6

 放っておけばいつまでだって固まっていそうなおれたちを余所に、最初に動揺から立ち直ったのはヨザックだった。

「隊長、交代だ」

 冷静な口調に迷いはない。

「オレが医者を呼んでくるから、あんたは陛下についててやれ」
「……判った。頼む」

 非常事態だと判断したんだろう。おれの意思なんて聞こうともしない。素早く離れていく彼の動きが、一瞬だけの微かな風を起こした。
 慌ててベッドから飛び降りた。おれとコンラッドの関係だって負けず劣らずの非常事態を迎えている訳で、この状況で二人っきりにされては堪らない。

「ちょっと待った!」
 
 ヨザックがいるはずの方向へ手を伸ばす。辛うじて指先に触れた布を掴んだら、抵抗なくするりと伸びてしまった。思いきり引っ張ったせいでリボンが解けたらしい。たぶん、メイド服のエプロンの。

「うわっ」と間抜けな声を上げて後ろへ引っくり返りかけたところを、ヨザックに片手で受けとめられる。足早に近づいてきていた靴音が止まった。

「坊ちゃん、危ないですって!」

 ヨザックはそのまま腕を引いて、元通りベッドに座らせてくれる。

「じっとしててくださいよ、もう!」
「ごめん」

 彼の小言に反射で謝りながら、手探りでスカートの裾を探し当てた。今度こそ間違えずにしっかりと掴む。

「でも、誰も呼ばなくていいから」

 困ってしまったヨザックが、目だけで親友に助けを求めたのか、
「そういう訳にはいきません」と、硬い声で答えたのはコンラッドだった。

 僅かに逡巡した後、言いづらそうに続ける。

「昨日の……打ちどころが悪かったせいかもしれないし」

 なかなかの威力だった平手打ちのことを気にしているらしい。
 声が聞こえた方を向きかけて、やめた。

「そんなことで見えなくなったりしないよ」

 会話の相手が立っている場所は判っていたし、目が明るさに慣れてきたから、ぼんやりとしたシルエットくらいなら見えるけれど。
 視覚がまともに働いていたとしても、おれは彼の顔を見ていなかったはずだ。

「万が一ということも考えられますし、もしも魔力の過度な消耗などが関係しているとしたら、俺とグリエではお役に立てません。ちゃんと専門の者に診てもらわないと」

 陛下ともユーリとも呼ばない彼は、おれを見て話しているんだろうか。おれの目が見えなくなった原因には思い至っていないのか、気付いていないふりをしているのか。
 今、彼はどの程度冷静なんだろう。
 声だけでは何も判らなくて、ぎこちない会話を続けることしかできない。

「そこまで深刻になるようなことじゃないって。きっと放っておけばそのうち治るよ」
「治るって坊ちゃん、打ち身や捻挫じゃないんだから」

 口を挟んでくれたヨザックのお陰で、ほんの少しだけ空気が緩む。
 コンラッドはかぶりを振ってから──そんな動きをしたような気がしただけだが──慎重さを感じる声で言った。

「あの時とは、状況が違います」
「……そうだけど」

 油断するたび、鮮明に蘇りかける苦い記憶を、大急ぎで頭の片隅へ追いやった。

「あの時?」

 何も知らないヨザックが呟く。
 それは、おれからはとても説明できそうにない。

「とにかく、あなたが何と言おうと医者は呼びますから」

 コンラッドにはそもそも説明する気がないらしく、ヨザックの疑問は宙に浮いたまま放置されることになった。
 気まずい沈黙が訪れる。
 幼馴染み二人の間では、何かしらの無言のやり取りが交わされているのかもしれないが、見えない身としては黙られてしまうともう、お手上げだ。せめて拾うことができる音を探してみる。
 承服し難いことを受け入れた時みたいな、重たい溜め息をついたのはコンラッドで、もう一人は特に動きなし。
 それから数秒の間が空いて、ようやく会話が再開された。

「俺が行く」とコンラッドが言った。自分が部屋から出ていくと。
 おれではなく、ヨザックとの会話だから、黙って聞いているだけでいい。

「厨房にも声をかけておく。遅い朝食の用意はできているが、目が見えていないと食べ辛いものばかりだから、少しメニューを変えてもらって、この部屋へ届けさせる」

 感情を交えず、必要なことだけを淡々と並べているような話し方だ。

「陛下の目のことはとりあえず伏せておきたい。厨房係には、まだ体調が優れないとだけ伝えるから、お前も話を合わせろよ」
「つまり、オレが陛下についてろって? いいのかよ?」

 ヨザックの声からは戸惑いが伝わってくる。彼にとっては想定外の展開だったらしい。

「ああ」とコンラッドが答える。短い一言からは何も読み取れなかった。
 遠ざかっていく足音と、静かに扉が閉まる音。
 詰めていた息を吐き出した。

「あーあ、あいつ逃げちまいましたねー。坊ちゃんがグリ江を選んだりするからぁ」

 スカートの裾を握ったままだったおれの手に軽く触れたヨザックは、冗談なのか本気なのか判らないことを言っている。

「……巻き込んじゃって、ごめん」

 色々なことに対して申し訳なく思いながら、皺が寄ってしまったに違いない布を離した。

「今だけじゃないよな。ここんとこずっと巻き込みっぱなしだ。一緒に怒られるって約束したのに、肝心な時に体力足りなくなって寝ちゃってたせいで、ヨザックのこと全然庇えなかったし」
「巻き込まれたとは思っちゃいませんけど。うちの閣下のお部屋で坊ちゃんに声を掛けたのも、隊長と坊ちゃんのシュラバに突入したのも、グリ江だったでしょ? だから坊ちゃんは謝らなくていいの!」
「修羅場……まぁ当たらずとも遠からずなのかもしれないけどさ」
 他に適切な単語はなかったのか。居た堪れなくて逃げ出したくなるからやめてほしい。

