二つ目の変化
坂道を下りて曲がり、ジョットは教会からうんと離れたところで足を止めた。ぜいぜいと肩で息を切らし、呑気に煙草を吹かすGを振り返る。

「なんで喧嘩を吹っ掛けたんだよ、G!相手は修道士様だぞ?」
「癪に障ったんだよ。仕方ねぇだろ」
「仕方なくない!街の女性達は教会からお仕事をもらってるんだ、機嫌を損ねるのはまずいんだよ」

エリチェは山頂の城砦都市であり、農業も酪農も行われていない。かなり険しい山なので、畑を作ることも、放牧も困難だからだ。陶器が主な産業だが、胸を張れるほどではないし、収入もあまり見込めない。街の経済を支えているのは、狭い街にひしめく教会群と、山の下の農村だ。
教会が日々執り行う祭祀は、人手にしろ物にしろ入用だ。街の人達はそうしたものを賄う代わりに、僅かばかりの金銭を得る。とくに、農閑期まで夫の留守を守る女たちにとっては、教会からもらう内職は大事な収入源だ。そのため、女性達は教会との繋がりをとても大切にしている。

「……あの野郎、余所者の誼と言っただろ」
「ああ。それが?」
「なんでわかったんだ?あいつはイギリス人だ、訛りで出身がわかるか?」

Gのフィレンツェ訛りは標準的な発音であり、外国人の耳には一番なじみ深い。だから、Gがフィレンツェ出身の余所者だということはすぐにわかる。しかし、ジョットのナポリ訛りと、シチリア訛りの違いが分かるだろうか。彼はシチリアに来たのは今日だと言った。ならば、シチリア訛りに耳が慣れているとは思えない。

「キナ臭いぜ、あいつ。アンナローロと関わりがあるかもしれねぇな」

ジョットはぎくりとして、慌てて周囲を窺った。幸い、通りに人影はなく、野犬が暇そうに欠伸をしているだけだ。近頃とみに現れる、ガラの悪い者に聞かれずに済んだ。ジョットはほっと胸を撫でおろし、穏やかさを失いつつある街を思って項垂れた。
無頼漢どもは何も、わざわざ山の上まで物見遊山に来るわけではない。ブランド・アンナローロという男の命令で、一味の権勢を示すために来たのだ。

アンナローロ一味はトラパニで最も勢力の大きい凶賊で、金になるなら何でもする悪党だ。誘拐に強盗、脅迫、殺人。彼らはありとあらゆる悪事に手を染めているが、トラパニで罪人となることはない。領地の管理を任されている農地管理人が頭領だからだ。アンナローロは貴族に巧みに取り入り、領内の煩雑な手続きを一手に引き受ける代わり、領内における権利一切を得た。憲兵隊と警備隊も今や、彼らの思いのままだ。子飼いの悪党が断罪されるはずがない。そもそも捕縛すらされないので、無罪放免やりたい放題のありさまだ。
最近では、警備隊や裁判官の方が悪党を真似るありさまだという。不当な罪で農民を捕縛し、減刑をちらつかせて賄賂を要求するらしい。Gは、ナックルもそういった連中と同じなのではないかと言いたいのだ。アンナローロ一味に与し、その悪事を手助けするために街に入り込んだのではないかと。

「ナックルは修道士だ、G。悪党と手を組むはずがない」
「どうだかな。警察、裁判官、市長。次は何だ?まったく、どいつもこいつも腐ってやがる。吐き気がするぜ」

苛立たしげに煉瓦の破片を蹴り、Gは悪態をついた。悪党の手先が街に来るようになった以上、地獄の火を裾野のことと静観してはいられない。火の粉を被る前に、荷物を纏めて逃げた方がいいかもしれない。何処へ行ったとて、その地の悪党に虐げられるだけだとしても。Gが苛立つのも仕方がない。唯一残された安息の地が無頼の輩に荒らされようとしているのに、ただ指を咥えて見ていることしかできないのだから。

「たとえそうだったとしても、俺達には何もできないだろう。大人しくしていよう、そうすればきっと」
「きっと、誰かが助けてくれるってか?」
「違う。きっと、怖い者は去る。嵐がいつまでも居座っていないように」
「……」

Gはしばらくジョットを見つめ、溜息をついた。彼は優しすぎる。そして、あまりにも臆病と楽観がすぎる。

「そうだ。嵐は去るものだ」
「ああ、だから……」
「それで、晴れた空の向こうから、次の嵐が来るんだよ」

ジョットの額を小突いてそう告げ、Gは店の方へ歩き出した。坂道を歩いていると、誰かが前からやってくる。おーい、おーいと呼びかけながら手を振るその人は、二人の前に来ると足を止めた。
近所に住むパン屋の倅だ。名前はラウロ、歳はジョットより一つか二つ下だったか。彼はGを見ると少し笑顔を強張らせ、ジョットの方に近寄った。

「ジョット、あれ誰なんだよ」

赤毛は太陽か竈の火で焼け気味で、煤けた頬は鼠みたいにやせ細っている。口を開けると、不揃いな歯がシチリアの山々のように連なっているのが見えた。

「あれって?」
「お前の家に来てる女の子だよ。会ってないのか?すごい美人だぞ」
「知らないけど……どこから来た人?名前は?」
「さあ。でも、ホントに来てるんだよ。マルサーラのサレッタより綺麗な子がさ」

サレッタという名前に、ジョットは思わず目を伏せた。マルサーラのワイン農家の娘で、トラパニで一番の美人と名高い人だ。溌剌としてきかん気の強い女の子で、ロヴェッロを好いているらしい。気の弱いジョットのことは鼻にもかけず、あからさまに冷淡な態度を取る。
おかげで、マルサーラの娘達はジョットを弟にも劣る兄として笑いものにする。男達もそれに便乗し、ジョットを見下している。サレッタに相手にされなかった点では同じだというのに。

「そんな子が来てたとしても、俺には関係ない。ロヴェッロかGに用が在るんだろうさ」
「それが違うんだよ。ジュゼッパおばさんが訊かれたらしいんだ、この家にジョットって人が住んでるでしょうって」

ジュゼッパおばさんは、クッファ家の隣で工芸工房を営むペッピヌッツ家の奥方だ。五十歳を過ぎてなお壮健で、まるまると膨らんだ体でじつによく動き回る。噂好きだが人を貶めることは嫌いで、楽しい話が大好きな人だ。おおかた、軒先で待つその人を見て声をかけたに違いない。

「俺はおばさんに頼まれて、お前を探しに来たんだぞ。疑うなら来いよ」
「でも、仕事があるし」
「仕事なんか後でどうとでもなるだろ。なあ、行こうぜ」

ブラウンの瞳が好奇心と、ちょっとした下心で輝いている。大方、ジョットやGを使って、点を得ようという腹積もりだろう。サレッタ以上の美人なら、そんな弱腰では全く相手にされないだろうに。

「わかった、行くよ。Gはどうする?」
「俺も行く」

ジョットが声をかけると、Gは煙草の先端をカットして胸ポケットに戻した。カットされた部分はまだ火が燻っており、靴裏で踏み潰して火を消す。その脳裏には、十年前に出会った少女の顔がちらついた。最後に見た時のまま、彼女は美しくも謎めいた微笑みを湛え、大人のように微笑んでいた。
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