8
午後三時
キリのいいところまで読んだところで、なんだかコーヒーが飲みたい気分になった。
キッチンの引き出しに、スティック状の、中身をカップにあげて、お湯を注ぐだけで飲めるそれをストックしていた。
紅茶よりコーヒー派だった。小さなやかんに水を入れて火にかけ、その間に二つのカップに袋の中身を入れる。
彼女はまだ寝ていたが、朝よりも顔色はずいぶん良くなったような気がする。
別に、彼女と一緒に飲みたい訳ではない。でも、彼女もコーヒーが好きなことを、学生時代に知っていた。だから。
茶菓子は何にしようか。ああ、確かこの前、スーパーの特売で買ったクッキーがあった。
外袋を開けて、二つ三つ出したところで、しゅーしゅーとお湯の沸く音。
そっとコンロを止めて、100度のそれをカップへ。漂う香り。幸せな心持ちになる。
もう一つのそれには、まだ入れない。まだ、彼女が飲むと決まってはいないから。
開けっ放しの扉。そこから畳部屋に入ると、彼女が身動いだ。
「……コーヒー?」
「飲む?」
「いる」
「出ておいでよ」
「うん」
また落ちてきそうなまぶた。それを一瞬、見開いたかと思うと、むくりと上体を起こした。
「……あ、砂糖あるかな」
「出しておくよ」
嬉しい、素直に。彼女と、コーヒー。
キッチンに戻ると、やかんの中身を彼女の分にも入れて、砂糖を入れたプラスチックの容器を、底を軽く拭いてテーブルに置いて。ああ、砂糖をかき混ぜるためのスプーンも。
「あー、最近ロクにこんな時間取ってなかったな」
「仕事で? ――あ、ここ、座っていいよ」
「うん。――ありがとう」
席に座るなり、砂糖のスプーンに手が伸びた。僕は隣の辺に座る。僕はブラックしか飲めない。
一杯だけ、カップの上でひっくり返して、ティースプーンなんてものはこの部屋にないから、普通のスプーンでかき混ぜて。スプーンを用意しておいた空のコップに挿し入れると、両手で抱えて、しかしすぐにテーブルに戻した。
「どうしたの」
「猫舌なんだ。クッキー、食べていい?」
「いいよ」
黄色い小袋の中に、長方形のクッキーが二枚。僕は少しだけ、カップに口をつける。
彼女が、まるで独り言のように言った。
「コーヒー自体も久しぶりだけど、誰かとこうして、というのも、年単位でなかったかもしれない」
その表情は、どこか、寂しそうで。
「友達とかと、というのもなかったの?」
「全然。大体、茶飲み友達なんかいない。東京には。田舎だったら、呼べば来そうなのはいるけれど、積極的にウチから呼ぼうとは思わない」
「そういう人だったね」
「分かってくれるじゃないか」
彼女がどこか浮世離れしている、というのは、学生時代から感じていたことだった。成績は優秀、でも話しかけないと話さないし、いつもどこか、ここではないどこかを見ている目をしていた。僕は同じ歌手が好きなことから親しくなったけど、友達も多くはなかったらしい。けれども、それが気楽だとも言っていた。
クッキーを一枚、一口ひとくち噛み締めて、やっとコーヒーに手をつけた。
「美味しい」
「インスタントのだけれどね」
「いや、それでもいいんだ。生き返る、感じがする」
安堵を見せた。昨日連れて帰ってきたのは正しかったらしいと、この時実感した。
[ 8/60 ]
[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]