5
目を開けるとベッドの上にいた。どうやらすっかり眠り込んでしまったらしい。
おれの顔を覗き込んでいるコンラッドと、見慣れない装飾の高い天井。
「お目覚めですか」
一瞬だけホッとしたような表情を見せた彼は、すぐに離れていってしまう。見えなくなった背中を追うように、おれはゆっくりと身体を起こした。
一通り室内を見回してみる。やはり見たことのない部屋だった。ひとつひとつの装飾が無駄に豪華だから、どこかの城の一室かもしれない。
──何が、どうなったんだっけ?
寝起きで頭が働かない。
もうすぐ日が暮れるところなのだろう。明かりのない室内は薄暗く、窓から弱まった光が差し込んでいる。
もぞもぞとベッドから這い出した。立ち上がる前にコンラッドが戻ってくる。
明かりと水差しを持っていた。カップにたっぷりと水を注ぐ。
「どうぞ」
「あ、ありがと」
にこりともしない彼から受け取って飲み干した。一気に目が覚める冷たさだった。
眠り込んでしまう前のあれこれも全て思い出した。コンラッドが笑わないのは当然か。
守るべき対象である主にここまで勝手な行動をとられてしまえば、護衛としてはかなり腹が立つだろう。
「もう、起きても大丈夫なんですか?」
「うん、平気」
短く答えて床に足を下ろす。
たっぷり熟睡したお陰か、頭痛や目眩は収まっていた。少なくとも丸一日は眠っていたはずだ。
寝過ぎたような気もするけれど。
「お腹、空いてますよね? 何かお持ちしますので、そのまま座っていてください」
おれの答えを待ちもせず、コンラッドは再び出て行ってしまう。
間違ったことをしたとは思っていないけれど。
今回の騒動で好感度を上げるどころか、逆に嫌われたかもしれない。簡単な言い付けも守れない上に所構わず意識を失うような子供のお守りなんてもううんざりだと、今頃彼は考えているのかもしれない。
どうしたっておれは子供だった。好かれようと頑張ってみても空回りするし、彼を怒らせることしかできなかった。
湯気の立つ器が乗ったお盆を手に戻ってきたコンラッドは、小さなテーブルを近くまで引き寄せ、目の前にドンとそれを置く。
「……あのさ」
中味は、お粥だった。
「なんで病人扱いなの?」
真っ白で明らかに味のなさそうなお粥が、器の中に山盛りだった。
嫌がらせだ。絶対に嫌がらせだ。
病人でしょう、とコンラッドは言った。
「あなたは俺の目の前で倒れた挙句、二日も眠り続けたんですよ。立派な病人です」
分の悪いことに眠っていた時間は、予想より二十四時間ほど長かったらしい。
器の中味を睨みながらスプーンでつつく。
「食べる気がしないのでしたら俺が食べさせますが?」
「結構デス!」
慌てて行儀よく粥を掬った。真顔で言われるとけっこう怖い。
一応「いただきます」と言ってから、口の中へ入れてみた。塩が効いていて意外と美味い。三人前くらいありそうなこの量を、一人で平らげたいとは思えないけれど。
ちらりと窺った先のコンラッドは、黙っておれを見下ろしていた。
「……なぁ、」
カラン、と脇にスプーンを置く。
器の中味を半分近く減らしてもまだ黙りこくっている彼に、恐る恐る問い掛けた。
「怒ってる?」
「……そうですね」
溜め息の後に答えが返る。
「アニシナが」
「え!? アニシナさんが!?」
それはまずい。一番怒らせちゃいけない女性じゃないか。
「無駄に体格のいい男達が次々と空間移動筒路を抜けたせいで崩壊寸前だと」
「あー……」
やけに到着が早いと思ったら、あの場にいたのは骨パシーを受けて駆け付けた援軍ではなく、コンラッドと共に血盟城から来た兵士達だったらしい。
「筒路の修理へ向かう前、彼女も陛下の見舞いに来たのですが……」
それは絶対に見舞いじゃない。烈火の如く怒りに来たはずだ。眠りこけていて本当によかった。
コンラッドが再び深い溜め息を落とす。
「アニシナは、元々陛下を外出させるつもりはなかった、と言っていました」
「……そうなの?」
いいって言ってくれたのに。
コンラッドは全く彼らしくないしかめ面で、不快感も露に吐き捨てた。
