一つ目の変化
幻想的な夢を見た朝であろうと、庶民の一日は情緒などとは程遠い現実――労働に始まり労働に終わる。

「お、重い……なんだってこんなに重いんだ」
「こっちも結構重いぞ」

ジョットはブリキ缶を、Gは小麦の袋を抱えながら、延々と続く坂道を上った。目指すは坂の上の教会だが、道のりはまだ遠い。エリチェは山の頂上に位置する街で、特筆すべき産業は何もない。教会がたくさんと、食べ物や日用品の流通を担う小売店が少しだけだ。
ジョット達は、その数少ない小売店の一つ、フランコの店で働いている。主な仕事は、山の下の卸売から店へ、店から客へと商品を運ぶことだ。ただの配達といっても、どこへ行くにも坂道ばかりの街なので決して楽ではない。どうにか目的の教会に辿りつき、ジョットは荷物を置いて玄関脇の紐を引っ張った。

いくらも待たずに、顔なじみの修道士が現れる――筈だった。しかし、扉を開けてくれた修道士は、ジョット達の知らない人だった。黒髪を短く刈り込んだ青年で、黒い修道服に身を包んでいる。面差しはどこか野性的で、野生の獣を思わせるしなやかさを感じさせる。初対面だからか、思わずじっと互いを凝視してしまう。ハッと我にかえって、ジョットはおずおずとブリキ缶を差し出した。

「えっと、あの、配達に来たんだが……」
「ああ、フランコの店の者か!話は聞いているぞ!」

耳鳴りがしそうなほどの大音声に、ジョットは思わず首を竦めた。大きな声は苦手だ。怒鳴られたと勘違いして、体が勝手に萎縮するから。大きな声で話す人も、苦手だ。単に地声が大きいだけでも、本能に刻まれた恐怖はそうそう簡単に拭えない。

「チッ、朝っぱらからデケー声出すんじゃねぇよ。見ねぇ顔だが、新入りか?」

ジョットの怯えに気付き、Gはずいと前に出た。低血圧の頭を不愉快な大音声で覚醒させてくれた礼として、舌打ちで口火を切る。

「ああ。今日付けでこの教会に赴任した、ナックルだ」
「ハッ、イギリスからこんな僻地まで、ご苦労なこった。何をやらかして飛ばされたんだ?」

煙草に火を付けながら、Gは悪態をついた。ジョットの顔から血の気が引きつつあるが、知らん顔で煙を吹かす。イングランド国教会に属す英国人が、なぜローマ・カトリックの教会に来るのか。きな臭いものを警戒するのは当然だろう。この街は今、少し前まで在った平穏を失いつつあるのだから。

「飛ばされてはいないぞ。自分でここを選んだんだ」
「こんな辺鄙な街を?」
「ああ。修行にぴったりの街に赴任させてくれと言ったら、ここを勧められてな」
「確かに、修行できそうだけど……」

どこへ行くにも坂道を上り下りしなければならない街だ、何もしなくても体力と筋力は付く。わりと険しい山なので、都会の教会よりは修行しやすそうだ。しかし、どう考えても中央から遠ざけられただけな気がする。本人は嬉しそうだが、絶対に騙されている。

「ケッ、めでてぇ脳みそだな」
「はは、褒めても何も出んぞ」
「よーし判った、テメェの頭には大鋸屑が詰まってンだな。荷物を受け取るくらいの知能はあってくれよ」

商品を持ったまま話すのが苦痛になって来たので、Gは小麦袋を投げ渡した。すると、ナックルは小揺るぎもせず受け取り、軽々と肩に担ぎ上げた。さらに、ジョットから受け取ったブリキ缶を、平然と小脇に抱え上げる。修道士の仕事は祈ることであって、肉体労働ではないはずなのに。

「お、重くないのか?」
「この程度の重さでは修行の負荷にもならんぞ。究極に軽い軽い」
「そう、か……そうならいいんだが」

ナックルは軽いと言うが、どちらも決して軽くはない。いったいどんな負荷をかけて修行しているのか、想像するだに恐ろしい。

「じきに礼拝の時間だ。もう少し話したかったが、それは次の機会にしよう」

壁に掛けられた時計を見やり、ナックルは名残惜しげにそう言った。彼の大声に困り切っていたジョットは、こっそり安堵のため息をついた。

「余所者の誼だ、何か困った事があれば相談してくれ、必ず力になろう」
「あ、ありがとうございます……?」
「はは。今日も一日、主がお前達と共に在りますように」

両手が塞がっているので、ナックルは瞑目して祈りの言葉を唱えた。ジョットは慌てて胸元で十字を切って祈ったが、Gは鼻で笑って祈らなかった。

「信心のない者は関心せんぞ。神への祈り方を知らんのなら、教えよう」
「うるっせーな、宗教バカが。こちとらノンキに祈ってるほど暇じゃねーんだよ」

別にGとて信心がないわけではない。母と暮らしていた時は、毎週日曜日には教会に行って、祈りを捧げていた。しかし、世の辛酸を舐めてからは、祈る気など失せてしまった。いくら祈っても奇跡など起こらないのだからと、諦めてしまったのだ。それに、体よく左遷されたことに気付かないナックルのバカさが無性に癪に障る。へらへらと馬鹿みたいに笑っている奴とは、相性が悪い。

「バカとはなんだ、バカとは!教会をバカにするのは許さんぞ!」
「俺がバカにしたのはテメェだ、芝生頭」
「そうか。なら良いが……いや、良くはない!なぜ初対面でバカにされなきゃならんのだ!」
「いかにもバカみてーなツラしてっからだろ。脳みそまでドッピーカンか?」

ナックルがぷんすか怒ると、Gはさらに全力で煽って掛かった。その間に挟まれたジョットにとっては、たまったものではない。大声で怒鳴られるのも、喧嘩に巻き込まれるのも嫌だ。争うくらいなら、事なかれ主義でじっと我慢している方がよっぽど楽だ。ただし、今の状況では、耐え忍ぶという選択肢は悪手だ。Gの腕を掴み、ジョットは素早く頭を下げた。

「えっ、えっと、俺達、まだ仕事あるんで!失礼します!」

相手の返事も待たず、ジョットはGを引っ張りながら逃げる。蹴散らされた鶏達の、けたたましい抗議を背に聞きながら、路地を駆け抜けた。
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