 ふと、ヨザックが動く気配を感じて、役に立たない目で追いかけた。
 右手を伸ばせば触れられる場所に留まっていた彼が、おれの正面に移動する。今度は手を伸ばさなくても届きそうな距離だ。どちらかというと明るい色の人型が縮んで、座っているおれよりも頭の位置が低くなる。

「陛下、ないとは思いますが」と、ヨザックが急に改まった声で言った。

「目が痛むのを隠していたりはしませんよね?」
「痛かったら隠さないし、絶対顔に出ちゃってるよ。視力以外は健康体」
「それなら、まぁ、今すぐどうにかしなきゃまずいって類いのものでもないんですかねー」

 じっと目を覗き込まれている気がして、遮るように瞬きを繰り返した。

「だから、最初から言ってるだろ。そんなに心配しなくても大丈夫なんだって」
「……オレとしては坊ちゃんの落ち着きようが不思議なんですが」

「なんだかなぁ」と、少し離れながらヨザックがぼやく。

「オレまで過保護組に仲間入りしちまったような気がしてきましたよ」
「過保護組?」
「筆頭は、教育ギュギュギュ係とうちの隊長」
「あー……ギュンターかー」

 今頃どうしているんだろう。
 二人目の方は聞き流して、ギュンターのことを考える。自然と眉が下がってくる。
 嵐の夜におれが城を抜け出したことだけでも大騒ぎだろうに、その上、目まで見えなくなっていると知れた日には──。
 やめよう。問題を先送りにするのはよくないけれど、とりあえず今は考えたくない。

「ええと、坊ちゃん。もうひとつ聞いてもいいでしょうか?」

 現実逃避しかけているおれの耳に、躊躇いがちな声が届く。

「隊長が言ってたあの時ってのは、いつのことなんです? もしかして以前にも見えなくなったことがあるんですか?」
「……それは……」

 口を開いてみたものの、何と続けるつもりだったのか判らなくなった。ウェラー卿に聞いてくれ? ちがう。そうじゃなくて。
 目が見えている時に同じ質問をされたなら、何とか答えることができたのかもしれない。もう全て終わったことなんだと、自分に言い聞かせるための時間は充分すぎるくらいにあったし、ヨザックは今だっておれの傍にいる。

「……坊ちゃん?」

 見えないけれど、ちゃんといる。声が聞こえていたんだから。
 それでも聴覚以外の何かで確かめずにはいられなくなって、闇雲に伸ばした手が空を切る。
 風を感じたのは一瞬だけで、すぐに身体の右側に体温が触れた。ヨザックが、隣に座ったのだ。

「もう、坊ちゃんたら。やっぱり不安なんじゃなーい。平気なふりして強がったりしないでくださいよぅ」

 いつもの陽気な声だった。
 彼はおれの肩に手を乗せて、そっと寄り掛からせてくれる。ここにいると教えるように。

「そんなお顔なさらなくても、無理に聞き出したりしませんて」
「うん」と小さく頷いた。
 どんな情けない顔を曝してしまったんだろうか。今は鏡を見ることすらできないから、知る術は全くないのだけれど。

「どうやって治したのかは、聞いても大丈夫ですか?」

 もう一度頷く。体温が触れていると安心できた。あの時のことも落ち着いて思い出せる。

「治したというか、本当に、いつの間にか治ってたんだけど……何か特別なことあったかな。あ、アーダルベルトが手料理を振る舞ってくれたっけ。その後で見えるようになった気がする」
「それはまた……参考にするのは癪ですが、グリ江の手料理とか試してみます?」
「きっと豪快な男の料理なんだろうなー……今は遠慮しとく。もちろん食べたくない訳じゃなくて、いつかは食べてみたいけど。さっき、コンラッドも言ってただろ。前はけっこう特殊な状況だったから、同じことやっても駄目だと思う」
「そうですかー……困りましたねぇ」

 彼らしくない、不安そうな声。大したことじゃないと笑ってほしいのに。
 おれは、ヨザックに体重を預けたまま目を閉じて、両手で瞼に触れてみる。
 どんなに待っても何も起こらない。誰も、何も教えてくれない。

「……大丈夫ですか?」

 また、頷く。
 心配されるほど後ろめたさが増していって、無性に謝りたくなるのだけれど、理由を聞かれても答えられないから、全部呑み込んでしまうしかなかった。

 ──おれのせいかもしれないんだ。たぶん、自分で見えなくしちゃったんだよ。

 言える訳がないじゃないか。命すら懸けて王様を守ってくれる人たちに。


 重たい泥のような負の感情は、視覚以外の感覚まで狂わせてしまいそうで、溢れかけた何かを押し止めるみたいに、両手にぐっと力を込めた。切りそびれていた爪が額の薄い皮膚に刺さって痛みを生む。

「……坊ちゃん?」

 様子のおかしさに気付いたらしいヨザックが動く。上体を少し傾けて、顔を覗き込もうとしたのだろう。
 咎められる前に力を抜いて、並んだ爪あとを隠すように指先で確かめる。

「大丈夫」

 大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
 痛みで冷静になろうとしただけだ。自棄を起こした訳じゃない。
 ヨザックは躊躇いがちに何かを言いかけたけれど、音になる前にやめてしまった。言葉の代わりに注がれる気遣わしげな視線が、彼の幼なじみそっくりだと思った。例えば寄りかかった先の感触──主に筋肉の──だとか、深く呼吸した時に感じる香りだとか、体温や鼓動の速さも違うのに、妙なところがよく似ている。
 でも、コンラッドがその視線を向けながら想っていたのは、おれのことじゃなかったのかもしれない。別の名前で呼びたかったのかもしれない。
 疑い出せばきりがなくて、信じ方ももう判らなくて、こんなことばかり考えていても、痛みが増していくだけなのに。

 また指先に力が入っている。爪を立ててしまう前に慌てて止める。
 今は落ち込んでいる場合じゃない。視力のことを何とかしないと。

 おれのものじゃない名前も、ヨザックの視線も、意識の外に追いやって、自分の呼吸に集中する。深呼吸まではしなくていい。
 
 ──冷静になれ。

 ゆっくりと息を吸って、吐いて、いつもと違うところがないか探ってみる。身体中を巡る血液の流れを追いかけるみたいに。
 さっき彼に申告した通りの健康体で、どこにも不調は見つからない。視力と、たぶん心以外は。
 収穫といえば、治癒魔術を使えない理由がひとつだけ判った。判ったけれど、言い出しづらい。これは、不調というよりも。

「なんか……腹減ってきた、かも……」

 目を覆ったまま情けない声で呟くと、ヨザックが少し安心したように笑うのが聞こえた。

「坊ちゃんは朝メシを食いっぱぐれてますからねぇ……色々考えるのは腹拵えしてからにしときましょ」
「……そうだな」

 昨日だって薄味のお粥しか食べていないし、エネルギー不足のまま思い悩んでもろくなことにならない。



 程なくして届けられた朝食兼昼食は、パンとチーズに数種類のスープだった。料理を運んできてくれた女の子は、部屋の中まで入らずに戻っていった。てきぱきと食卓を整えているのは、メイドさんモードに切り替わったグリ江ちゃんだ。
 テーブルに皿を並べていく音がなかなか止まらないから、「スープって全部違う味じゃないよな?」と恐る恐る聞いてみたところ、中身が同じものが三個ずつあるらしい。総数はざっと……十個以上。
 引っ繰り返さないようにそろそろと手を伸ばす。「持ち手は右側ね」とヨザックが教えてくれる。スープ用ではなくて紅茶用のティーカップかもしれない。一人分の量のスープを入れるには、ティーカップ三個くらい必要そうな小ささだ。なるほど、それでこんなことに。
 具材は細かく刻まれていてスプーン要らずだし、確かに見えなくても問題なく食べられるけれど、いちいちティーカップを持ち上げて匂いを確認しないと中身が判らない。並べ方の方則を聞いてみても、グリ江ちゃんは「当ててみて」とふざけているし、スープの群れの中に紅茶まで紛れこんでいるし、目隠しして答えるクイズにでも参加させられている気分になった。同じ味を三回連続で引き当てたら、景品とかもらえたりするんだろうか。

 意外なほど手を出してこないヨザックに見守られながら食事を終えたところで、控えめにドアを叩く音が聞こえた。目を診てくれる人を呼びにいったウェラー卿が戻ってきたらしい。「失礼致します」と言ったのは、おれの知らない声だったけれど。
 知らない声が二人分聞こえて、部屋に入ってくる足音も人影も二人分。ドアが閉まる音は聞こえなかったから、彼は部屋の外で話を聞くつもりなんだろう。きっと難しい顔で腕を組んで、壁に寄り掛かって立っている。気配を感じるのでもなく、見えなくても表情が判るのとも違う。彼ならそうしていると知っている。
 考えていることまでは判らない。全く判らなくなってしまった。

 出張診察に来てくれたのは、カーベルニコフ城付きの癒しの手の一族の衛生兵と、街の病院の医師だった。落ち着いた雰囲気の女性と、気の弱そうな男性の組み合わせで、「この件はくれぐれも他言無用で」なんて改めてヨザックが念を押すまでもなく、口は堅そうな印象を受ける。そこを重視しての人選か。
 年齢はたぶんヴォルフラムよりは上。声だけで判ることなんてその程度だ。見えていても当てられる自信はない。

 長い時間を掛けて診察を終えた専門家二人が出した結論は、まるっきり同じだった。原因は不明、一時的なものかどうかも不明。
 彼らは途方に暮れたような声で言った。

「私どもの力では治せません」
「何か、大きな力に阻まれているように感じられます」

 そうだろうなと思いながら聞いていた。室内の空気は再び重くなった。



 連れてこられた二人が申し訳なさそうに帰っていくと、ヨザックとウェラー卿は部屋の外で会議を始めた。これからどうするかを話し合っているらしい。
「一応言っておきますが、ここは二階ですからね。窓から抜け出そうとしないでくださいよ」と言われてしまったので、いや、言われなくてもそんなことするつもりはなかったけれど、腹筋しながら大人しく待っている。おれだってそこまで考えなしじゃないし、無鉄砲でもないつもりだ。
 二人はドアのすぐ側で話しているはずだが、鋭くなった聴覚でも途切れ途切れの声を僅かに拾える程度で、話の内容までは伝わってこなかった。盗み聞きする必要はないかな、と思っている。というか、あまり進んで聞きたくはない。おれも知っておいた方がいい話なら、後でヨザックが教えてくれるだろう。

 幼なじみ組の会議が終わったのは、腹筋の回数が自己最高記録の更新間近まで迫った頃だった。
 遠ざかっていく足音がウェラー卿で、近づいてくる足音がヨザックだ。相変わらずメイド服姿のグリ江ちゃんは、軍靴を履いていないから判りやすい。

「とりあえず王都に戻るのはやめて、ここで二、三日様子見することになりました」とヨザック。
「血盟城に戻ってしまうと、どんなに緘口令を敷いても大騒ぎになるのは避けられないんで」
「ギュン、ターがっ、いるから、なー」と、ここ数日の運動不足が祟って息切れして、まともに返事もできないおれ。

「一度地球へお戻りになってはどうか、という案も出たんですが。ほら、今は猊下もあちらにいらっしゃるから知恵を借りられるし、日本の病院でなら精密検査ができると隊長が」
「……あっちに、戻るのは、移動がなー」

 溺れずに帰り着ける自信がない。今回の出発地点は近所の川だった。

「それが問題なんですよねぇ。移動中の安全確保のためにご実家まで付き添おうにも、まだ大ごとにはしたくないとなると、眞王廟を頼る訳にはいかないし、陛下の魔力をお借りして移動することになってしまうので……今、陛下に大きなご負担をお掛けしちゃうのはよくないだろうということで、この案はなしになりました。
 まあ、あちらへの付き添いなら、護衛はウェラー卿一択ですからね。喧嘩中の相手と二人っきりで里帰り、なんて気まずいでしょ」
「そーだなー、今は遠慮しときたいかなー」

 そんな気まず過ぎるスタツアは嫌だ。途中で逸れそう。
 そもそも、護衛連れでスタツアなんてできる気がしない。最近のおれは、ほぼ自力で移動できている、と村田が言っていたけれど、未だに自覚も実感も全くないのだ。同行者のことまで責任は持てない。となると、やっぱり幼なじみ会議の結論通り、ここを動かず様子見するしかないのだろう。……ここ?