「あんな嵐の夜に陛下の暴走を許す馬鹿なんてグリエくらいです」
「いや、ヨザックは悪くないんだって! おれが…っ」
「そんなに必死で庇う必要はありませんよ」
弁解は冷やかに切り捨てられる。
「もう充分怒った後ですから」
その光景は絶対に見たくないと思った。
──ごめん、グリ江ちゃん。
新しいドレスでもプレゼントすれば許してもらえるだろうか。やっぱりセクシーなスリット入りの服が好きなのだろうか。
もやもやとグリ江ちゃんの過去の女装の数々を思い浮かべていれば、「とにかく」とコンラッドが語調を強めた。
「アニシナは、俺の許可を得てから来いと言ったそうですね。そして絶対に追ってこれないように、保険として一時的に筒路を封鎖したようですが?」
「……おれもヨザックも普通に通れたけど?」
「あなたの魔力で強引に繋いでしまったんでしょう。残っていた魔力のお陰で、俺や兵士達も通れましたし」
ということはカーベルニコフ地方に着く前から、おれは魔力を使っていたのだ。しかもフォンカーベルニコフ卿の発明品に。
最初から疲れていたことにもこれで納得がいった。そうとう吸われたに違いない。
おれの魔力量は案外少なかったのかもしれないとか、知らない内に魔力が弱くなったのかもしれないとか、無駄な心配をしてしまった。
脱力しつつ、改めて尋ねる。
「で、あんたも怒ってるんだ?」
「聞かないと判らないんですか?」
質問に質問で返された。
──確かに聞かなくても判るけどさ。
他に何か嫌なことでもあったんじゃ、と思うくらいコンラッドの機嫌が悪い。
似合わない色の軍服姿を思い出すから、こんな声の彼は苦手だった。指先に触れたシーツをギュッと握る。
そういえば、先ほど目を覚ましてからずっと、よそよそしい敬語ばかり遣われていることに気が付く。
彼の目をみることが怖くなってしまって、不自然に視線を逸らしたまま、小さな声で反論してみた。
「……こんなの、よくあることだろ」
小市民的正義感というある意味厄介なものに従って生きているおれは、トラブルを見つけると首を突っ込まずにいられない。その度に彼は「こうなると思った」という決まり文句と共に、苦笑しながら見届けてくれたじゃないか。
今回のことだって、おれが今までやってきたことと何の違いもない。
「まぁ、自分の体力の限界を省みず魔力を乱用する点に於いてはいつも通りですよね」
厭味全開の答えが返ってきた。
「……もちろん、ちゃんと反省はしてマス」
どうだか、と言いたげな目で一瞥される。
「えっと、その……勝手なことして、ごめん」
神妙に頭を下げた。
おれは、これから先もきっと同じようなことを繰り返して、あんたに迷惑をかけるんだ。だから、ごめん。
彼からの反応は溜め息がひとつ。
めげずに続ける。
「でも、さ……」
反省はしている。かと言って自分の行動の全てが間違いだったとは思わない。それだけはちゃんと主張しておきたかった。
「おれ、そんなに悪いことした? そりゃ、王様のすることじゃなかったかもしんないけどさ!」
「……別に、責めている訳ではありませんよ」
そう答える彼の声が、少しだけいつもの穏やかさを取り戻した。
「ただ、理由を知りたいと思って」
「理由?」
「そう。災害現場にはアニシナが行けば大丈夫だと解っていたはずなのに、あなたがムキになって付いて行こうとした理由」
黙り込む。
それは、彼にだけは話したくなかった。
既に何度目か判らなくなった溜め息を聞く。
「こんなの、あなたらしくないでしょう?」
「……そうかな」
曖昧に、首を傾げる。
買い被りすぎだ。おれはコンラッドが思うほど立派な王様じゃない。バカみたいな暴走だってするさ。
他ならぬ彼が絡んだ時には特に。
畳み掛けるようにコンラッドが続ける。
「ここのところあなたはおかしかった。何でもない訳ないことくらい見ていれば判ります」
「………」
「俺に何か隠していることはありませんか? それで俺を避けていたんでしょう?」
嵐の夜にも同じことを問われた。今度は確信に近い響きを持っている。
