コーヒーの後、僕は本の続きを読んで、彼女も積読のうちの一冊を手に取った。
現実に引き戻されたのは、外から聞こえてきた六時の『ふるさと』。僕も彼女も、物事に熱中し過ぎる悪い癖があった。
「え、もう六時か」
「お腹空いてない? 大丈夫?」
「大丈夫だよ。普段から七時より前にご飯にありつけることなんて滅多にないし」
「そう……じゃあ、作るよ。あ、でもご飯炊いてない……」
立ったところで、昨日炊飯器の中のご飯を食べ切ってしまったことを思い出した。今からご飯を洗って炊いても大丈夫だろうか。女の子をあまり遅くに帰らせたくはない。
「レトルトのでも買って来ようか?」
「いいの?」
「いいの。でもお金は出してよ」
「分かってるって」
ポケットの財布から千円札を出して、エコバッグを持たせて行ってもらった。男としては失格のような気がしたが、不思議と彼女相手なら別に構わないとも思った。

肉じゃが作りには手慣れていた。得意料理がそれだった。
いつもより多めに材料を切って、調味料とそれらを丸いフライパンに入れて、その間にパック入りの餃子をお皿に上げる。
肉じゃが、餃子、ご飯。夕食にしては少ないと、招いた友人に言われたこともあるが、食が細い僕にはちょうどいいし、彼女も量を食べない。
でも何か寂しい。もう一品ほしい。冷蔵庫を開けると、卵が二つあった。卵焼きを作ろう。
二つとも割って、マヨネーズを入れてとく。肉じゃがは具材に火が通ったのを確認して、大きめのお皿に移す。フライパンに水を入れて流しに置くと、ちょうど睦が帰ってきた。
「ただいま」
「ありがとう。悪いけど、それ作ってくれないかな」
「分かった」
テーブルの上に、レシートとお金を置いて、エコバッグは僕の元に。それを椅子の背もたれの突起に引っ掛けて、流しの下から長方形のフライパンを出した。
「卵焼き?」
「うん。マヨネーズ入りの」
「分かってるじゃん」
「睦もマヨネーズ入れるの?」
自然に言い終えてから、はっとした。呼び捨てで呼んだ。しかも素面で。
――うわ、どうしよう。
意識したくないのに、顔に熱が集まってくる。今までずっと名字で呼んでいたのに。顔を合わせないように、溶き卵を小さなフライパンに入れると、つんつんと頬を突かれた。やめて、まだその時じゃないのに。
「何?」
けれど、気づかないでほしいという期待は、あっさりと裏切られた。にやついた顔。確信犯。
「僕の下の名前を初めて呼び捨てて、それに顔を赤くされたら、勘違いしそうになるんだけどさ」
ああ、これは腹をくくるしかなさそうだ。
「……勘違いじゃ、ないよ」
タイミングを見計らって、頭で考えずに手だけで折りたたんでいく。
「本当に?」
その声色は楽しそうで。
もう、認めてしまおうか。昔好きになって、それから一度は別の女の子を好きになってお付き合いをしたけれど、昨日また会ったら、その想いが熱が上がるようにぶり返してきたことを。
「……好きじゃなきゃ、女の子と一日過ごそうと思わないよ」
きっと耳も首も真っ赤だ。それを落ち着けるように、できた卵焼きを、お皿の上にひっくり返した。
「なんだ、両思いじゃないの」
「えっ」
嘘、と思ったけれど、横を向くと微かに赤い顔の彼女がいて。
「好きだから、わざと甘えたの」
「……なら、あの台詞も、わざと?」
――『良かったら、今夜泊めて欲しいな、なんてね』
彼女は笑みを浮かべた。
「わざとだよ。――君のこと、ずっと好きでね。捕まえるなら、今しかないと思ったんだ。まさか応えてくれるとは思っていなかったけれど」
「僕も……あの時、昔好きだったのを、無意識に思い出してたみたいで。お酒のせいも、あるかもだけど」
恥ずかしい。でも、心地いい。ああ、そうか、これが、恋、か。
「じゃあ、付き合ってみる?」
「いいよ」
お互いに腕を伸ばして、抱き締めた身体は、温かくて、けれど、思っていたよりも細かった。
「ちゃんと食べてる?」
「……ノー」
「だと思った」
栄養が足りていない。彼女の仕事や生活の話を聞いていると、この先一人で放っておくのは良くないと思った。
――ご飯、作ってあげようか。
「ねえ、良かったらなんだけど」
「んー?」
耳に直に注ぎ込まれるような甘い声。頭がくらくらする。
「晩ごはん、作ってあげるから来ない? 一日一食はまともなもの食べてよ。合鍵渡すし、どんなに遅くなってもいいから」
「いいのかい」
「大切な人が倒れるの、僕は嫌だけど」
「……じゃあ、甘えちゃおうかな」
毎日会う口実にもなる、なんて理由は言えなくて。
「気が済んだなら離れてよ」
「おっと、ごめんね」
その辺の分別はある。そこは助かるところだ。


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