第十章 22-2
さぁっと草原の風が吹き抜ける。風の吹いてくる方向を眺めると、星々を背景にして、黒い山々がシルエットのように浮かび上がっていた。
夜の草原は、少々冷える。エルシオン学院のあるエルマニオン雪原よりも断然マシな寒さなのだが、あの時よりも薄着である分、冷たい風が身に染みる。
アルティナは、何も言わない。ただ、続きを促すようにこちらを見ている。
「女神の果実、結構集まってきたでしょ? 私が持ってるより天使界に置いといた方が安全だし、天使の人達も安心すると思うの」
シャルマナを倒し、ナムジンから女神の果実を受け取った直後、サンディと話して決めたことだ。
果実が地上に何個落ちたかは分からない。全部集めきったのか、それともまだ地上のどこかに残っているのか。それを確かめるためにも、天使界に行かなければ。
少し間を置いて、アルティナは「そうか、」とだけ言った。それに対して、リタも頷く。
「女神の果実って何個あるのかな。……一緒に落ちちゃったから、よく分からないや」
そう言い、力なく笑う。
世界樹に果実の実ったあの夜。禍々しい力が天使界を襲い、吹き飛ばされたリタは果実と共に地上へと落下した。そこから、リタの旅は始まったのだ。
あれから、随分と時が経つ。それは、人間界で過ごした時間が長くなってきたことを意味する。離れがたいと、思うほどに。
果実を回収し終えたら、人間界で出会った人達と会えなくなってしまう。……見守ることは出来るかもしれないけれど。だが、それはリタが守護天使に戻った場合のこと。
果実が全て揃ったら、その時は――。
「果実を全部集めたら、お前はどうするつもりなんだ?」
心を読まれたのでは、というタイミングだった。
核心をつく問いかけに、リタは一瞬息を詰めた。反射的にアルティナの方へ顔を向ける。静かな眼差しが真っ直ぐとリタに注がれていた。誤魔化そうものならば、すぐに見破られてしまいそうだった。
「私、は……」
今まさに悩んでいることだ。どうするべきなのかは分かっている。分かっているのに、どうしてこんなにも迷っているのだろう。
それでも、天使としての役目を全うしなければという思いからリタは盛大に悩みつつもポツリと言葉を口にする。
「天使界に、帰ることになると思う……」
自分が言っているはずなのに、他の人が話しているように聞こえた。そんな違和感を伴う声は、夜の草原に放り出され、行き場を無くしたかのように余韻を残す。
どうしたことだろう、地上に落ちたばかりの頃は天使界に戻ろうと必死だったはずなのに。
リタの心の迷いを見透かすように、アルティナは尚も問う。
「もう戻ってこないつもりか」
天使界に帰るとは、つまりそういうことだ。天使が見える体質のアルティナといえども、リタが神の国へ行ってしまえば、再び会うことはほぼ不可能だろう。
「だって、私は……天使だし、いつまでもここにいるわけにはいかないから……」
最もらしい理由を探して、告げる。まるで、自分に言い聞かせるように。そうするべきなのだと頭では理解していても、感情の方がついて行けていない。
リタの顔がだんだんと俯きがちになる。
「別に、いても良いと思うんだが?」
「え……」
「いちゃいけねーなんて誰が決めた。お前がここにいたいなら、いれば良い」
アルティナの、飾り気のない実直な物言いに、心を揺さぶられるようだった。確かに、誰かに言われたわけではないけれど。リタが人間界に留まっているのは女神の果実を回収するためで、だからこそ誰かに咎められることもなく、今こうしてここにいるのだ。
「だって、天使なのに……そんなこと……」
出来ない、と続けようとした。
天使が人間界で生きていくのは難しい。天使と人間は、やはり違う存在で。地上に一人天使として生きていくことは難しい。
だが、リタのような人間に姿の見える天使であれば、話が違う。
「天使ってのは、人間の助けをするのが役目なんだろう」
「そう、だけど……」
