罪を知ればこそ
スポーツは神聖なものだと、ナックルは信じていた。勝利を神に祈り、そして勝ち得たときの喜びを、純粋に信じていた。生傷は絶えなかったが、痛みを苦痛とは思わなかった。ただ勝利を掴むために力を欲した。己を鍛え、技を身に付けた。

ボクシングで人が死ぬのは、殺した者の技術が未熟だったからだ。相手をダウンさせるのでなく、命を奪うような攻撃の仕方をしたから死んだのだと。自らが人の命を奪うまで、ナックルはそう考えていた。どんな攻撃でも、それが攻撃である以上、人を死に至らしめ得るものと知らずに。

力を揮えば、それは凶器となる。戦場で掲げられる剣のように。そう悟った時、ナックルは最強と称えられた己の強さに恐怖した。誰かの命を奪うのではと思うと、リングにも立てなくなった。そうして、罪深さに恐れ慄き、強さを忌み嫌いながら、この地に来た。
試合相手の死は不慮の事故として扱われ、社会的には何ら罪に問われることはなかった。しかし、人を殺すことは罪であるはずだ。神は人に殺人を禁じた。殺意の元となる感情さえも抱いてはならぬと。ナックルにその感情はなかった。殺意はなかった。ない、筈なのだ。

「殺意はただ殺意として生まれるわけじゃない。敵意が暴走して、殺意になるのよ」
「私の罪も、そうして生まれたと」
「ええ。人の理屈では事故でも、神の前では全て等しく殺人よ」

月光を受けて、銃が鈍く光る。ナックルは目を閉じ、受け入れる意思を見せた。本当は判っていた。ただ逃げてきただけなのだと。神の御前で罪を詫び続けたところで、神が降臨して許してくださるわけではない。祈ることで自らの罪悪感を減らしているだけなのだ。それが逃げでなくて何だと言うのだろう。
罪を受け入れ、怒れる遺族の報復を受け止めることの方がよほど贖罪になる。結局、命を購える可能性があるものは、罪した者の命だけなのだ。

「簡単に諦めるのね。未練はないの?」
「ないと言えば、嘘になる。だが、罪を償うにはこれより他にあるまい」
「後悔は、ないの」
「あるさ。ずっと思っていた、あんな試合をしなければよかったと。……あの試合が始まる前に、戻りたいと」

しかし、時間は決して戻らない。どれだけ願っても、その時には戻れない。ナックルは微笑み、彼女を見上げた。憎悪に凍てついた面差しは、悲しいくらいに寂しげに見えた。

「撃ってくれ。これで、俺も楽になれる……、っ」

言い終わってから、ナックルは自らの発言に息を呑んだ。それは全く意図せずに零れ落ちた、心の底にあった本心だった。この期に及んでも、ナックルは逃げようとしていたのだ。寝ても覚めてもまとわりつく罪から逃げて、楽になろうとしていた。
その罪を身に負うことの辛苦は、身にしみて分かっているのに。眼前でトリガーに掛かった指がゆっくりと引かれる。その指の向こうには、闇より暗く深く絶望を湛えた瞳が虚ろに開いていた。撃鉄が鳴ったその瞬間、ナックルは素早く体を翻した。鋭い風が頬を掠め、少し遅れて痛みが走る。銃弾は皮膚一枚を破り、背後の祭壇に穴を空けた。

「な、……っ」

絶句するクレアの隙を突いて、ナックルは銃を蹴り飛ばした。凶悪な武器はあっけなく、窓を突き破って庭へ飛んで行った。

「なぜ、今になって。やはり、生きたいと思ったの?」
「違う。命を惜しむつもりはないが、……君に、殺されるわけにはいかない」

ナックルの意図が分からず、クレアは首を傾げた。実験計画は失敗だ。手元に銃がないのでは、死ぬ気弾を試せない。言い包めて、翌晩にでも再挑戦するか。それとも、実弾で殺してしまうか。朝になれば逃げるかもしれない――そう考えれば、選択肢は一つしかない。
クレアは後ずさりながら、ショールの中に隠したもう一つの銃に手を伸ばした。すると、何も知らないナックルは前に進み、距離を詰めてくる。

「怖がらないでくれ。危害を加えるつもりはない」
「嘘よ、信じない」
「本当だ。俺は人を殺す罪深さを――その辛さを、君に背負わせたくないだけだ」

ナックルの歩調は、確固たる信念の上を歩くように落ち着いている。対するクレアの、後ずさる足の運びは不安定だ。背中に扉がぶつかり、クレアは立場が逆転したことを悟った。実弾の入った銃を取り出し、狙いも付けずに引き金を引く。
しかし、彼はまたしても、何なく銃弾をかわして見せた。一体どんな反射神経だったら、ピストルの弾を避けられるのか。

「やめるんだ。俺を殺しても、何も変わらん。君も、救われん」

またしても手から銃を奪われ、クレアは扉に背を預けてその場に座り込んだ。

「私に殺されてはくれないの?」
「ああ。何度殺しに来ても無駄だ。わかるだろう」
「私を憲兵隊に引き渡すの?殺人未遂だもの、列記とした犯罪よ」
「独房に入るまで諦めぬと言うなら、それも手だな。だが、その前に話しがしたい」

軽口に応えながら、ナックルはクレアと視線を合わせるために座った。罪に狼狽したとも思えぬ、堂々たる風合いで。

「俺は新米だが、一応は修道士だ。君の懺悔を聞こう」
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