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                             ◆


イタリア時間 翌朝九時 ベノラ家

「おはよー」
「おはよう。飯はテーブルの上にあるものを温めて食べてや」
「ん」

起きて顔を洗い、リビングに入ってきたジャックは、メリアーノの言う通りに、キッチンのテーブルの上に用意してあった朝食をレンジに入れた。
彼の右腕は、もう三角巾には吊るされておらず、包帯が巻かれている上に七部袖の服を着ていた。

「そういえば、サファイアとトレモロは?」
キッチンからジャックが尋ねる。
「サファイアは学校行った。トレモロはまだ起きて来ない」
「まあ、夜あれだけ騒いだもんな」
彼は小さく笑う。

昨晩、彼らはちょっとしたゲーム大会をしていた。
サファイアは学校があるので早めに寝たが、時間を気にしない大人達は夜遅くまで勝負に興じていた。
「しかし、あいつ意外とチェスとかポーカーとか上手いんだな」
「俺も、あれには降参だな」
「俺だってヒヤヒヤしぱなっしだった。あそこまで攻め込まれるとは思ってなかったし。てかメリ、コーヒーの瓶どこだ。いつもの場所にないんだけど」
「あ、ごめん。しまい忘れたかも。テーブルの上に置いたままになってない?」
「あー……。あ、あったあった」

しばらくして、リビングに少し遅めの朝食を用意したジャックが入ってきた。
ソファに座っているメリアーノの横に座る。
「いただきます」
「おう」
メリアーノは、新聞に目を通しながら返事をした。

ふと、ジャックが壁にかけてあるカレンダーに目を向けた。
そして、「はあ……」と息をはく。
「どうした?」
メリアーノが、新聞からジャックに視線を移す。
「いや、まだ四月だったんだな、って。最近ごたごたしてたから、結構な時間が過ぎたと思ってたけど、まだこんな時期だ」
「……」
「時間が早く過ぎていくのも怖いけど、早く過ぎたように見えて、実際にはちっとも進んでいないのも怖いよな。ま、お前にはまだ分かんないか……」
彼はまた少し笑う。
しかし、その表情はどこか悲しげだった。
「……」
メリアーノは、そんな彼に何の言葉も掛けられなかった。


                        ◆


イタリア時間 午前十一時 カバレロの家

「ふあ〜。あ、もうこんな時間か……」
カバレロは、上体を起こし、久しぶりにカーテンを開けた。
「つか、頭クラクラするな。まだ熱あるかな……」
枕元にあった体温計をわきに挿し、コップに入っていた水を口にした後、切っていた携帯電話の電源を入れた。
その液晶画面には、『不在着信』を知らせるアイコンが表示された。
「誰や」
アイコンをクリックして相手を確かめてみると、ほとんどがファビウスからのものだった。
――ファビウスが電話掛けてくれ、って言ってたから、元気になったら忘れずに掛けとけよ。
昨晩、カトゥーナが言っていたことを、彼は思い出した。
「掛けてみるか」
発信ボタンを押すと、しばらくしてから相手が出た。
『……』
しかし、電話口の向こうは無言である。
「もしもし?」
『……』
まだちょっとおかしい声で問い掛けてみるが、反応はない。
「もしもし?」
もう一度、ややきつく言うと、相手の沈黙が破られた。
『……お前、この電話は急ぎの用か?』
「いや?」

『だったら、時差考えてから掛けて来い……!』
「……あ」

呆れとほんの少しの怒りが含まれた声で、カバレロははっとした。
ファビウスは今、ラスベガスにいる。
ローマとラスベガスの時差は九時間。
ローマの方が九時間進んでいる。
つまり、ここが午前十一時なら、向こうは午前二時。
深夜だ。

