扉を叩く
ジョット達を見送り、ナックルは教会の中を振り返った。そこには、男性修道院に在るべきでない人――修道服に身を包んだ尼僧がいた。クレアのお目付け役、レナータだ。彼女はナックルに幕開けを告げるため、クレアより半日ばかり先んじて街に入っている。

「今日付けで……か」

ナックルは一つ、嘘をついた。今日付けで配属されたと言ったことだ。本当は、この教区に配属されたのは一か月前であり、隣の修道院に入ったのは七日前だ。七日間、ナックルは街の誰とも接することなく、クレアの到着を待っていた。同じ日にジョットと接触しようと、彼女と約束していたからだ。そうすることで、暗に関係者であることを示唆したかったのだ。今ではない、計画が進んだ先の未来のジョットが気付くように。

「彼が、例の人物なのだな?」
「はい。ドンナ・ペーポリの兄にしてクッファ家のジョット、彼こそがトゥリニセッテの一画を担う者です」
「ふむ、……」

ジョットが姿を消した路地を見やり、ナックルは鼻を鳴らした。その態度には、明らかに落胆の色がにじみ出ていた。

「クレアから聞いていた人物像とはかなり違うな。始終びくびくしていて、人の顔色を窺ってばかりだ」

クレアはよく、ジョットを不羈の人だと言っていた。堂々としているが、決して傲慢ではなく。物腰は穏やかで、猛々しくはないが勇敢で。優しいけれども気弱ではなく、決して悪に阿ることのない人だと。しかし、実際に会った彼はひどく臆病で、勇敢さなど欠片も見られなかった。悪に敢然と立ち向かう姿より、鞭打たれても唯々諾々と従う姿の方が想像できる。

「あれでは、世界の一角を担えまい」
「記憶がないから、そう見えるのでしょう」

転生前の出来事を思い返し、レナータはそう答えた。あの時、運命を掴んだのは、クレアではなくジョットだった。それが全ての要素を裏付けている。

「魂の織りなす性情に変わりはありません。お疑いならば、早くに覚醒させればよろしいかと」
「ああ。そのために此処に来たのだからな」

扉を閉め、ナックルは教会の壁に掲げられた十字架を見上げた。胸の前で十字を切り、祈った。どうか、彼らに課せられた試練が、少しでも苦しみの少ないものとなるように、と。



石積みの門を越えて街に入ると、そこは鶏さえも眠っているかのように静かだった。朝の支度をしている気配はするが、トラパニのような活気はない。おそらく、商業活動がほとんどないためだろう。教会がなければとっくに廃墟になっていたに違いない。

「でも、思ったより良いところだわ」

感慨深いものを感じながら、クレアは周囲を見渡して嘆息した。古代ギリシア時代から存在するこの街には、フィレンツェやナポリとは違った趣がある。街をぐるりと取り囲む石壁、複雑に入り組んだ道に雑然と並ぶ小さな家々。赤土を使った煉瓦は、灰色の壁の上で明るく晴れ晴れとして見える。
路地に敷かれた石の織りなす模様に同じものは一つとしてなく、訪れる者があれば、さぞその目を楽しませるに違いない。崖の上に立つノルマン城の遺構も、大聖堂と傾いた鐘楼も。全て千里眼で見たままの姿で目の前にある。街をくるりと一回りして、クレアはいよいよジョット達の住む家に向かった。

サン・ジュリアーノ教会の前を通り、ジャン・フィリッポ・グアルノッティ通りを抜ける。サン・カルロ教会の少し手前、マントヴァーニ通りとの三叉路の角に陶器を売る店がある。ジョットとロヴェッロとGが、その店の隣に住んでいる。霧を吸ってくすんだ漆喰と、アーモンドの花を描いた玄関扉。玄関先の階段には、バジリコやパセリの小さな鉢が置かれていた。