「あれ? ここって、どこなんだっけ。カーベルニコフ地方にはいるんだよな?」
「あー、まだ隊長から聞いてなかったんですね」

 ヨザックの説明によると、ここはフォンカーベルニコフ家が所有する別荘で、お忍び中の魔王陛下御一行が滞在先を探していると聞き付けたフォンカーベルニコフ卿デンシャムが、大喜びで貸し出してくれたらしい。カーベルニコフ城までは、馬で一時間かからないくらいの距離。スタッフは城から派遣されてきたそうだ。王様が失明中だなんて話が広まったら大変なことになるから、必要最小限の数だけ残して、他は帰ってもらったらしい。警備兵も屋内にはいない。
「軽くご案内しましょうか?」との提案に頷いて、ようやく部屋から出ることになった。

 昼間なら彼の姿が見えるから、壁に触れていなくても不自由なく歩ける。段差や障害物はヨザックが教えてくれた。
 おれが使っているのは二階の客室で、隣のもう二部屋も客室、廊下を挟んだ向かいにご夫婦それぞれの寝室、浴室にトイレと洗面台。人の気配はどこにもなかった。上階には行かなかったけれど屋根裏部屋があって、物置と使用人部屋になっているらしい。
 階段で一階へ。不本意ながら下り階段はヨザックに運ばれての移動だ。一階には食堂と厨房その他諸々、書斎、二階の浴室と同じ位置にトイレ、吹き抜けになっているらしい玄関ホール。
 せっかく案内してくれたヨザックには悪いが、今の視力では食堂と玄関の違いも判らない。判ったのはせいぜい広さと窓の位置くらいだ。
 誰にも会わないまま歩き回って二階の客室に戻る。戻ってしまえばもう何もやることがなかった。まだ日も暮れていないのに。
「たまには何もせずにゆっくり過ごすのもいいんじゃないですか?」とヨザックは言う。何もせずにゆっくり過ごしていたら、夕食の頃には立ち直れないほど凹んでいそうだ。引きこもっているのは性に合わないし、せめて外に出たいと思ったけれど。
「警備兵には、少し体調を崩された魔王陛下が静養中、と伝えてあるので、外はちょっと」と言われて渋々諦めて、午後の残りの時間は踏み台昇降に励むことにした。
 踏み台が欲しいと頼んだだけで、すぐさまちょうどいい高さの台が出てきた。時間を持て余したおれのやりたがることなんてお見通しのもう一人の護衛が、予め室内に用意しておいたのだと気付いてしまう。悔しいから気付かなかったふりをした。

 護衛兼メイドのグリ江ちゃんは、踏み台の昇り降りを見守る仕事には早々に飽きたらしい。
「そろそろやめませんか?」と十回は言っていた。



 一階の食堂に用意されていた夕食の光景は異様だった。と、思う。

 晩餐会でも開けそうなだだっ広い空間にも人気はなく、最悪手掴みで食べるしかない身としては、マナーを気にせずに食事できそうで有難い。コース料理スタイルではなく、最初から全ての料理が並んでいるらしい。
「ご一緒させていただきますね」と言って、ヨザックが隣の椅子を引く。
 主食はパン、例によって小分けにされている何種類ものスープ。それから。

「……ちょっと待てよ、この、皿からはみ出して大量に並んでるのって、もしかして全部先割れスプーン?」

 前菜と主菜の大皿が明らかにおかしい。銀製の皿かと疑いたくなるくらい、やたらに灯りを反射させている。

「当たりー」とヨザックが陽気に答える。
「一口で食べられる大きさの肉やら魚やら野菜やらが刺さってますよん」

 その数ざっと……数十本?

「……スタッフのみなさん、洗い物増やしてすみません……」
「発案者に責任持って全部洗わせるから、坊ちゃんは気にしないで食べて食べて」
「発案者って?」

 いや、聞かなくても予想はつくけれど。

「ウェラー卿」
「だよな」
「たぶん、準備したのもね」とヨザックが付け加える。
 一口分ずつちまちまと刺していく作業を想像するだけで、お腹いっぱいになりそうだ。
 食欲が低下しつつあるおれの隣で、先に食事を始めたヨザックが、早くも使用済みカトラリーの山を築き始めている、気がする。というかグリ江ちゃんも同じ状態のものを食べるのね。
 彼が遠慮なく先に食べているということはつまり、軽く二人前以上の量の肉やら魚やら野菜やらが、先割れスプーンに刺さった状態で並んでいるということで。

「……もしかして暇なのかな」

 そんなはずはないのに思わず呟いてしまった。

「暇っていうか、何かやってないと落ち着かないんじゃないですか? 陛下のことが心配で仕方なくて片時もお側を離れたくない癖に、拒絶されるのが怖くて近づけなくなっちゃってるヘタレだから。色々考えすぎて、身動き取れなくなって、無心でできる作業で現実逃避、みたいな?」
「だとしてもさぁ……普通ここまでする?」と言って、先割れスプーンを一本手に取った。前菜を選んだつもりだったけれど、口に入れてみたら煮魚だった。
 おれのぼやきを聞いたヨザックは、共感はするけどそこに触れるのは嫌だなー、とでも言いたげな声を出す。

