。そんなリタの様子に気付いたらしい、アルティナが声をかける。
「どうした?」
「え、っと……あ、あのね、」
咄嗟に返事をしてしまったが、一体何を言えば良いのだろう。学院の図書室でのあれは一体何だったのか、だなんて聞ける勇気はない。まず、平常心で訊ねることが不可能だ。
峻巡した後、ふと、言わなければならないことがあったのを思い出した。今まで共に旅をしてきた三人の仲間達に言おうと思っていたことだ。
それは――これからどうするか、ということ。
「私、一旦天使界に戻ろうと思う」
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