「だから、避けてないって」
あの時のように笑ってごまかすことができなかった。
俯いてばかりいるおれに痺れを切らしたのか、テーブルを退けて床へ膝をついたコンラッドが、下から悲しそうな目で見つめてくる。逃げ場がなくなってしまった。
「以前、あなたに言いましたよね。どんなに強大な魔力を持つ者でも、使いすぎれば命を落とすこともあると」
覚えていますかと彼は聞いた。
小さく頷く。
おれの推測でしかないけれど、ジュリアさんのことを指していたのだろう言葉だ。忘れるはずがない。
それでも言う。
「おれは、そんなに簡単に死んだりしないよ」
「根拠のない自信を持つのはやめてください」
咎める声で、言い返された。
「あんたはいちいち大袈裟すぎる」
大袈裟で過保護。
名付親で一応恋人で一番の理解者の癖に、おれを飾りだけの王様にしたがるのか。
「今回は人間の土地じゃなかったし、使いすぎたとも思ってないよ」
「その割には消耗が激しかった。ちがいますか?」
「それ、は……」
口ごもれば白い布を掴んでいた両手を取られる。包んでくる彼の掌が冷たい。
おれの身を案じていたからこそ、コンラッドが過剰に怒ったり悲しんだりしているらしいことはいい加減理解できた。
それはたぶんおれが王様だから、という訳ではなくて、けれどおれだから、という訳でもないのだ。
「顔色も悪かった。真っ青で、体が冷たくて人形みたいで。抱き上げたら記憶より軽くなっていて」
「筋トレサボってたせいで筋肉落ちて軽くなったんだ、ろ…っ」
「ユーリ」
途中で、言葉を塞ぐように抱きしめられる。
肩の辺りに顔を埋めた彼が、泣くんじゃないかと思うほど悲痛な声で言った。
「あなたまで失ってしまったら、俺は……っ」
あなたまで。
誰のことを思い出して苦悩しているのかなんて、考えるまでもないことで。
おれはジュリアさんじゃないよ。
口の中で、呟いた。
おれはユーリで、ユーリでしかなくて、あんたが愛してる誰かじゃない。
「……離せよ」
言うと同時に彼から逃れるため、暴れる。
「ユーリ……?」
「離せって!」
困惑した様子でコンラッドが腕を解いた。
「……なんで、そこまで心配するんだよ」
立ち上がって彼を見下ろした。酷くささくれ立った気持ちになっている。
「なんでって……」
コンラッドは、質問の意図を掴み損ねた顔で瞬いてから、答えた。
「あなたのことが、大切だから……」
彼がおれの前に立つ。また見下ろされる。そのことにも無性に苛立った。
「嘘つけ!」
大好きな人の言葉なのに、何もかも嘘みたいに聞こえてしまう。
悲しくて仕方がなかった。だから感情のままに言葉をぶつけた。
「あんたはおれが死んだって構わないんだろ!?」
「……どうしてそんなことを言うんですか」
聞いたことがないほど低くて色のない彼の声。何を思ったかなんて判らない。自分が何を言っているのかも。
本当に何も判らない。
「もうあんたには付き合いきれねーよ! 誰かの代わりに愛されるなんて耐えられない!」
おれの中にいる誰かが泣いていた。
「どうせあんたはっ、おれが死んだらまた同じ魂持った生まれ変わりを探し出して! そいつを大事に守って愛してやるんだろ!」
畜生、泣きたいのはおれの方だ。
「これからずっと、ジュリアさんの代わりにされるくらいなら! さっさと死んで魂明け渡した方がマシ…っ」
「やめてくださいっ!!!」
瞬間、痛みよりも熱を感じた。
何度か聞いた覚えのある乾いた音が耳に響いて、手加減なしのそれに吹っ飛ばされたおれはベッドへ逆戻りで、茫然と彼の顔を見上げている。
左頬を、平手打ち。
冷え冷えとした彼の表情を見るに、思わず手が出ただけなのだろうが。
「あなたがいなくなった後のことなんて考えたくもない!!」
続けられた言葉はどうしようもなく薄っぺらく聞こえる。こんな風に怒鳴られたのは初めてで、彼が怒っていることだけはちゃんと判るのに。
虚しくて泣きそうで笑ってしまう。
「確かに、今度死んだら見つけらんないかもしれないよな」
肘をついて身体を起こしつつ、虚勢でしかない嘲笑を乗せて言ってやる。