「あー……あいつは坊ちゃんのこととなると特別心が狭いですからねー」
「ごめん、話の繋がりが判んない」

 彼はおれの疑問には答えず、更に繋がりの見えない話を続ける。

「オレは隊長から、陛下が視力のせいで不便そうにしていたとしても、危険がない限りは手出しするなと言われてるんですが」
「……なるべく人に頼らずに、一人でできるようになるべきだってこと?」
「表向きはそうなんだろうけど、そうじゃなくて。ようするに、『はい、あーん』をやらせたくないんですよ。オレが陛下にひと匙ひと匙すくって食べさせる、なんて状況を、全力で回避しようとした結果が、これ。
 ね、心が狭いでしょ?」

 同意を求められても困る。
 彼はコンラッドとおれについての話をしているはずなのに、他人事みたいに感じてしまう。実際、他人事なのかもしれないし。
 コンラッドは、名付子のお世話役を譲るのが嫌なのか、それとも……?
 それとも、の続きをいちいち考えては疲弊する。
 どうしても後ろ向きになる思考を持て余しつつ、二本目の先割れスプーンに手を伸ばす。これも前菜ではなくて、一口サイズのステーキだ。
 コンラッドの心が狭くなかったとしても食べさせるサービスの方は固辞するが、何が刺さってるかくらいは教えてほしかった。

「で、坊ちゃん。この後なんですが、風呂はどうします?」
 
 おれが黙っていたせいか、ヨザックはあっさりと話題を変えた。

「入れるもんなら入りたいけど……?」
「ウェラー卿の心の狭さを考慮した上で答えていただきたいんですが、入浴中だけ護衛交代とか……」

 どうやら話題は変わっていなかったらしい。
 聞くまでもなく表情で答えを察したヨザックが、「しませんよねぇ」と力の抜けた声で言って溜め息をついた。

「なんで今さら嫌がるんだよ? 一緒に羊風呂だって入った仲だろ」

 初対面からしてお互い全裸だったし、できれば忘れておきたいので口には出さないが、おれの目が職務放棄を始めてからは、やむを得ず連れションだってしてきた仲だ。

「別に嫌がっちゃいませんけど、後が恐いんですってぇ。洗面室と風呂に付き添う時は極力見るな触るな、とも厳命されてるんで、あんまりお手伝いできませんよ?」
「桶とか石鹸とか渡してくれるくらいでいいよ。なるべく自力で頑張るから」

 そんな命令するなよ、とウェラー卿には言ってやりたいところだが。

「というかグリ江ちゃん、コンラッドの機嫌気にしすぎじゃねえ?」

 話を聞いていて何となく腑に落ちないのは、普段なら気安い間柄であるはずの元上官に対するヨザックの態度だ。

「いつもだったら命令絶対厳守ー! な感じじゃなくて、やりたいようにやってるだろ。どうかしたの? コンラッドと何かあった?」

 ヨザックが唸って言葉を探す。

「隊長ねー……」

 記憶を辿りながら話しているみたいな、間延びした声が返ってくる。

「なーんか変なんですよねー。だから下手に刺激したくないっていうかー」
「変?」
「心配しすぎて変、とか、落ち込み過ぎて変、なら理解できるんだけどなー」
「ちがうんだ?」
「そうですねぇ。不安そう、だった気がします。陛下のご様子はどうだ、いつも通りかって、顔合わせる度しつこいくらい聞いてくるんで。自分で確かめに行けばいいのに、ヘタレだから行けないのよねぇ」

 変、なんだろうか。長い付き合いの幼なじみが警戒してしまうほど?
 顔を合わせるどころか声すらまともに聞いていないから、判断する材料が何もない。
 まだ考えたくないな、なんて、おれはいつまで彼と向き合うことから逃げるつもりだろう。







 今までは意識もせずにできていたこと、例えば食事、着替え、靴を履くこと、トイレに入浴。そんな当たり前の日常動作に、いちいち焦れるほどの時間が掛かって、その度に見えない不便さを思い知る。

 二階の浴室にあった湯槽には、熱めのお湯がたっぷりと張られていた。浸かってみた感じ、埼玉の実家の倍くらいの大きさか。
 全く一緒に入る気がないヨザックは、濡れるだろうに服も着たままだった。申し訳なく思いながらも、極力見ない触らないを守っているはずの彼に「おれ、ちゃんと洗い流せてる? 泡残ってない?」などと、見ないと判らないことを聞いてしまう。しまいには彼も開き直ったのか、お湯を掛けたり身体を拭いたり、色々と世話を焼いてくれた。
 ゆったりと湯槽に浸かったのはずいぶん久しぶりのことで、凝り固まっていたものが解けていって、気力も体力も十分に回復したような気分になれた。
 数日前に避難所でぶっ倒れた時のおれは泥だらけだったから、意識のない間も誰かが風呂に入れて、綺麗に洗ってくれたんだと思うけれど。誰か、というかコンラッドが。

 適度な運動をして十分な栄養も摂って、仕上げに風呂で身体の芯まで温まり、客室へ戻った頃には「じゃあ寝ましょうか」と言われるくらいの時刻になっていたが、昼前まで寝こけていたせいか、全く眠気がやってこない。

「なら、眠くなるまでお話でもします?」

 ベッドの縁に腰かけたヨザックが言う。

「話? あんたの思い出話とかしてくれんの?」
「それはまた別の機会にじっくりと」

 まだ眠れそうになくてもとりあえず、と掛け布団の下へ押し込められたおれは、上から降ってくる声を聞いている。寝かしつけモードにでも入ったみたいに、彼の声は柔らかく穏やかだった。