ジョット達の暮らしぶりは、千里眼で見ていたから知っている。ジョットとGは朝一番に家を出るが、ロヴェッロは少し遅れてから働きに出るはずだ。クレアは旅行鞄を階段に置き、鍔広の帽子が曲がっていないか、髪型が崩れていないか確かめた。それから、気の早い鼓動を宥めようと深呼吸し、意を決して扉を叩いた。
ロヴェッロが応対に出てくるはずだ。生き別れの妹が会いに来たら、彼はどんな顔をするだろうか。ありえない僥倖を泣いて喜ぶだろうか。それとも、幽霊と勘違いして気絶するだろうか。不安半分、期待半分。クレアはわくわくしながら扉が開く時を待った。
しかし、予想に反して、ロヴェッロは出てこない。面倒くさがって無視しているのだろうか。ロヴェッロなら有り得る。怒られるのを覚悟で、クレアはもっと強く扉を叩いてみた。やはり、応対に出てこない。もしかすると、急な用事で出ているのかもしれない。胸一杯に膨らんでいた期待がしおしおと萎んでしまい、クレアはため息をついた。

「その家に何か用かい、お嬢ちゃん」

隣家から声をかけられ、クレアは陶器店に向き直った。店先に初老と思しき女性が座っており、朗らかに笑いながら手招きしている。クレアは旅行鞄を持ち、彼女の傍に行った。少しでも離れたら最後、あっという間に荷物が消えることはナポリで身を持って学んでいた。

「こんにちは。ここは良いところね」
「そうでしょうとも。ここはシチリアでいちばん神様の加護が厚い街だから」

女性は好奇心と親切心が混じった目で、クレアの全身を眺め渡した。艶々した黒髪に太陽を知らぬ白い肌、すっきり通った鼻筋に花弁のような唇。両目はぱっちりとして大きく、アンバーの瞳は聡明で思慮深い。まずこんな田舎町では一生かかっても御目にかかれない美人だ。家の前を通り過ぎた時は、びっくりして思わず窓に駆け寄ってしまったくらいだ。その足が隣家の前で止まったのを見たら、どうして店先に出ずにいられようか。

「この家に、ジョットっていう人が住んでいるでしょう?」
「そうよ。嬢ちゃん、もしかしてあの子の良い人かい」

頷きたい衝動にかられつつ、クレアは首を横に振った。行きずりの人ならまだしも、隣家の人に人間関係がややこしくなる嘘は付けない。

「私はクレア、ジョットとロヴェッロの妹よ。奉公先で少し長い休みを頂いたから、家族に会いに来たの」
「妹なんて居たのかい。初めて聞いたよ、マリアンナはそんなこと……」

マリアンナも娘がいたなんて、言わなかった。今わの際にも――。そう言いかけて、陶器店の女性は口をつぐんだ。クレアが母の死を知らない可能性に気付いたのだろう。もっとも、クレアは千里眼で見ていたから、知っている。一年前、母が熱病に掛かって死んだことも。今わの際に父の名を呼んだことも、ささやかな葬儀が執り行われた日のことも。

「でも、どうしましょう。びっくりさせたくて、内緒で来てしまったのだけれど、留守みたいなの」
「三人とももう家を出たからね。留守だと思うよ」

普段ならば、ロヴェッロが家に居る時分だ。彼はバールで働いているので、あまり朝は早くない。しかし、今朝は珍しく、彼も早くに家を出た。噂のサレッタ嬢と会う約束でもしていたのだろうか。その辺は後で噂になって耳に入るだろう。ともかく、妹だという旅装の麗人に救いの手を差し伸べてあげなければいけない。下手をすると、彼女は日暮れまで待ちぼうけになる。陶器店の女性はえいやと掛け声を付けて、勢いよく立ち上がった。

「ちょっと待っておいで、呼んできてあげるよ」

そう言って、同じ路地の少し先にあるパン屋に歩いて行った。そこの倅に頼めば、ジョットなりロヴェッロなりを呼んで来るだろう。
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