まぁ、他ならぬ彼ならば、どんな手を使ってでも見つけ出しそうではあるけれど。
彼女が使っていた魂の次の持ち主を探して、見つけて、もしかしたらまた失って。いつまで想い続けるんだろう。
どんなに想ったって叶わない。おれも、おれの次の誰かも、同じ魂を使っているだけの赤の他人だ。血の繋がりもない。顔も声も知らない。何を言っても彼女の言葉にはならない。
おれは一生彼女に勝てない。
「俺はあなたの生まれ変わりなんていりません!!」
怯むほどの剣幕で返された。凄んだ美形の迫力にビクリと肩が跳ねる。
普段の穏やかさとの落差が激しくて、詰め寄る彼はあの長兄より余程怖い気がする。
「だいたい、俺がいつそんなことを言った!?」
ところで、おれがコンラッドの逆鱗に触れたのはいつだろう。
「彼女の身代わりだなんてこと!」
「いっ、言っただろ!」
彼の怒気に押されながらも、おれは負けじと怒鳴り返した。
そもそも怒っていたのはこちらの方だというのに。逆ギレされた上に負けそうだなんて情けないじゃないか。
「いつ」
「あんたと最後に寝た日だよ! あんた、おれのことジュリアって……」
言葉尻が弱くなって、それ以上続けることはできなかった。
虚を突かれたような表情でコンラッドが呟いた。
「……聞いて、いたんですか……」
その声に後ろめたさは微塵もない。ひゅっと息を呑む。
──否定くらいしろよ。嘘でもいいから。
怒鳴ろうと口を開いたけれど、いったい何を言えばいいんだろう。
ここまでコンラッドの考えていることが解らなくなるのは、海へ突き落とされたあの時以来かもしれなかった。初めてだと思えないことが悲しかった。
参ったなと苦笑でも浮かべそうな顔をして、彼はおれの両肩に手を乗せる。癇癪を起こした子供を宥めるように。
「落ち着いてください、陛下。あれは……」
「っ、もういい!」
保護者の両手を振り払う。今度こそ涙が出た。
目の前の男が瞠目する。
「陛下!?」
「陛下って呼ぶな!」
瞬間、はっとしたようにコンラッドが動きを止めた。
「……すみません、つい」
涙腺が壊れてしまったみたいだ。止まらない涙のせいでほとんど何も見えない。急に動いたせいかまた眩暈がする。
ぼやけた視界のまま勘を頼りに出口へ駆け寄り、縋るようにドアノブを掴んだ。
「待って、ユーリ!」
焦った彼の声が追い掛けてくる。しつこいくらい名前を呼ぶ。さっきは間違えた癖に。
「ユーリ、まだ走ってはダメです!」
こんな時まで親みたいな台詞を吐くのはやめてくれ。
心配そうな表情を浮かべているのだろう、彼の顔も見たくない。何も、見たくない。
いっそ見えなくなればいいのかもしれなかった。そうすればあんたの好きな人と同じだ。
おれがどんどん薄くなって、彼女になってしまえば、あんたは。
「ユーリ!!!」
捕まえられる前に何とかドアを押し開けて飛び出した。柔らかい障害物とぶつかった。
いつか窒息しかけたツェリ様の胸の谷間と似ているような、でも決定的に何かが違うような。
微かに「どぐぅ」と鳴き声が聞こえる。上からは声が降ってくる。
「坊ちゃん!?」
勢いあまって突っ込んだ先は、お庭番の鳩胸だった。レースのようなものが頬に触れているから、例の如くメイド姿なのだろう。
おれが弾き飛ばされないように咄嗟に抱き留めてくれた彼は、身体を離すなり慌てた様子で訊ねてくる。
「どうしたんです、そんなにぐしゃぐしゃで頬っぺたまで腫らして。愛らしいお顔が台なしですよ」
乱れた息が漏れるだけで声にならない。みっともないと思うのに涙も止まらない。
「ヨザ……」
幼馴染の名前を短く呟いた男は、おれのすぐ後ろに立っているようだ。今さら足の裏に床の冷たさを感じる。
「あんた、陛下に何したんだ?」
尋常でない空気を感じたのか、問い質すヨザックの声が低く険しい。
「いや、その……」
コンラッドは珍しく弱腰だった。即答できないその様に、後ろめたさを見つけてしまう。
ヨザックには後ろめたいとか思うのか。あんた、ホントはおれのこと何とも思ってないんじゃねえの?