「ごめん、熱のせいで忘れとった」
『またそうやって体調のせいにして……。まあお前だから別にいいけど。で、熱があるって聞いたけど大丈夫か?』
「だいぶましにはなった。でもまだしんどいな。――ん?」
『どうした?』
「ああ、熱測ってたんだ」
カバレロは測り終わった体温計を見た。
『どれぐらい?』
「37.7℃。結構下がったけどまだか……」
『……まあ、無理すんな。カトゥーナから事情は全部聞いてるから』
「しようにも出来んし。カトゥーナ―あいつには悪いことさせたな。で、俺に何の用だ?」
『特に用なんてない。最近電話してなかったから、ちょっとお前の声が聞きたいな、って思って』
「なんだ、私用かよ」
『悪いか?』
「いいや? 俺もお前と久しぶりに話したいな、って思ってたし」
『そっか。――ま、色々大変だったみたいだけど』
「そうなんだよ。サファイアは出て行って、ジャックとは縁を切られ、カトゥーナが倒れて、しかもメロナまで消えて。そして情報屋レベッカによると、ヴェネツィアにいるという謎の男二人組がサファイアとメロナを匿ってる。しかもメロナはミルトリーに記憶を消されて、武器も取り上げられた。つまり、ただの一般人になってしまったんだ」
『大ピンチだな』
「そうや。俺ら、今年中にミルトリーに喧嘩売るつもりだけど、それに謎の男らの集団が入ってきたら、なあ」
『ややこしくなるな』
「……なあ、ファビちゃん」
『ん?』

「……俺、どうすればいいと思う?」
その声に、一大ファミリーのボスの貫禄は全くない。
そしてその目には、涙がたまっていた。

『……』
「しっかりしなくちゃ、という気持ちはあるんだ。でも、」
『怖い、のか』
「ああ、怖いんだ。まだ二十三の俺が、ボスとしてまだまだ未熟なこの俺が、ファミリーの奴らを守り抜けるか? 既に、二人もよく分からない野郎の手に落ちた。多分、そのうち俺が責任を取らされる。俺はその重荷に耐えられるか? 喧嘩ふっかけるとか言ってるけど、俺にそれを本当に実行する勇気はあるのか? とかな。正直に言って、もういっぱいいっぱいなんだ。大ファミリーのボスがこれぐらいで音を上げるな、とか言われそうだけど、俺、もう、泣きそうだ……」
『……』
カバレロが涙をこらえる様子が、電話口の向こうのファビウスにも伝わる。
『カバレロ、』
「何?」
『そんなこと、あまり深く考えるな』
「でも、」
『終わってしまったこととか、未来のことを心配するなんて、お前らしくない。お前、いつかこんなこと言ってたじゃないか。「俺はさ、今を全力で生きたいんだ。何かが起こったら、その時に手を打てばいい。過去は変えられないし、未来なんて誰にも分からない。いくらでも変わる。それに、」』

『「その『未来』に、俺がいる保障なんてちっともないからね」、てさ』

「……っ」
『だから、ボスとしての重みとか、先のこととか、深く考えるな。もしものことがあったら、その時に考えたらいいし、もしその重荷が抱えきれなくなったら、その時は、』
「その、時は?」
『俺が手を貸してやるよ。ファミリーの一員として、そして親友として。――今、泣きたいなら、今、思いっきり泣いとけ。それからまた、「今」だけを見つめて、生きればいい』
「ファビちゃん……っ」

嗚咽。
彼は静かに、涙を流した。


                               ◆


アメリカ・太平洋時間 午前二時 ルビーファミリー・ラスベガス支部

電話口の向こうでは、一人の男が、広い部屋の中で一人、目を開けたままベッドに横たわっていた。
部屋には、机と椅子、着替えを入れるタンス、そしてベッドがあるだけ。
そして奇妙なことに、部屋は一面だけが蒼に染まり、それが部屋を蒼く照らしている。
蒼の壁、否、透明なガラスの奥では、魚が泳いでいた。

アクアリウム。
それが、この部屋の通称だ。
ラスベガスは砂漠に囲まれている都市なので、本来このような施設はありえないだろう。
だが、部屋の主―ルビーファミリーラスベガス支部長・ファビウスは、大の海好きだった。
だから、様々な手法を使って、砂漠地帯の地下に自分専用の水族館を作らせたのだ。

枕元に置いた電話口からは、イタリア・ローマにいるカバレロのすすり泣く声が聞こえてくる。
彼はあえて、カバレロに声を掛けない。
――余計なことを言わない方が、今のアイツのためだ。
――また話しかけてきたら、その時に答えればいい。

天井を見上げたままでいた時、彼はふと、昨日、カトゥーナと話したことを思い出した。
――カトゥーナ……あいつと長話をしたのはいつ振りかな。
――一ヶ月、いやもっと前だったかな。
――あいつも変わったな。大人になった、という意味で。
――でも、本当はそのことがちょっと寂しい。
――……寂しい?
自分の心の内から沸いてきた感情に、彼は溜息をついた。