「オレは、坊ちゃんのお話を聞けたらいいなーと思ってるんですが。昔話じゃなくて、最近の話」
「……眠くなるまでおれが話すのかー」

 それはまた、斬新な寝かしつけ方だ。

「最近……話せるようなこと、なんかあったかな」
「あるでしょ?」

 ヨザックが悪戯っぽい笑みを含んだ声で言った。思い出して、というように続ける。

「オレは坊ちゃんの夜遊び仲間ですからね。もう夜の街へ遊びに行く必要がなくなったってことくらいは、教えてくれてもよかったんじゃなーい?」

 おれは思わず身体を起こして、彼の顔がありそうな辺りを見る。この暗さでは何も見えないのに。

「……知ってるんだ」
「ええ。勿論お相手のことも含めてね。陛下は隠したがってるみたいだったので、気付いてないふりしてました。すみません」
「それは別にいいけどさ。ヨザックなら気付いてるかもって、ちょっとは思ってたし。ええと、そのー、けっこうバレバレな感じデシタカ……?」
「いーや、気付いてるのはオレと、グウェンダル閣下くらいだと思いますよ。うちの閣下は、たぶん兄としての勘で気付いたんだろうなー。で、オレは隠す気なさそうなウェラー卿から、日々あからさまな牽制をされ続けてましたから」

 見るな触るな食べさせるな、とかのことか。

「あとは、侍女も何人か気付いてそうですけどねぇ。特に、洗濯物回収してる侍女が」

 洗濯物? と首を捻りかけて、

「うああああー」

 居た堪れなさに言葉にならない声を上げて、勢いよく枕に頭突きした。埋まりたい。穴がないならシーツの海で溺れてしまいたい。
 彼と過ごす夜の間に汚れたシーツや下着は、今までどうしていたんだろうか。シーツの交換も着替えも、いつの間にかコンラッドが済ませてくれていたから、おれは何にも知らなかった。というか気にする余裕もなかった。
 待てよ、風呂までついてこようとするのを断ったあの朝、彼が「今さらじゃないかな」なんて言って苦笑していたのは、朝風呂以前に汚れたシーツでバレバレなのに、とか思っていたせいか?

「坊ちゃーん、あんまり暴れると壁にぶつかりますよー」
 
 おれが悶々としている間、ヨザックはジタバタする様を面白がって笑っていたが、ふと、笑いを引っ込めて、言った。

「三男閣下は、どうなんでしょうね。婚約破棄したとは聞いていませんが……まだ婚約者なんですよね?」

 今度は別の居た堪れなさで埋まりたくなった。

「まあ、たったふた月付き合ったくらいで、ウェラー卿一人に絞るのは勿体ないか。あっさり軍籍から抜けちまった隊長より、ヴォルフラム閣下の方が将来は安泰そうですよねー」

 付き合い始めた時期まで把握している優秀なお庭番は、茶化し半分で不満そうに同意を求めつつ、そんな理由じゃないから、という否定が返ってくるのを、ゆったりと構えて待っている。
 違うよって、早く言わないと。

「……コンラッドに、気持ちを伝えるとか、付き合うとか、そういうことするつもりはなかったんだ」

 まだ、と小さな声で言う。

「経験不足のおれには自信も度胸も全然足りなくて、コンラッドがおれのこと、大切に想ってくれてるのは知ってても、親愛か恋愛か判んなかったし」
「あれだけ重たい愛情だったら、どっちでも大差ない気がしますけど」とヨザックが口を挟む。ごろんと転がって彼の背中がある方を向く。

「でもさ、普通好きな奴に可愛い女の子紹介しようとはしないし、ヴォルフとグレタと仲良く川の字で寝てるのを、ニコニコ見守ってたりしないだろ。その癖おれがヨザックと出掛けると、あからさまに不機嫌になるんだぜ? 判んねーよ。恋愛初心者には難易度高すぎる」
「……あいつは普通の範疇から外れてるからなー。しかもオレにだけ嫉妬丸出しなんですよねー」

 幼なじみの気安さ故だろうか。ちょっと羨ましい、と思考が脱線しそうになった。

「それに」と、断ち切るように話を戻す。

「ヴォルフラムのこともあったし。知らなかったとはいえ、うっかり求婚しちゃったのはおれだから、相手が納得するまでとことん話し合って、婚約解消してもらうまではダメだって」

 コンラッドもヴォルフラムも大切だから、ちゃんとしたいって思ってた。
 そんなおれの決意が総崩れになったのは、絶対にあいつのせいだ。

「そう思ってたのに、コンラッドが」
「え、まさか隊長から告白してきたんですか!?」と、食い気味にヨザックが聞いてくる。

「そうなんだよ。いきなりおれのことが好きーなんて言ってくるから、頭真っ白になっちゃって」

 銀の虹彩がきらめく瞳で、おれだけを見つめて、誤解しようがない言葉で恋情を伝えてきた。あの時、彼がどんな表情をしていたのか、おれはどうしても思い出せない。たぶん、近くにありすぎる印象的な瞳にばかり気を取られていて、脳は今起きていることを処理するだけで精一杯で、何も記録できなくなっていたんだと思う。

 ──なんでだろうな。想い出すら他人事みたいだ。

 いつもの渋谷有利だったらもっと照れたり恥ずかしがったり、感情的になって話すはずなのに。

「ずっと好きだった奴に恋愛感情込みで好きだって言われたら、おれも好きだって言っちゃうしかないだろ。キスとかその先とかされちゃったらもう訳判んなくなって、何も考えられなくなっちゃうだろ」
「それで、あれよあれよと流されちゃった訳ね。というか坊ちゃんのお話聞いてると、おにーさん色々心配になってくるんですが……もちろん健全なお付き合いでゆっくりじっくり愛を育んでから、次の段階に進んだんですよね?」

 ヨザックからの確認に、短い沈黙。

「……あいつ、たぶん手出すの早いよな。さすが夜の帝王って感じ」
「えっとー、ちなみにいつ頃でした?」
「いつって、付き合い始めた日の夜?」

 さすがに、その日のうちに最後まではされなかったが。

「……隊長……」

 彼は頭でも抱え出しそうな声で呻いた。

「陛下相手にそれはまずいだろーが……陛下、すみません、ちょっとあいつぶん殴ってきてもいいですか?」と言いながら彼は既に立ち上がりかけている。

「よくないから座れよ、グリ江ちゃん」

 上体を起こして彼の服をむ。風呂場で盛大に水を被っていたせいか、何の装飾もない普通の服に変わっていた。今すぐ殴り込みに行かないと気が済まなそうな雰囲気でもないから、服を軽く引っ張っておけば止められるだろう。