「まずはひとつだけ確認しておくが」
ヨザックは言う。
「坊ちゃんを殴ったのはあんただよな、隊長?」
僅かな逡巡の後、「ああ」と不承不承コンラッドが答える。
「だったらオレはあんたの言い分は聞かないぜ」
ヨザックはきっぱりと言い切って、「何があったんですか?」とおれに尋ねた。滅多に聞かないような優しい声音で。
「喧嘩ですか? 酷いことでも言われました?」
堪らなくなって、情けない顔を見られるのも嫌で、もう一度彼の胸に顔を埋めた。そこはまだ湿っていて温かかった。温かいのはたぶん鳩の体温だ。
野郎の涙と鼻水で濡らされるなんて不愉快極まりないだろうに、優しいお庭番は文句ひとつ言わない。
おれの行動に驚いて固まったのは一瞬で、すぐに大きな掌が背中を撫でてくれる。恋人とは違うやり方で。距離を詰めてきたらしい親友を、「睨むなよ」と呆れ声で制しながら。
「ヨザック、呼び付けておいて悪いが、一度外してくれないか」
あからさまにコンラッドの機嫌が悪くなっていた。
「ユーリは誤解しているだけなんだ。二人で話したい」
「ねぇ坊ちゃん」
ヨザックが、彼の声など聞こえなかったふりで、おれに言う。
「オレと隊長、どっちに出て行ってほしいですか?」
何も言えず、メイド服らしき胸元のレースをぎゅうっと握った。
今はコンラッドの話なんか聞きたくなかった。
幼馴染二人が言葉なく睨み合うだけの時間が続いた後、
「……わかりました」
コンラッドが言った。知らず、ほっと息を吐く。
おれとヨザックの脇を通って出ていったようだ。単調な足音はいつもと変わりなく聞こえた。おれはコンラッドの背中を見なかった。
開けっ放しだった部屋の扉が、ようやく静かに閉じられた。
「さてと。邪魔者は追い出したし、とりあえず坊ちゃんはベッドへ戻した方がよさそうね」
そう言われるなり横抱きで運ばれてしまう。寝起きに感情を爆発させたせいもあって、抵抗する気力などないに等しい。数歩でベッドへ下ろされた。
顔を隠したいから俯せになる。濡れた顔もシーツで拭いてしまえばいい。
「坊ちゃーん? そんなに泣くほどこっぴどく叱られちゃったんですか?」
ぽんぽんと背中を叩きながらの、茶化した問い掛けに安心する。
「ま、オレも怒鳴られましたけど。そりゃもう凄い剣幕で。さすがに今回は命の危険を感じました」
冗談交じり、笑いながらそんなことを言っている。
おれはシーツに顔を埋めたままで、くぐもった声でぽつりと答えた。
「……叱られたっていうか……」
確かに無断外出を叱られもしたけれど。
「怒られたんだ」
何が違うんだと問う代わりに、ヨザックは黙って続きを待っている。
「コンラッドに、おれが死んでも構わないんだろ、って言って」
「…………は?」
それから何を言ったっけ? 思いっきり平手打ち食らう直前に。
「……だったらさっさと死んで魂明け渡してやるって言ったら、怒られた」
「…………はいぃっ!?」
数拍の間が空いた後、彼が素っ頓狂な声を上げる。そこへ到るまでの話の流れを知らないのだから、驚くのも無理はないと思う。
ぱんっとベッドマットが鳴って身体が揺られて、勢いよく詰め寄ってくる気配を感じる。
「そんな恐ろしいこと本気で言ったんですか!?」
よりにもよって隊長に!