「だったら、今までだってやって来てるじゃねーか。お前のしたことは、果実を回収するだけじゃなかったはずだろ」
困っている人達を助けながらの旅だった。仲間達と巡り合い、力を合わせ、立ち向かい、そして様々な人達との出会いを重ねて、いつの間にかリタにとってかけがいのないものとなっていた。
天使界に戻らずとも、天使の役目は十分に果たせいると、アルティナは言うけれど。
「このままでいることは、出来ないのか」
それでも――リタの帰る場所は、ウォルロ村を守っていた時も、たった今も、いつだって天使界だった。そこには、天使の仲間達がいる。師匠イザヤールの弟子として、ウォルロの守護天使として――それが天使界での、天使としてのリタの立ち位置だった。
「無理だよ。私、人間じゃないのに……ここにいて良いわけない。居場所がないもの」
地上にいれば、自分が天使であることなど言えるはずもなく、同じ存在だっていない。人間界で暮らすには、リタには秘密が多すぎる。
頑なに首を横に振るリタはうつ向きがちで――だから、微妙な空気の変化に気付くのが少し遅れてしまった。
「俺がいて欲しいと言ったら、お前は残るか?」
「アル……?」
顔を上げれば、視線と視線がぶつかる。アルティナの深い青色の瞳には迷いや躊躇いというものがない。それを通して伝わる強い思いは、戸惑うばかりのリタにとって、どうしても心がざわつくものだった。
一歩踏み出して距離を詰めたアルティナから、思わずリタは一歩退いて後ずさる。逃がさないとでも言うように手を捕まれてしまえば、もう逃げ道なんてなかった。そのまま手を引っ張られ、更に二人の間の距離が縮まる。
あの時と同じだ。リタは戸惑いながらも、どこか冷静に思い出す。エルシオン学院の図書室での空気と、似ている。青い瞳から目が離せない。
「俺がお前の居場所になる。ここにいてくれ」
心臓が、大きく跳ねた。顔がじんわりと熱くなるのを感じた。
高鳴る鼓動で胸が苦しい。捕まれていない方の手を握りしめ、胸に押さえつけた。そうでもしないと込み上げてきた感情が溢れてしまいそうで。
「それは……、天使界の皆に聞いてみないと……」
「そういうことを聞きたいんじゃない」
アルティナの瞳の奥には、焦燥の色が見え隠れしていた。それを見たリタの中にも、何かが逸る。胸は苦しくて、逃げ出したくてたまらないのに……もう少しだけ、耳を傾けていたい。深く澄んだ青い瞳を眺めていたかった。
「他のヤツらが何言おうと知るか。天使だとか人間だとか関係ねぇんだよ。俺は、」
アルティナの手が、風に翻弄されるリタの髪ごと掬い上げるようにして輪郭をたどり、耳の後ろ辺りまで覆った。冷たい外気に相反して、心地よい温かさを感じる。
見上げるアルティナの顔が、いっそう近くなる。
「お前の気持ちを知りたい」
痛いほど真っ直ぐな言葉に、胸の奥が切なく疼いた。――どうして、そんなずるいことを言うのだろう。
リタは、アルティナの視線から逃れるようにうつ向く。
「……天使界に帰らなきゃ、ダメなの」
でも、とリタは再び顔を上げた。アルティナの目には、泣きそうになっている自分の顔が映っていることだろう。込み上げてきた感情を、何とか堪えている状態だった。
事情や理屈を取っ払った先にあるもの。それは、自分すら騙し騙し気付かないふりをしてきた本音だった。
「私だって、本当はここを離れたくない……!」
自覚はしていた。自分はこれからも、地上を見守って行きたい。大切な人達のいる世界を守りたい。――神の国へ行く意味を、見失いつつある。だが、天使界はリタにとって唯一無二とも言える故郷だ。
「ごめんね。すぐには、決められないよ」
天使界か、それとも人間界か。両方を天秤にかけたところで、気持ちの重さなんて推し量ることは出来ないのだ。
それが、リタの今言える精一杯の本音だった。答えを出せないでいるままのリタを、アルティナはどう思ったか。
「なら、今回果実を置いてきたら絶対戻ってこい。……帰ったまま音沙汰ないのは御免だからな」
