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別れ際に、彼女の部屋の合鍵をもらった。それを自分のキーケースに付ければ、また一つ、愛しさが込み上げてくる。
翌日、果たして彼女は夜八時頃に来た。刺身が食べたいと言っていたので、マグロの赤身を買い、野菜はポテトサラダ、卵焼きも作って、ご飯も忘れず炊いておいた。
「ただいまー」
「もうすっかり自分ん家の感覚になってるじゃないの」
「だって、今まず帰ってくるところってここじゃないの。――お、美味そう」
キラキラと子どもみたいに目を輝かせる彼女。ご飯をつごうかとしゃもじをとった時、彼女の腹の虫が鳴いた。
「……あんれま」
「座りなよ。白ご飯つぐから」
ゆっくりと、今日あったことをお互いに話した。上司や同僚の愚痴がほとんどだったのはお互いさまだ。
彼女は分け前を全て食べた。とりあえず一安心だ。
お皿はもう自分がずっとやると言うので、任せることにした。
その間に、お風呂を沸かす。彼女の住まいは古く、風呂には湯船がないという。ゆっくりお風呂に浸かりたいと言っていた。
「どうする? お風呂沸かしてるけど、入る?」
「おー入る。先入ってなよ」
「いいの?」
「いいよ。急がなくていいから」
自分は割とお風呂に時間をかける方だと思う。彼女のために、彼女より先の時は早めに上がろう。女の子を待たせちゃいけない。
シャワーを捻って、熱めのお湯が出るのを待って。今まではリラックスしていた時間も、頭に浮かぶのは彼女のことばかり。
僕は、学校を卒業してからこれまでの空白の時間、もちろん仕事のことは知っているが、具体的にどうしていたのかが気になっていた。
今現在の話はよくするが、過去についての話題は彼女から一切でないし、何となく振ってもはぐらかされる。
何故気になっているのかといえば、昨日抱きしめた時に感じた、その異常だと思われるレベルの細さだった。口には出さなかったが、細過ぎた。
仕事のストレスなのか、それとも他に理由があるのか。ご飯はちゃんと食べているから、ダイエットのし過ぎという線はほぼないだろう。そもそもダイエットの話題が出たことがない。
でも、再会したばかりなのだ。下手にこちら聞き出すよりも、彼女が話したい時に話してくれた方がいいかもしれない。

お風呂を出ると、彼女は布団の上にあぐらをかいで座り、ハードカバーの本を読んでいた。ブックカバーはついていない。
「何読んでるの」
「『テンペスト』。シェイクスピアさ」
「てんぺすと……って、どういう意味?」
「日本語にすると『嵐』だね」
僕は西洋文学には疎かった。シェイクスピアも、名前は知っているし、四大悲劇のタイトルは知っているけれど、その作品を見聞きしたことはない。
「へえ……シェイクスピアは好きなの?」
「いや、初めて読むよ。『ロミオとジュリエット』は映画で見たことがあるけどね」
本をパタンと閉じた。それを脇に置いて、両腕をだらりと投げ出した。僕は左横に腰を下ろした。
「ピアノやってる、ってのは話したっけ」
「うん」
「それでさ、 ウチはベートーヴェンのソナタのね、『テンペスト』の第三楽章が好きでね、発表会に弾かせてくれって、ピアノの先生に懇願したんだよ。――あ、この曲知ってる?」
「いや、知らない」
僕は本当に知らなかった。すると、彼女はスマートフォンで動画サイトを開いて、楽しそうに検索欄に『テンペスト 第三楽章』と打ち込んだ。
「これでいいかな」
トップに来た動画をタップすると、端末の音量を最大にした。

右手の渦を巻くような旋律。
そこに左手が生み出す波が襲いかかる。
やがて右手も真っ直ぐな流れになり、左手がそれを勢いよく追いかける。
また右手は渦を巻き、繰り返し。
ずっと似たような音の並びなのに、少しずつ、少しずつ変化していく。
そしてまた、今度は勢いを増して駆けていく。
最後は、すっとどこかへと吸い込まれるかのように波が消えていく。

「どうだい」
「最後、何かに吸い込まれるような、そんな感じがした」
「吸い込まれる……ウチは遠ざかるようなイメージを持ったんだけどね。まあ解釈の違いはいい。単刀直入に聞くけど、退屈な曲かい」
「いや、そうは思わなかったけど」
気分を害されたくないから、単調だと言わなかったのではない。心底、面白いと思ったからそう返すと、また、いやそれ以上に、彼女はニコニコと上機嫌になる。
「君が分かるやつで良かったよかった」
「何で?」
「そのさあ、ピアノの先生、分かってくれなかったのよ。『観客が退屈するから却下』って、許してくれなくてね。まあ、来てくれる人が皆、音楽に造詣が深い訳ではないからね。結局、動きの激しい第一楽章にしたわけ。今は第一から第三楽章まで通して弾けるけど」
「へえ……」
ベートーヴェンか。僕は学校の授業以外で楽器を触ったことがないから、ピアノが弾けるってだけで尊敬できる。
「でも、どこで練習してるの」
そうだね、よっこらせ、と立ち上がると、あくびを、一つ。
「ブクロに個人で借りれる、ピアノ付きの音楽スタジオがあってね。そこに毎週一度、時間があれば行ってんの。ストレス解消になるし。――お風呂入るね」
「うん」
彼女の黒い鞄から出てきた、白の半透明のビニール袋。それを持って風呂場へと消えた。


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