「うん」
おれは、確かにそう言った。
「……陛下」
呆れ返ったように溜め息を吐かれた。
「そりゃあ誰だって怒りますって。オレも絶対に怒ってます」
「……ありがと、グリ江ちゃん」
彼の言葉は嘘に聞こえなかった。嬉しくて素直にそう言えば、今度は戸惑いを乗せた吐息が返る。
「本当に、どうしちゃったんですか? 坊ちゃん……」
それはおれも知りたいよ、グリ江ちゃん。
まもなく控えめなノック音が聞こえて、ヨザックがドアを開けに行った。コンラッドだったら、と体を固くしたが、戻ってくるのは一人分の足音だ。
「ほら坊ちゃん、お顔だけはちゃんと冷やさないと」
彼が誰かに頼んで持ってこさせたらしい氷嚢を受け取って、熱を持ったままの左頬に当てる。
「痛みます?」
「へーき」
意地を張ってそう答えたけれど、実はけっこう痛かった。
「アイツ、馬鹿力ですからねー」
おれの強がりなんてお見通しのヨザックが言う。当然、手加減はされていたのだろうが、職業軍人が力の加減をしたところで、一般人の本気と同じくらいなんじゃないかと思う訳で。
「早く腫れが引くといいんですけど。そのままじゃ三男閣下に、誰に求婚させたんだこの浮気者ー! って胸倉掴まれちゃいますよ」
「……だな」
古式ゆかしい伝統に則った方法を知る魔族に見られれば、求婚されたことが丸わかりの滑稽な様なのだ。求婚じゃないが。誤解だが。本当に求婚ならまだ救いがあったのかもしれない。
「色々あってお疲れでしょう? 今日はもうお休みください」
労わるようにそう言われて、相変わらず顔を上げることなく頷いた。さっきから視界はシーツの白一色だ。近すぎて色なんか見えやしないけど。
確かに酷く疲れていた。眠らないとささやかな治癒魔術すら使えそうにない。泣きすぎたせいでまた頭が痛かった。
「眠るまでグリ江がついていますし、扉の外にはあなたの専属護衛が一晩中張り付いてます。警備は万全ですからご心配なく」
「張り付いてるんだ……」
「見ちゃいませんがね」
そうに決まってます、とヨザックが笑う。親友の取る行動も勿論お見通しらしい。
扉にペッタリ張り付く名付け親の姿を想像する。可笑しいと思ったけれど何故だか笑えなかった。
目を開けても世界が変わらなかったから、思い切り両目を擦ってみた。
「おはようございます、坊ちゃん」
朝に似合いの明るさでヨザックが言う。そんな彼の声を聞いて初めて、コンラッドの声を待っていた自分に気が付いた。
欠伸のせいで涙目になってから、「おはよう」と返す。
「ヨザックに言われるの新鮮だな。朝に会ったことはほとんどないし」
「今だってもう昼前ですがね」
お庭番の朗らかな声と共に、勢いよくカーテンを開ける音が聞こえる。差し込んだ光で視界が真っ白に染まる。
目を擦るまでもなく予感があったし、二度目だったから少しは落ち着いていられた。すぐに何でもないふりができる程度には。
明るすぎて何も見えなかった。それはかつて地下通路の吹き抜けで見た、白い闇に他ならなかった。
昨晩視界がぼやけていたのも、泣きすぎたせいではなかったらしい。たぶん、ヨザックにぶつかった辺りから見えていなかった。この眩しさに慣れてしまえば、もう少しマシになるだろうけれど。
どうして、なんて考えてみたところで、最悪なことに心当たりはひとつだけだ。おれは白いだけの空間を睨む。
見えなくなればいいのかと、思ってしまったせいだろうか。見えなくなればあんたは満足か。そう思った。そんなやけっぱちな想いのせいで、おれは視力を失ったのか。
──これから、どうすればいい?