すぐ近くに感じていた熱が離れていく。掴まれていた手は自由になり、動悸も収まった。ひとまず保留、にしてくれたのだろうか。
リタはホッと息をつき、頷く。
「うん……ちゃんと戻ってくるから」
「……仕方ねぇが、とりあえずはそれで良いか」
今はな、と付け足された言葉に何やら不穏なものを感じなかったわけではないけれど。
それよりも気になっていたことをおずおずと訊ねる。
「アルは……私に、ここに残って欲しいの」
「そうだな」
即答だった。恥ずかしげもなく堂々としているところが、アルティナらしい。クスリと少しだけ笑ってしまった。
「どうして、そう思ってくれるの?」
「……まだ分からないのか?」
「え?」
少々憮然とした面持ちのアルティナと、目をパチパチ瞬かせるリタ。いくら鈍感だと言っても、ここまで来れば分かりそうなものだが。
――自分の気持ちを知った時、リタはどんな反応をするのだろう。気付けば、アルティナは口を開いていた。
「俺は、お前が……」
きょとんとしてこちらを見るリタ。これから何を言われるのか全く分かっていない様子である。
奇妙な沈黙が横たわる。
「…………」
「…………」
「…………、やっぱり止めた」
気が乗らない、というようにアルティナはふっと息をついて顔を反らした。気まぐれな言動にたたらを踏みそうになったリタである。
「なっ、何で?! 気になるよ!」
中途半端なところで止められてしまい、気になって気になって仕方ない。だが、アルティナにはもう言うつもりはないようだ。
「お前がちゃんと戻ってきたら、続きを言ってやるよ」
ニヤリと、いつものようなからかいを含んだ笑みだった。
「ちゃんと戻ってくるんだから、今教えてくれたって良いのに」
約束を破るつもりもないのだから。口を尖らせると、アルティナに頭をくしゃくしゃと撫でられた。いつも通りのやり取りだ。先程までの甘い雰囲気が嘘だったのではないかと思えてくる。
「はやく気付けよ」
ひとしきりリタの髪を混ぜた後、アルティナが簡素すぎる一言を告げる。何に気付けというのか。リタは首を傾げるばかりだ。
(だから、教えてくれなきゃ分からないのに……)
だが、アルティナはそれ以上何も言ってくれないのだ。だから、リタが自力で答えにたどり着くしかない。
ただ、その答えを知れば――それが、二人の関係を変えるキッカケになるのだと、リタはうすうす勘づいていた。
「……そろそろ戻るか」
ほんの少しだけのつもりだったのが、随分と草原に長居してしまった。いつまでも宴を抜け出していると、心配されてしまうだろう。
リタは相づちを打とうとした。だが、代わりに出てきたのは小さなくしゃみだった。夜風に当たりすぎたようだ。やはり上着を羽織ってくるべきだった、と後悔していると、バサリと何かが肩にかけられる。つい今しがたまで、アルティナが着ていたものだ。とても暖かい。自分は暖かくなったけれども。
「あ、あの、これじゃアルが寒くない……?」
「別に。寒いのは慣れてる」
その言葉通り、アルティナは風が吹いても寒そうな素振りはしなかった。そういえば、エルシオン学院の寒さも全然平気そうだった、と思い出す。
上着の温かさに触れると、自分の体がいかに冷えていたかを知り、思わず身震いした。じんわりと温まる熱が心地良い。
「ありがとう……」
上着を体に巻き付けるように片手で握る。借りた服はぶかぶかで、リタの体をすっぽりと覆っている。
リタはアルティナに促されるようにして歩き出した。
さくさくと、草を踏みしめる足音が二つ。
「……そういえば、レッセはどうしたの?」
「あいつは寝た」
集落へ戻る道すがら、そんな会話をしながら草原を並んで歩いた。
見上げた夜空には、数多の星達が小さく輝いている。
(星空の下、草原にて)22(終)
―――――
ものすごい時間かかった……。あと一話で十章完結です!
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