旅人を追う暗雲
サヴェリオが去ると、エレナはほっと安堵のため息をついた。男性と親しくすることを禁じられて育ったため、デイモン以外には免疫がない。サロンでさえほとんど話したことがない為、会話さえロクに出来ないのだ。今もデイモンの影で縮こまり、まったく会話に参加しなかった。
本来なら、アルタヴィッラの者として毅然と対応すべきなのに。もしクレアなら、何ら怖じずに快く応対し、適当にあしらってみせただろう。もっとも、結婚前の娘はエレナみたいに初心な方がいいとされている。内気で恥ずかしがりやで、引っ込み思案な方が、より貞淑に見えるからだ。

「デイモン、どうしてあんな風に応対したの?彼は社交界の花形よ」
「あれくらいでいいんです。彼はじきに、フィレンツェから姿を消すでしょうから」
「まあ、どうして判るの?」
「いつもの占いですよ」

デイモンは懐からタロットカードを取り出し、その図をエレナに見せた。正位置の死神、それの意味するところは死。そして、破滅だ。

「彼は破滅の運命に導かれ、自ら死へと歩むでしょう。非情に残念ですが」



侯爵邸を出たその足で、クレアは町中の寂れたアパートに立ち寄った。そこには、クレアが使用人名義で所有している秘密の部屋がある。愛人との密会に使うためではなく、トゥリニセッテ関係で旅をする際に、庶民に変装するための部屋だ。
貴族の目を避けて移動するときは、貧民に変装するのが一番いい。彼らはバルコニーに出ても、空や丘は見るが眼下の庶民は見ないからだ。

クレアは衣服ケースの中から、領民から買い取った服を取り出した。布地がいい感じに擦り切れており、貧しい階層の老女らしさが滲み出ている。髪を隠すためのスカーフを目深に被り、ボロボロの木靴を履いて杖を持つ。あとは老婆らしく腰を折り曲げて、俯き加減で杖を使えば、若い者には見えない。しわのない手は誤魔化しようがないので、農作業用の皮手袋で隠す。農民なら違和感を覚えるだろうが、白手袋しか知らない貴族の目には止まらないだろう。

「お支度が整ったようですね」
「ええ。そちらも、準備は万端ね」

レナータは農民の娘らしい恰好で、ボロボロのトランクを一つ持っている。トランクは旅人らしさを演出するための小道具であって、荷物は幾らも入っていない。窃盗や紛失を免れるため、荷物は全て、クレアの『箱』に詰めてある。彼を鍛えるために必要なものも、全て。クレアは胸元で十字を切り、しばし瞑目した。重ねた罪と準備を思い起こし、決意を固めて目を開く。茨の道にも、もう迷いはなかった。

「さあ、参りましょう。彼の元へ」



そして、フィレンツェを経って十日後、クレアは目的の地へと辿りついた。シチリア島の北西、サン・ジュリアーノ山の頂に位置する町エリチェ。古くは古代ローマより栄え、険しい崖と深い森に守られてきた宗教都市だ。街はシチリアでも指折りの高さに位置し、霧のない日はトラパニの塩田地帯、サン・ヴィート・ロ・カーポの海岸地帯を一望できる。
その見事な景色を、クレアは荷馬車の中から眺めていた。丁寧に敷き詰められた石畳の上で、古ぼけた車輪がギリギリと軋む。

「お嬢さん、ここいらじゃみかけない顔だね」

御者の男性に話しかけられ、クレアは珍しいこともあるものだと思った。シチリアの人間は警戒心が強く、余所者に関わろうとする者は少ない。クレアは彼を振り返り、猫背のひどい後ろ姿に微笑んだ。

「ええ。生き別れの兄がここに居ると聞いて、トスカーナから来たの」
「へぇ、そりゃすごい。会えると良いな」
「ありがとう。きっと会えるわ、神の加護厚き街ですもの」

彼の姿より遥か向こう、上り道の先に石壁と大きな門が見える。今はまだ、左右の緑林に埋まらんばかりに小さく見えるその街に、彼は居る。思い返せば、長い道のりだった。フィレンツェでの十年も、この旅も。本当ならば、十日もかかる距離ではない。船でパレルモまで行けば、三日で着く。それが十日もかかったのは、追跡してくる者が居たせいだ。

フィランジェリ家当主の甥っ子、サヴェリオ・マッシミリアーノ・マッツォ。彼が執念深く追い回してこなければ、何度も変装したり回り道せずに済んだ。船での旅を諦め、獣道しかないシチリア島を尾根伝いに歩いたのだ。列車は勿論、二輪立ての馬車が通る道さえ、ナポリ以南にはなかったのだ。
登山で腫れあがった足を清水で冷やした時は、思わず涙が零れ落ちた。それでも只管に歩き続け、パレルモでダミーを立ててまで逃げ回った。もしダミーを立てていなかったら、今も山野を逃げていただろう。いつ気付くかはわからないが、これ以上の足取りを掴まれないよう祈るしかない。

「まったく、恐ろしい執念だわ」

許されるのならば、眉間を銃で撃ち抜いて消してしまいたい。そう思うくらいには手こずったし、腹も立っている。それ以上に、薄気味悪くて仕方がない。どれだけ執着していたら、腰の曲がった老婆をクレアだと判断できるのか。
考えるだけ気分が悪くなると思い、クレアは頭を振って雑念を追っ払った。忌まわしい男のことを考えるくらいなら、最愛の人を想った方がよっぽど幸せだ。最愛の人。海辺の別宅で会った日のことは、今でも鮮明に覚えている。空気を震わす鐘の音よりも激しく、早鐘を打つ彼の心臓に心を揺さぶられた感動を忘れられるはずがない。

目を閉じれば、今でも彼と生きた日々の全てが思い出される。彼は全てを忘れていて、思い出を共有できなくても、それが色褪せることはない。踏みならされた土から石畳へと変わったらしい、馬車の揺れが変わる。城壁に囲まれた天嶮の地、エリチェの街に入ったのだ。馬車は坂道をいくらか上った教会の前で止まり、ロバに鞭を入れていた老人が御者台から下りる。クレアも荷台から下りて、彼に心ばかりの謝礼を握らせた。

「乗せてくれてありがとう。おかげでとても助かったわ」
「良いってことよ。しかし、お嬢さん、訊ね人の家はわかるのかい」
「ええ、ちゃんと聞いてあるから大丈夫よ。またどこかでお会いしたら、よろしくね」

クレアは社交界で磨いたとびっきりの笑顔を浮かべ、親切な老人に別れを告げた。千里眼で街を見ながら書いた地図を取り出し、ジョットの住む家へと急いだ。
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