ただでさえ無力な王の癖に、恋愛なんかで自棄を起こして。前進どころか後退だ。
「……あのう、坊ちゃん?」
思考だけに意識を囚われて動けずにいると、戸惑いを乗せた声で訝しげに呼ばれた。驚いて身体を引いてしまうほど近かった。
眩しかった光が遮られている。顔を覗き込まれているようだ。
「ぼけーっとしちゃってますけど大丈夫ですか? まだご気分が優れませんか?」
「大丈夫」
決して焦りが伝わらないように、おれは一拍置いてから答えた。ヨザックの顔がある方を向いて笑う。
「十分休んだし、起きられるよ。そろそろ血盟城にも戻らないとまずいよな。コンラッド何か言ってなかった?」
ごく自然に彼の名を口にすることができて、一先ず安心した。自然に、と意識してしまっている時点で、それは不自然なんだろうけれど。
「坊ちゃんが起きたことは白鳩便で伝えましたが……」
「それってあんたの胸に入ってた鳩?」
いつの間にか窓が開いていたらしい。緩く吹き抜けた風が髪を揺らした。視覚以外の五感が情報を求めている。
微かに潮の匂いがした。きっと近くに海がある。カーベルニコフ地方のどこかだろう。空間移動筒路で向かった先に海はなかったから、土砂災害の現場からは離れているのかもしれない。前にスタツアで落ちた海の傍かもしれない。
かもしれない、ばかりだ。目が見えていたら窓の前まで歩いていくのに。
そういえばどうでもいい質問の答えがまだ返ってこない。
答えの代わりに「坊ちゃん」と呼ばれた。
「なに?」
すぐ返事をしたのにヨザックは黙っている。次にぶつけられるだろう質問に対する、諦め半分の予感。
「……陛下、オレのこと見えてますか?」
思わず苦笑した。至近距離にいる相手と目を合わせるのは難しい。顔の位置は判っても、目がどこにあるのか判らない。近いせいで合わせたふりも通用しない。
もう一度瞬きをしてみてから、おれはゆっくりと頭を振った。驚きに息を呑む音を聞く。
「見えてないんですか? 何も?」
勢い込んで聞かれて頷いて、何もって訳でもないけど、と補足する。
「……そんな……」
そう零したきり言葉が続かない。何を言えばいいのか見失ったようだった。
ヨザックは静かに驚くんだなと、逃避するように脈絡のないことを思った。
「んな声出すなよ。平気だから」
とりあえず見えない世界を“見る”方法は知っている。ヨザックはおれの目の前でちゃんと動いているし、ここは真っ暗闇じゃない。あの時に比べればなんてことはない。
「全然、平気じゃありませんって、坊ちゃん……」
おろおろとヨザックが言う。余程動揺しているらしく、微かな声の震えまで伝わってくる。
改めて思い返してみれば、彼はおれの目が見えなくなった時のことを知らないのだと気付いた。
ヨザックだけじゃない。わざわざ心配を掛けたくなかったから、グウェンダルやギュンターにも話していない。あの場に居合わせた者しか知らないことだ。コンラッドとヴォルフラムくらいしか。
──コンラッド。
その名前が頭を過ぎっただけで、左頬がじくじくと痛むのだ。
昨晩の顛末を思い出して、おれはおもむろに口を開いた。
「あのさ、」
治す方法について考える前に、先手を打っておきたいことがある。それにはヨザックの協力が不可欠だった。
俯いたまま、早口で言う。
「コンラッドには黙ってて」
「無茶言わないでください、陛下」
即答されてしまったが、ここで引き下がる訳にはいかない。
「頼むよ。どうしても知られたくないんだ」
──コンラッドが好きなあの人と同じになれば……
そんな想いが原因で視力を失ったのだとしたら。自ら無意識に封じてしまったのだとしたら。
あまりに身勝手すぎて、彼にだけは知られたくないと強く思う。
「グリ江ちゃんが協力してくれれば何とかなるからさ!」
「……と、言われましてもね……」
しかし、どんなに言葉を重ねてみても、ヨザックは頷かなかった。
本気で弱りきった声を出して、思いも寄らなかった現状を告げる。
「隊長ならそこで固まってます」
「……え?」
相変わらずぼやけた輪郭だけの世界の中、離れたところでコツンと靴音が鳴る。ヨザックのものとは異なる気配。窓を開けて風が通るということは、部屋のドアもまた開いていたのだと思い当たる。
音が聞こえた方へ顔を向けた。もちろん何も見えやしないのだけれど。
「……どうして……」
やっぱり見えなくても判るのだ。
辛うじて聞き取れるほど掠れた声で呟いた彼は、きっと悲愴な顔を晒して、遠い場所に一人で立ち尽くしていた。
2016.5.11
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