「展開早すぎて嫌だったとかそういう話じゃないから。ただ、そのせいでヴォルフのこと考えてる余裕がなくなって、婚約者問題とかが有耶無耶になっちゃったって話だから」と言葉足らずだった部分を補足してから手を離す。

「全部有耶無耶にするのが狙いだったんじゃないですかねー」

 どかっと再び腰を下ろして、ベッドの端を沈ませたヨザックが投げ遣りな声で言う。

「それか、そもそも長続きしないと思ってたか」
「どういうこと?」
「どうせ一時的な関係だろうと悲観していて、婚約破棄までさせる必要を感じてなかったとか……」

 そこまで言っておれの表情が硬くなったことに気付いたのか、ヨザックは慌てて言い募る。

「あー、これはあくまでもオレの勝手な憶測ですからね。本当のところはウェラー卿に聞かないと判りませんよ」
「……聞いても正直に答えてくれない気がする」

 もしかしたら最初から何かがおかしくて、同じ想いのようですれ違っていて、心は重なっていなかったのかもしれない。

「止めるべきだったよな」と呟いた。
「本当にねぇ……坊ちゃんのこと大事に想うなら、一旦止まっといてほしかったですねー」
「そうじゃなくてさ。おれが止めればよかったんだ」

 否定も肯定もいらない、独り言。

「突然だったから、経験不足だったから止められなかった、なんて、ただのみっともない言い訳だよな」

 彼の想いを見失った今だからこそ、浮かれていて見えていなかったことが見えてくる。今だから解ってしまうこと。
 彼が、終わることを前提に始めたのだとしても、終わってしまうことがないようにと、予め問題を解決させておかなかったおれには、それを責める資格があるだろうか。彼が突然告白してきたのは、おれの態度で想いに気付いてしまったせいじゃないのか。思い出す。
 彼の何気ない一言だとか、ちょっとした表情や態度にも一喜一憂して、何日も引きずって落ち込むこともあって、それに気付いて問い質してくるのも結局彼で、恐る恐る数日前のことを聞いてみると、「そんなこと気にしてたんですか」と呆気にとられたような顔をしていたっけ。
 おれは思春期真っ只中の至って普通で健康な男子高校生だったのに、恋心を自覚してからは近くにいすぎる彼を意識してしまって抜くに抜けなくなって、彼の夢を見て夢精して目が覚めて、起こしにきた彼に見つかって、気まずさと羞恥で真っ赤になっているはずのおれに、彼が理解ある保護者の顔で新しい下着を渡してくる、なんてこともあった。付き合い始めてから、コンラッドがらしくないにやけ面で、「あれは役得でした」とか何とか言っていたが。だったら最初から少しはそういう顔を見せておけ!
 忘れておきたかったことまで思い出してしまった。
 とにかく彼とは距離が近すぎた。おはようからおやすみまで側にいる相手に、こっそり恋をするのは至難の業だ。たぶん、おれはこっそりなんてできてなかった。

「さすがにバレたかもって焦りながら、心のどっかで期待してた。何も気付いてないみたいな態度にホッとしながら、いい加減気付けよって焦れてたんだ。そりゃ、百年以上生きてきた恋愛経験豊富な大人なら、当然好かれてるって気付くよな」

 好きだと言われた時は驚きもあったけれど、それ以上にただ嬉しくて、自分に婚約者がいることを思い出しもしなかった。また自己嫌悪だ。

「あいつのことばっかり責められないよな。先に不誠実なことしたのはおれなんだから」

 それまで黙っておれの独白を聞いてくれていたヨザックは、不誠実という単語が引っ掛かったらしい。

「ええと、陛下?」と言い淀みながらも口を開く。
「不誠実というと……隊長と坊ちゃんがもめてるのは、あいつが弟から婚約者を略奪した挙句浮気したせいだとか、そういう話じゃないですよね?」
「ちがう、んじゃないかな」

 曖昧に答えて、そうなのかも、とも思う。

「コンラッドには聞かなかったの?」
「一応、昨日陛下がお休みになった後で聞いてみましたが、何も吐きませんでしたよ。お前には関係ない、だそうです。全く、強情なんだから」
「……そっか」
 
 短く返して膝を抱える。そうやって黙りこくっていた。ヨザックも何も言わなかった。
 この間の嵐が嘘のように思えるくらい、酷く静かな夜だっだ。耳をすませても風の音ひとつ聞こえない。

「判んなくなっちゃったんだよ」

 長い沈黙の後、ぽつりと零す。
 続く言葉は声には出さない。あの夜から何度も何度も考えたこと。
 コンラッドはおれを見ているのか、それとも彼女のものだった魂を見ているのか。
 おれが王様じゃなくても特別で、誰よりも大切な存在であることは変わらないと、いつだったかの寝物語に彼が言っていたことを思い出す。だったらもしもおれが、いずれ魔王になることが定められた魂を──彼女の魂を持って生まれてこなかったら? それでもあんたはおれのことを愛してくれた?
 もしもなんて考えても何の意味もない。答えは否に決まっている。

「自惚れてたんだ」と言う。
 吐き気のように次々とせり上がってくる言葉の奔流は、吐き出したって楽にはならない。

「おれがおれだから特別だった訳じゃないって、聞かされるのが怖いんだ。誰かに重ねられてたってことが嫌なんだ。コンラッドは何でもおれにくれたのに、十分すぎるくらいもらってるのに、たったそれだけのことが許せない。全部もらえないと嫌で、今さら手放せやしないから、どんな手を使ったってもらおうとするんだ。コンラッドは、おれが欲しがれば命だってくれるのに」
 彼が側にいてくれるだけでよかった。生きていてくれればそれだけでいいと、他には何も望まなかった時だってあるのに。
「欲張りだよな」
 自分の狡さも汚さも棚上げで、欲ばかりが大きくなっていく。
「おれらしくないよな。目のことだって……」

