悔い改めよ
クレアは思い出した。最初の殺人から三日は、ろくに食事も睡眠も摂れなかったことを。刃物を見ると手が震え、銃など直に見ることさえできなかった。しかし、人とは奇妙なもので、残虐な行為も繰り返せば慣れる。罪の意識は薄れていき、今となっては死体を前にしても動揺さえしない。
動揺さえしない、筈だったのに。ナックルがあまりにも真面目に、その罪に向き合っているものだから。心の奥底に隠した本心が、今更に罪の重さに悲鳴を上げる。辛いと。こんなことは、もうしたくないと。それでジョットを失ったら、何をしても取り返しがつかないのに。

「殺人の罪が、なんだというの」

本音をねじ伏せ、クレアは唸った。罪を背負う辛さなど、疾うの昔に知っている。身分を偽ったその日から、十字架を背負って丘を上っているのだから。今更、彼を殺したところで、何も変わりはしないのだ。彼がクレアを救おうとしても、もう遅いのだ。何もかもが、遅い。

「そんなもの、今更なのよ」
「まだ君はやり直せるだろう?だって、君は」
「遅いと言っているの。わからない?私は貴方と同じなの」

狼狽するナックルの胸板に、両の手を這わせる。全身全霊で押し倒し、クレアは彼の上にのしかかった。

「ちょっ、おい!」
「それほど懺悔が聞きたいなら、地獄への餞別にくれてやるわ」

首元にナイフを突き付け、クレアは彼の肩口に額を押しつけた。正直すぎる彼の目は、前世に見たジョットに似ていて、優しすぎる。その目を見たら、何も言えなくなる。殺せなくなる。直感でそう判ったら、もう顔を見れなくなってしまった。

「私は嘘をつきました。私は貴方が殺したボクサーの妹ではありません」
「……!」
「私は実験をするために、貴方を殺そうとしました。そうしなければ、愛する人を死なせてしまうからです」
「実験?」

ナックルの問いを無視し、クレアはなおも言葉を続けた。

「私は人を殺しました。この修道院で、何人も――何十人も」
「……なぜ」
「秘密を守るためです。愛する人を、この手で殺してしまわぬように」

この修道院で死んだ者の半分は、後悔が足りずに死んだ者達だ。残り半分は、生き返ったものの口封じのために殺された。秘密を守るためには、そうしなければいけなかった。そして、躊躇する理由もなかった。一人を殺した時点で、倫理も道徳も何ら意味のないものとなっていた。

「私はもう救われない。だから、貴方を殺すこともためらいません」

懺悔はこれで終わりだ。クレアはこのつまらない喜劇に幕を引こうとした。しかし、思い切り力を入れて引いても、ナイフがびくともしない。驚いて顔を上げ、クレアは絶句した。ナイフの刃を、ナックルが素手で握りしめている。傷だらけの皮膚は簡単に破れ、赤い滴が次々と溢れてくる。
クレアは反射的に手を離し、彼の上から退いた。なぜこんなに抵抗するのか、全く理解ができなかった。己の命を惜しんでいるのなら、ナイフで切りかかってくるはずだ。しかし、彼は手から抜いたそれを、窓の外へ放り捨ててしまう。

「いいや、まだ救われる。主は仰った、罪を悔い改めよ、さすれば神は赦されんと」
「いいえ。神はカインをノドへ追放した。農耕を禁じ、生き恥を晒すことを強いたわ」

人類最初の殺人者カイン。彼は弟を殺し、そのために楽園を追われた。神はその罪を決して許さなかった。宗教家が何を言っても、それが真実なのだ。宗教家の語る告解など、神の名を騙った気休めに過ぎない。キリスト以外の誰も、神の意志とやらを知る術を知らないのだから。

「いいや。君は私に言った。同じく、正しい道を探すものだと!」
「それは、……」
「諦めるな。許されたいと願う者に、神は必ず微笑んでくださる」

血だらけの手が、クレアの両手を纏めて捕まえる。滴り落ちる温かな赤色もまた、罪の色なのに。

「君は女性だ。どんな事情があるかは知らないが、罪を負うにはあまりにか弱い」
「私しか、いないもの。あの人を、守れるのは」
「俺に手伝うことはできないのか?」
「自分を殺そうとした人に、手を貸そうと言うの?とんだ酔狂ね」

クレアは馬鹿にしてますと言わんばかりに、鼻で笑ってやろうとした。しかし、涙とともに零れた嗚咽が、それを台無しにした。

「酔狂でも構わんさ。共に、罪を償う方法を探そう」
「……世界のために、尽くしたら。それは、贖罪になるかしら」
「ああ。きっとなるだろう」

クレアは有りっ丈の秘密を吐露した。愛する人がいること。その彼に過酷な訓練を課して、命がけの手段で鍛えようとする冷酷な男のこと。彼を守るために、その男の跪下に就いたこと。男の代わりに、彼を鍛える役目を負ったこと。より安全で、彼を傷つけない方法を選ぶために。愛するが故に彼を苦しめる側になった、その立場の憂さを。
そして、彼が特殊な指輪の所有者となった時、世界の礎が安定すること。それこそが男の望みであり、そのためにこのような罪を重ねたこと。一切合財を打ち明けて、クレアはほろほろと涙を流した。

「今この瞬間も、私は監視されているわ。秘密を守れなかった私は、用済みと切り捨てられるかもしれない」

チェッカーフェイスがそう判断したら、クレアは計画から除外される。一切の手出しを許されず、檻の遥か遠くから彼の運命を見ることしかできなくなる。

「心配するな。もしそうなったら、俺と二人で、その人を守る方法を探そう」

それは結果的に、世界の安定を奪うことにもなろうが。一人の人間を救うこともまた、一人の命を奪った償いにはなる。ナックルは泣いてやまぬ稚い少女を抱きよせた。味方だと、決して傷つけぬと証明するために。その細く脆い生き物は、彼に遠く故郷に置いてきた妹を思い出させた。
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