「……いらんこと思い出した」

                              *

それは、まだ彼らが学生だった頃。
その頃は、卒業生のダンスパーティーが近づいていて、卒業生はもちろん、有志の在校生も準備で忙しくしていた。
カバレロとファビウスもその時の卒業生のうちの二人で、帰宅部だったカトゥーナや、テニスをしていたジャックも、暇さえあれば準備に協力していた。

ある日の朝、二人はたまたま登校時間が重なり、靴箱で会った。
「おはよー」
「おはよ、ファビちゃん。パーティーに着ていく服とか決まったか?」
「一応な。でも女の子から『これ、付けてきてちょうだい!』っていっぱいアクセサリーもらってさ、どうしたらいいか困ってる。今日も朝から、ここに来るまでにこんなにもらったよ」
ファビウスは、ポケットからいくつかのアクセサリーを取り出した。
「贅沢だな、その悩み」
「そうか? 俺真剣に悩んでるんだけど。良かったらいくつかあげようか? 俺、たくさんアクセサリーを付けるような人間じゃないし」
「うーん、そうしたいのは山々なんだけどね」
カバレロも、両方の太もものポケットからアクセサリーを大量に取り出した。
それを見て、ファビウスはげっそりとした顔になった。
「……お前、本当にモテモテだな。元生徒会長だけあって」
この時既に、生徒会は次の代に引き継がれていた。
「お前も十分モテてるぞ」
「そうか?」
ファビウスの心当たりのなさそうなその反応に、カバレロは溜息をつき、呆れ顔になる。
「お前なあ、いい加減自分がモテモテの存在だってこと自覚しろ」
そう、ファビウスは恋愛事に全くもって鈍感だった。
カバレロの台詞に対し、ファビウスは怪訝な表情になり、そして自嘲的に笑う。
「……は? 俺のどこにモテ要素があるんだ? 俺には分からん。――ああどうせ、俺は恋とか愛とか、そういう感情が理解できない哀れな男さ、ははっ」
「……ダメだこいつ」
「ん?」
「いや、何でもない」
カバレロがぼそっと言った諦めの言葉は、ファビウスには届かなかった。

そんな会話を交わしながら廊下を進んでいくと、二人の視界に、見慣れた人影が二人入った。
ジャックとカトゥーナだ。
「ジャック、カトゥーナ、おはよう!!」
カバレロが、すかさず声を掛けた。
すると、二人は振り返り、カバレロらの方向に駆け寄ってきた。
「先輩方、おはようございます! 相変わらずお元気そうで何よりです!」
ジャックが、元気な声でカバレロらに言う。
「そっちこそ元気そうだな。今日も一日、いい日になりそうだ。……ん? カトゥーナ、どうしたんだ?」
カバレロは、ジャックの隣にいたカトゥーナの、普段とは違う様子に気が付いた。
「先輩、」
「何だ? 悩み事でもあるんか?」
「いえ、そうじゃないんです」
「じゃあ、何?」
その問いに、カトゥーナは他の三人から視線を逸らし気味にして、言った。

「何か、朝から妙な胸騒ぎがするんです。俺だけですかね……」

その直後だった。
いきなり、放送が始まることを示すチャイムが鳴った。
「え、何なに?」
「朝からどうしたんだろう?」
四人のみならず、周りにいた人が全員立ち止まり、放送に注目する。

スピーカーから聞こえてきたのは、男の声だった。

『全校生徒、及び全教職員に連絡する。我々、「バイソン」は、現生徒会のメンバーを拘束した。理由はもちろん、人選に抗議するためだ。解放したければ、我々を見つけ出して正々堂々と勝負しろ。ただし、期限までに誰も来なければ、または、勝負で我々の方が勝った場合には、現生徒会メンバーを殺害し、我々が新しい生徒会となる。タイムミリットは今日の午後四時だ。健闘を祈る』

辺りは騒然となった。
「当たった……」
「バイソン、か……」
バイソン、というのは、この学校で一番の勢力を持つ不良グループだ。
メンバーは少なく見積もっても五十人はいるという。
「やるか?」
ファビウスが、カバレロに聞く。
「当たり前だ。今あいつらに対抗できるのは、俺らだけだ」


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