21


 彼女がゆっくりと腰を上げた。振り向くと、鍵盤に覆いをかけている。
「僕はさ、君なら分かってくれると思って、この話をしたんだ。そう、家庭環境に問題がありそうな君なら」
「……知ってたっけ。って、そうか、知ってるよね」
 聞いてから、野暮な質問だと気付いた。そのために日程を調整したじゃないか。
「場面場面で話してくれたじゃないの。『親がどうのこうの』って。今回もそうでしょ」
「まあ、ね」
「そういう君なら、理解できると思ったんだ。親に対するマイナスの感情をね。違うかい?」
 黒い蓋を下ろす。白と黒の鍵盤が、その下に消えていく。それを見届けてから、僕は下を向いた。
「いや、違わないよ」
 変な会話だと思った。さっきの曲が、教会以外でも歌われる、という話題になろうとしていたのに、どうして話が戻るんだろう。今度は、「物語」と違って、先が読めなかった。
 彼女はピアノから離れようとした。どこに行くのかと思っていると、僕の背中に、その背中をくっつけてきた。
「僕達には一つ、問題があったよね。たった今の出来事以外にも」
「問題?」
 記憶の限り、僕達の関係には何も起きていない。そう、僕が彼女の罪を知ったこと以外では。
「やだなあ、忘れたの? 君、僕以外のお嬢様と、お見合い結婚の危機なんじゃないの?」
「……あ」
 彼女も話題にしないものだから、すっかり忘れていた。そうだ、確かにこれは、僕達の今の関係を脅(おびや)かす、重大な問題だ。ここに来てからは、そういうことは、一切考えていなかったけど、目を背けられない現実問題だ。
「僕もね、色々と考えたよ、色々と。でもね、回避する方法は、たった一つしかないように思えるんだ」
 たった一つの、方法。
 その言葉を聞いた瞬間、数日前、房総半島の列車に揺られながら考えていたことを、僕は思い出した。最後に残った選択肢が、一つ、ある。
――いや、まさかさ。
 それが一致していそう? いやいやいや。そんな偶然、あってたまるか、と思いつつも、答えが一致していることを望んでいる自分もいた。むしろ、後者であってほしいと願った。
「何なのさ、それって」
「そうだね、君が『南道裕樹』になればいい」
 心臓が爆発するかと思った。そ、それは、あっさり言っていいことなの!?
「な、何を、言っているの。冗談、でしょ」
「冗談じゃないって。僕と君が結婚して、名字は僕に揃えればいい。僕は幸せをがっちり掴めるし、君は家から解放される」
「それは、そうだけど……」
 家からの解放。それは確かに、僕の望みだった。そして、結婚して逃げるという選択肢は、僕の中に唯一残っていたそれだった。そう、僕と彼女の考えは一致していたのだ。
 だけど、その重要な決断を、彼女と共にしても、大丈夫なのだろうか。命の保証がない、彼女と。
「だーいじょうぶだって。君の家の方は、いつかしたように、軍団引き連れて説き伏せればいい。事後承諾でね。もうそいつらに連絡は回してる。婚姻届も書いて持ってきてるよ、後は君がサインするだけ。証人の欄は五条と赤坂に書いてもらった」
「え、えっと、その……」
 何なんだ、この人。どこまで手筈(てはず)を整えているんだ。だめだ、頭が回らない。
 背中の温度が離れた。そして、僕の前にその姿を現して、ゆっくりと僕自身を包み込んだ。
「……あの歌はね、結婚式でも歌われる讃美歌なんだ。だからさっき、あの曲を選んだ、ってのもある。それと、病気のことは心配しなくていいよ」
「でも」
「きちんと治療することにしたよ」
 はっとして、僕は顔を上げた。え、睦、本気で言ってるの? いや、この流れを見ていると、全部、本気なんだろうな。念のため、確認してみる。
「ギリギリまで待つんじゃなかったの」
 その腕の力が、一層強くなった気がした。だから、僕も抱き返した。
「気が変わったよ。隣の部屋にある、紙の池袋の街や、東京にある紙の街を放置するのが憚られる、というのも、もちろんあるよ。でも、それだけじゃない。僕は僕の罪を、今、君に話したけど、それはここにいる間に、いつか話さないといけないと思っていたこと。先に君に見つかってしまったのは、想定外だったけどね」
 もぞもぞと動いたので、僕は腕を離した。彼女の身体も離れていく、確かにこの体勢はちょっときつい。
「もし、この話を君が受け止めてくれるなら、僕達は幸せになれるんじゃないかって、そう思ったんだよ。僕が君を攫っちゃってさ。なのに、その後に勝手に早死にして、その幸せを台無しにするのは、よくないかな、って。それが僕の考えた、君との幸福予想図」
 満たされている、というのは、こんな感覚をいうのだろうか。全部、全部受け止めてくれるなら、そして受け止めてくれたから、幸せになろうって、彼女は言ってくれている。
 それに従った方がいい。僕は直感的に思った。男女的な意味で立場が逆転しているような、そんな感覚もしたけど、それはもう、どうでも良かった。


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