昔に還る
仕事に戻るように促され、ジョットはしぶしぶフランコの店に戻った。本当は、Gとどういった関係なのかあの場で質したかった。なによりも、匪賊に攫われてから今まで、どこでどうしていたのか知りたかった。しかし、彼女はすぐに説明せず、仕事が終わってからだと言った。何事もなかったみたいに仕事しているGを見やり、ジョットは溜息をついた。気になることが多すぎて、ぜんぜん仕事に身が入らない。

「おーい、ジョット。すまんが、ヴァルデーリチェまで買い付けに行ってくれないか」
「えっ、それはちょっと……」

ヴァルデーリチェは山裾の街だが、トラパニと違って大きい道で繋がっていない。山道はあるが、最近はよく盗人が出るらしい。トラパニ経由で山沿いに行けば安全だが、そんなことをしていたら夜が更けてしまう。ただでさえ待ち遠しいのに、これ以上待たされるのは我慢がならない。

「すまない、妹が待ってるんで今日は行けない。明日ではダメか?」
「妹?妹なんていたのか?」
「えっと……」
「帰って来たんだよ。パレルモのお屋敷で働いてたんだけど、主人が死んじまったんだと」

言葉に詰まったジョットに気付き、Gは適当にそれっぽい話をでっち上げた。嘘を嘘と思われないように吐くのは、ジョットよりもGの方が遥かに上手だ。

「それじゃあ、久々の家族水入らずか。仕方ない、買い付けは私が行ってくるよ」

人のいいフランコはあっさり騙され、妻に事情を説明しに奥へ引っ込んだ。ジョットは胸を撫でおろしながら、Gを振り返った。

「G、嘘は良くないぞ」
「嘘も方便だ。今夜は外せないだろ」
「まあ、そうだが……やっぱり、嘘なのか」
「おう。俺もあいつも、お屋敷の使用人って感じじゃねーだろ」

Gはいつも直感だけで真贋を見抜くジョットの、それ以外はからっきしの頭を指弾した。ビシッと痛い音が響き、仰け反って倒れた彼を見下ろして笑う。

「ホントのことを知りたけりゃ、さっさと手ェ動かせ。仕事が終われば帰れるんだからよ」



暗くなった帰り路を、ロヴェッロは小走りに駆けた。マルサーラでの用事を片付け、バールに戻るとパン屋の倅が待っていた。彼が言うには、妹が来ているらしい。妹など、とうの昔に死んだというのに。どこで妹のことを聞きつけたか知らないが、不愉快この上ない。しかし、怒って否定すると、ジョットは確かに認めたと言い募る。頼りないのは根性だけかと思っていたが、まさか頭までとは。

「チッ、あのボケ。妄想と現実の区別もつかねぇのか」

ジョットはよく、妹の夢を見ると言う。それも、幼い姿ではなく、成長した姿を夢に見るのだという。どう考えても頭がおかしくなったとしか思えない。妄想にしたって気持ちが悪い。その末がこれだ。幻覚を見はじめて、現実の女性を妹と勘違いするようになった。
せめて道行く女性が被害に遭わないよう、病院に放り込んだほうがいいかもしれない。

治療など何一つ行われることない、病院とは名ばかりの、刑務所と同じくらい劣悪な施設だとしても。そこに居れば、少なくとも絞首刑を科せられることはない。怒髪天を突かんばかりの怒りに任せて、ロヴェッロは玄関扉を蹴破ろうとした。しかし、五感が異変を察知して、持ち上げた足を止める。

まず違和感を覚えたのが、一階が煌々と明るいことだ。夕食はめいめい仕事帰りに食べるから、そこに明かりを付けるはずがない。一階には、台所と食卓と、母の――使う人のいなくなった部屋しかないのだから。次に気付いたのは、温かい食事の匂いだ。焼けたチーズとバジリコの匂いは、肉汁たっぷりのトルテッリと焼いたカッルーバ豆を想像させる。

リコッタチーズとラードの蕩ける匂いは、スフォリアテッラだろうか。ピスタッキオが入ったそれは、母だけが知るレシピだったはずだ。極めつけは、扉の向こうから聞こえてくる談笑だ。浮かれきったジョットとGの声が、台所に居る女性に呼びかけている。応える女性の声はとても大人びていて、少し早口なのに歌っているように聞こえる。ラテン語やフランス語に似ているのか、高貴なニュアンスが感じられる話し方だ。考えるより早く、ロヴェッロは扉を勢いよく開けた。談笑がふっと絶えて、すぐに再開された。

「ロヴェッロ。遅かったな」
「いつもよりはだいぶ早いぞ。おかげで飯が食えそうだ」

ワインでも入っているのか、やいやいと騒ぐ男共をよそに、ロヴェッロは台所に視線を向けた。竈の前で鍋を混ぜている女性の後ろ姿が、真っ先に視界に入った。きれいに纏めた黒髪と、蒸気で赤らんだ頬。白いシャツと黒い胴着、赤いスカート。母が使っていた黒いエプロンは、彼女には少し大きかったようだ。

「おかえりなさい、ロヴェッロ」

肩越しに振りむいた顔は柔らかく微笑んでいて、その笑い方は昔と全然変わらないままだった。意地悪されて泣く癖に、泣きやんだら性懲りもなく寄って来たあの頃と、少しも変わらない。幸せそうなのに、目じりに涙が浮かんでいる。泣き虫なところさえ、変わっていないのか。言葉も無く抱き締めても、彼女は相も変わらず小さい妹のままだった。

「バカが。今まで、どこをほっつき歩いていた」

どうにか絞り出した言葉は、やはり素っ気なく響いた。ジョットなら、もっと優しい言葉を投げかけただろうに。

「心配掛けてごめんね。ただいま、ロヴェッロ」
「……ああ」

名残惜しく思いながらも、ロヴェッロはすいと身を離した。そして、出来上がっている馬鹿二人と向かい合う形で食卓に着いた。母が死んで以来、花を飾るスペースになっていた隣席の花瓶を脇へ退ける。それから、ジョットからボトルを奪い、エティケッタを確認した。かなり良いワインだ。トスカーナ地方のものらしく、ワイナリーの綴りがシチリアのそれと異なっている。
布巾の上に逆さに置かれていた未使用のグラスから一つ取り、試しに飲んでみる。酸味と甘みの絶妙なバランスに、ロヴェッロは思わず舌鼓を打った。

「いいワインだろ。再会の祝いに、クレアが持ってきたんだ」
「なるほどな。確かに、いいワインだ」

目を眇め、ロヴェッロは空になったグラスを睨んだ。すると、勘違いしたジョットがダバダバとワインを注ぎ入れてくれる。空になったことを残念がって睨んでいたのではないのに。

「もう、みんな先に呑みはじめて!食事が入らなくなったらどうするの」

トルテッリの大皿を手に、クレアは早くも二本空いた瓶をねめつけた。しかし、男三人は咎められても全く意に介さず、どんと座ったままだ。

「大丈夫大丈夫、ワインは別腹だから」
「育ち盛りの胃袋なめんなよ、全部平らげてやるぜ」
「早く持ってこい、腹減った」

大皿をテーブルに置き、クレアは額に手を当てて天を仰いだ。祈りの前に抓もうとする手を叩き落とし、母の苦労を思い知る。

「しょうのない人達ね、すっかりシチリアーノなんだから!」
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -