最愛を取り戻す
ラウロに急かされ、ジョットは坂道を下りながら考えた。自分に会いに来ているという美人は誰なのだろう。いくら記憶をひっくり返しても、そんな人に心当たりはない。やはり、近隣の街の誰かが、ジョットをからかいに来ただけではないだろうか。とっくに姿を消して、美人につられてノコノコやって来た姿を笑おうと待っているに違いない。

「やっぱり、俺……」
「お前が来ないと、俺が親父にどやされるんだよ」
「う……でも、そんな人に思い当りはないし」

ぐちぐちと言い訳を並べ立てながら、ジョットは通りを右に曲がった。角を曲がれば、家の前の道が見渡せる。きっとそんな人はいないだろうと、恐る恐る家の前を見た。
予想に反して、そこには鍔広の麦わら帽子を被った女性がいた。おばさんと話しており、こちらに背を向けているので顔は判らない。帽子に付けられた琥珀色のリボンと羽飾りが、ひらひらと風に揺れている。糊の利いた白いシャツに、柳腰を強調する黒いベスト、鮮烈な赤色のスカート。どれも新品のように艶やかで、擦り切れたところなど見当たらない。素材はそれほど高いものではなさそうだから、裕福な農家の娘といったところか。

やはり思い当る人はいないと思っていると、ジュゼッパおばさんがジョットに気付いて笑い声を上げる。ほら来たよと言わんばかりに、その手がジョットを指差した。女性が振り返り、――その顔を見て、ジョットは愕然とした。彼女の顔は、幾度となく夢で見た女性にそっくりだった。
大きなアンバーの瞳、すっと通った鼻梁。高い頬骨には知性を、小さな唇には上品な色香を湛えた美貌。今朝の夢が思い出され、ジョットは顔をくしゃくしゃにした。――時が来たのです。貴方は彼女と会えるでしょう――今度は、現実の世界で。

「クレア!」

回り逢えた僥倖に視界が潤み、たまらず喉がひりつくほど大きく叫ぶ。彼女がうんと大きく頷いたのを見て、ジョットは駆けだした。彼女もまた、堪え切れずに走り出した。振り落とされた帽子が風に舞い、豊かな黒髪がひらりと翻る。躊躇いなく胸に飛び込んできた彼女を、両腕でしっかりと抱き止めて。ジョットは彼女が幻でないことを確かめた。
身長差も、体格も、ジョットより一回りも二回りも小さくて。確かに成長しているのに、何も変わっていなかった。一度は失い、たえず焦がれ続けたものが今、確かに腕の中にある。

「……っ、おかえり、クレア」

彼女の肩口に押し付け、嗚咽交じりにそう囁いた。そっと背中を撫でてくれる手が、温かくて。優しくて、哀しい。

「ただいま、ジョット。やっと、貴方に会えた」

記憶よりも遥かに女性的で大人びた声が、歌うように軽やかに、喜びに弾む。けれど、これきりの別れを告げているみたいではないか。ほの暗い不安を掻き消したくて、ジョットは妹の細い体を一層強く掻き抱いた。苦しげに息を呑む気配がしたが、彼女は拒もうとはしなかった。

「大丈夫、私はもう何処へも行かないわ。ずっと傍に居るから、泣かないで、優しい人」

ジョットのための、慈愛に満ちた囁き。その声にも、涙の気配が滲んでいる。思わず笑いそうになって、ジョットはぐりぐりと額を推しつけた。そうすれば、くすぐったがった妹が笑うから。ジョットは彼女の軽やかな笑声に隠れて、くすくすと喉の奥で笑った。



物語に聞くよりも情熱的な、感動の再会。拍手するべきか、そっと静観するべきか。忘れ去られた観客は、めいめいに次の動きを待っている。ジュゼッパおばさんとパン屋の大将は、やんやと囃し立てたくてうずうずしている。ラウロはチャンスがなさそうだと分かったみたいで、ガッカリしている。
そんな様子を横目に見ながら、Gは葉巻に火を付けた。口から出そうになる言葉の嵐を、煙と共に胸の奥まで吸い込む。俯き、葉巻を持った手に額を押しつける。こめかみに浮かんだ青筋の鼓動が、握り締めた手に伝わってきた。

「ちくしょうが」

我慢しているのがバカらしくなり、Gは顔を上げた。半分ほど無駄に焼いてしまった葉巻を側溝に投げ捨て、未だ離れぬ二人に近付く。

「いい加減離れろ!このバカども、俺のこと忘れてんじゃねーよ!」

二人の肩を掴んで強引に引っぺがすと、きょとんとした顔が二つ、Gに向けられる。おおかた、ジョットはGが付いてきたことを忘れていたのだろう。彼とクレアの関係についてはおいおい聞くとして、問題はクレアだ。他ならぬ彼女がGをこの街に放り込んだというのに、なぜ気抜けた顔なのか。

「おい、なんだその顔。まさか俺のこと忘れてたとか言わねぇだろうな」
「いいえ、ちゃんと覚えているわ。名前はええと……」
「Gだよ、忘れんじゃねぇ!」

すっとぼけたふりをしながら、クレアは今の彼の名前を聞いた。よもやグリエルモと呼ぶわけにもいくまいと視線で訴えれば、察しの良い彼は怒ったまま自然に名乗った。

「そうそう、G。久しぶりね、元気そうで何よりだわ」
「ケッ、十年もほったらかしでよく言うぜ」
「放ってなんかないわ。ちゃんと勉強するための本は送ったでしょう」
「やっぱりお前かよ」

Gが住み始めてから、クッファ家には本が届くようになった。半年に一度、まるで書斎の本棚を刷新するかのように。ジャンルは実に様々で、経済や工学に重きを置きながら三文小説も混じっているといった具合だ。しかも全て原書らしく、使われている言語もバラバラだった。独語や仏語、英語、古代希語、ラテン語――。自国の言葉さえ読み書きできない農民の街に届くには、いささか高度すぎる贈り物だ。自分に充てられたものだと、Gはすぐに気付いた。そして、送り主がクレア以外に有り得ないことにも。

「……?G、クレアと知り合いなのか?」
「まあ、此処に来る前にな。ジョットこそ、なんで知ってんだ」
「知ってて当り前さ、妹なんだから。なあ」
「ええ。でも、詳しい話は後にした方が良さそうね」

仕事があるのでしょうと言われれば、二人は黙るしかない。それに、ジョットもGもすっかり失念していたが、ロヴェッロがいない。クレアがジョットの妹ならば、彼にとっても妹ということになる。ならば、兄が二人揃わないうちに話をするわけにもいかない。

「家で待っているわ。みんなが帰ってきたら、お話しましょうね」
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