過去の回想に浸っていて、危うくのぼせるところだった。いや、半分のぼせた感じはするけど。
 湯船から出て、全身を洗って、湯船のお湯を抜いている間に、身体を拭く。一旦脱衣所に出て、髪を乾かして、寝間着を着て、顔に化粧水を塗る。男が化粧品を使うのは一昔前まではおかしかっただろうが―この家でも、そんな雰囲気があった、いや今でも―、周りの友人から、顔を洗った後のスキンケアと、夏場の日焼け止めぐらいは、男でもした方が後々いい、と聞いて、それを実践している。
 ちょうど塗り終わったところで、足音が聞こえた。「男が化粧品だなんて女々しい!」「男なら日焼けした方が健康的だ!」とかと前時代的な文句を言われる前に、脱いだ服で化粧水のボトルをくるんだ。お父さん、がっつり日焼けしてるし。
「裕樹、貴方、最後なんだから、お風呂洗っておきなさいね。靴とブラシもいつものところに干しておきなさい」
「分かってるよ、おばあさん」
 おばあさんは大の綺麗好き、いや、病的な潔癖症だと思っている。母と同じ事を言う、耳にたこができそうだ。それだけ僕を従わせたい、ってところか? 指摘したら雷だから言わないけど。
 ドライヤーをしてから、お風呂用のスリッパを履いて、ブラシと布巾と洗剤を持って再びお風呂場に入る。いつもは母のやっていることだろう、そうか、母がわざわざ言いに来たのは、仕事を確実に押しつけるためだったのか、とまた余計な想像を働かせる。
 湯船と洗い場の床にスプレーをし、その間に鏡の下についている棚に置いてあるカミソリやシャンプー一式を洗面器に入れ、棚と鏡を水拭きし、さらに乾(から)拭きする。棚の物を元通りに戻して、湯船と洗い場の泡を流す。洗面器と椅子も乾拭き。布巾を脱衣所に干して、ブラシと靴は庭先で乾かし、翌朝回収する。
 ここにいる間、僕がこれを毎日やらなければならない。東京の家じゃ、ここまでの掃除は月に一度するかしないかだけど。
 部屋に戻って、まず携帯電話を見たけど、睦からの連絡は入っていなかった。
 明日は母と一緒に、墓参りをしたあと、彼女を夜まで一日、ドライブに連れ出さなければならない。温泉もねだられている。花代や食事、入浴などの費用は「東京で稼いでいるんだろ」という理由で、すべて僕持ちの予定だ。憂さ晴らしに高いもの食べるんだろうなあ……。美味しいもの、母より睦に食べさせたいけど。

 そんなこんなで、田舎に最低限いなければならない日数は過ぎた。
 前の晩、僕は持ってきた荷物を鞄に詰めたが、ふと、『もうここに帰ることはないかもしれない』という予感が過ぎった。
 どうしてそう思ったのかは、よく分からない。帰ることはない、じゃなくて、帰りたくない、なのかもしれない。お見合いも今のところ、蹴ろうと思っているし。
 急ぎ必要のない、という理由で、実家に置いたままにしていたものも、まだ充分余裕のあるトランクに詰め込んだ。着替えと化粧品と、携帯電話とその充電器と、暇つぶし用の本以外は、何も持ってきていなかったからだ。
 小学校と中学校の時の卒業アルバムや、作文で地域のコンクールに入選し、表彰された時などの表彰状。学校で使ったドリル。子供の時、よく読んでいた本。何冊かは東京に持って行っていたけれど、残りの数冊も全部。
 中学の時、写生大会で描いて、祖父母が絶賛して、僕の部屋に額入りで飾っていた海の画の後ろのカバーを剥がすと、記憶にない三万円が出てきた。誰の物か分からないが、騒がれるのも面倒だから、画ごと持って行くことにした。高そうな額は置いていこう、僕個人の趣味ではない、この家らしいものを、東京の僕達の庭に持ち込みたくない。
 トランク部屋にあるのは、家具とあの額だけになった。引き出しの中は、すべて空っぽだ。そして僕は、最低限の愛想を親や親戚、近所の知り合いに振りまいて、駅へ。
 祖父が駅まで送ると聞かなかったので、車の後ろに自分でトランクを載せて、僕は助手席に。
「年末、ちゃんと帰って来い。いい女と会わせてやる」
「分かってるって」
「長めに休みを貰うのも忘れずにな。向こうもお前さんのこと、よく見たがっているようだからな」
 駅前に車を停めてもらって、トランクはやはり自分で下ろして。電車が来るまでの十五分、待合室で適当に話を合わせて。
「それじゃ」
「おう。元気でな」
 ホームに向かいながら、振り返らず、手を挙げて応えた。乗り込む直前、僕は駅のホームに両足をついて、祖父には聞こえないように呟いた。
――あばよ、この街。
 この街に二度と来ないためには、この街の令嬢(でいいんだろうな)との結婚を回避しなければならない。そのためには、どうするべきなのだろうか。
 睦と結婚しないなら、逃げるしかない。どこに? どこに行っても追いかけてきそうだな、興信所とか使って。お金もあるし。その辺は馬鹿じゃない。
 海外なら……英語、一応できるし。イギリスとか? 学生時代、ショートステイした家はまだ覚えている。食事がちょっと心配だけど。ああでも、仕事は……向こうに支社とかあるかな、だけど自己都合で転勤先って選べないよなあ、普通。ましてや、親や親戚から逃げるため、という理由で。上司は上の世代、価値観が僕の親戚と同じでもおかしくない。
 ……埒があかない。睦はもっと、いい選択肢を考えついてくれるだろうか。
 疲れているらしい、頭は悪い方へと思考を巡らせてくれる。その中で、ある一つの選択肢が、浮かんでは消える。他の選択肢と同じように非現実的な、でも、最も現実的な感じもする選択肢。だけど、それを選ぶ勇気が、僕にはまだ足りないような、そんな気がした。


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