 役立たずの目を両の掌で覆って、隠れるように丸く、小さくなる。

「ほんと、何やってんだろ」

 情けない自分を嘲笑ってやりたかったけれど、歪んだ笑みすら作れそうになかった。膝頭に額を押し当てる。
 頭の上に乗ってきた大きな手が、ぽんぽんと数回叩いて離れていく。宥めるみたいな優しさに泣きたくなった。

「あのねぇ、坊ちゃん、恋なんてそんなもんなんですよ。坊ちゃんは思いっきり恋してるだけなんだから、ご自分のことばかり責めなくていいんです。例え坊ちゃんが底なしに欲深かったとしても、あいつなら丸ごと全部受け止められますって。ウェラー卿は畏れ多くも魔王陛下の愛を独り占めしてるんだから、それくらい軽々と受け止めてみせてもらわないと。受け止めるべき愛がいまいち見えてなさそうなとこが、あいつの問題なんだけど」
「……でもさ、王様が全力で恋してちゃ駄目なんじゃねーの? おれなんかただでさえ未熟な王様なのに、今回のことでたくさん迷惑かけてる」
「皆、心配してるだけですよ。迷惑だなんて思ってる奴いません。
 それに、オレたちは知ってますから。陛下は逃げっぱなしで終われるようなお方じゃない。自分にも非はあっただとか、お互い様だから仕方ないだとか、そうやって無理やり納得させて怖いものから逃げ出してしまっても、もう一度ぶつかっていける強さを持ってるって。 
 自分らしくないと思うなら、そろそろいつもの陛下に戻ってみませんか? あいつの考えていることを勝手に決め付けて見限ったりしないで、もう一度、落ち着いて言い分を聞いてやってくれませんか?」

 おれは、あの夜からずっと逃げていたのかな、と自問する。
 怖がって、向き合うことから逃げ続けて、いつの間にか過剰に卑屈になっていなかったか。
 彼はおれのことを強いと言うけれど、まだ、頷いてみせるだけの強さも取り戻すことができない。代わりに素直じゃない言葉を吐いた。

「グリ江ちゃん、なんだかんだ言って幼なじみの味方なんだ」
「ちがいますって。オレは陛下の味方です。陛下のことが大好きだから、誰よりも幸せでいてもらいたいだけです。オレは、陛下が陛下でい続けるためにも、ウェラー卿が側にいるべきだと思ってるんで」
「……そうなのかな」
「だいたい、あいつと拗れたままでいたら、治るものだって治りませんよ?」

 びくりと身体が反応する。彼は、おれの目のことを言っている。見えなくなった原因に勘付いているのだ。

「たぶん、半分くらいはウェラー卿のせいですよね?」と聞いてくるのに、答えを迷って質問で返す。

「なんでそう思うの?」
「なんとなく、と言いますか……医者が診ても判らなくて、魔術での治療も効かない、怪我でも病気でもないってことは、心の問題なんじゃないかなー、と。まあ、耳が聴こえなくなったり味を感じなくなったりするのとは違って、目が見えなくなる事例は聞いたことがありませんが……昨日の夜の坊ちゃんは、絶対に言ってはいけないことをウェラー卿に言っちゃったみたいなんで。そんなことを言ってしまうほどの何かが、あいつとの間にあったんでしょ?」

 何も、言えなかった。
 ヨザックは構わず語りかけ続ける。

「詳しいことはオレには判りませんし、聞きません。ウェラー卿と話してくれればそれでいいんです。
 でもね、陛下、ひとつだけ言ってもいいでしょうか?」

 優しいだけだった声に窘めるような響きが混ざったことに気付いて、おれはゆっくりと顔を上げた。視界は相変わらず黒く塗り潰されている。

「その場の勢いで、全然本心じゃなかったとしても、自分が死んでも構わないんだろう、なんて言っちゃ駄目ですよ。あなたが命を落とすことなんて、コンラッドが望んでるはずないんだから。あいつだけじゃない、オレも、うちの閣下やヴォルフラム閣下も、誰も望んでないってことは、勿論ちゃんと解ってますよね?」
「……うん……ごめん」
「仲直りできたら隊長に言ってやってください。あからさまに様子がおかしくなるくらい、引きずっちゃってると思うんで」

 コンラッドが変なのはおれのせいか。
 そうだよな、と思う。卑屈さで事実を歪めてしまわなければ解ったことだ。理由が何であれ、コンラッドはおれを大切に想ってくれている。


 一人になりたかったから、そろそろ眠れそうだと嘘をついた。布団を被って目を瞑る。暫くすると、ヨザックが静かに部屋を出ていく音が聞こえた。おれの狸寝入りが彼に通用するとも思えないから、察して騙されてくれたんだろう。
 誰もいなくなった部屋の中で、ベッドの上で仰向けになって、何も見えない天井を見上げて考える。
 消えてなくなりたい訳じゃない。野球小僧のおれよりも彼女の方が望まれていて、素晴らしい王様としての資質を持っていたとしても。
 目が見えなくなっただけで彼女にはなれないし、彼女になってしまうつもりもない。おれは、おれのままでいたい。答えはとっくに出ているじゃないか。
 もういい、早く治ってしまえと強く想う。おれはやっぱりヨザックが言うほど強くはなくて、見えないままコンラッドと向き合うのは怖かった。
 視力さえ元に戻ってくれれば、彼にぶつかりに行く勇気を持つことができる。見たくないものが見えてしまうからと視界を塞いで逃げ出したりしないで、もう一度彼の気持ちを聞きたいと思った。



2022.7.29

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