沈黙の三年
予想に反して、チェッカーフェイスは一切、反応を見せなかった。用済みだから去れとも、何も。レナータに確かめても、何もなかった。

「チェッカーフェイスと言ったか、その男から何も連絡がないのか?」
「ええ。彼がなにも知らないはずはないし、……」

部屋中をうろうろ歩くクレアを、ナックルは手招きして座らせた。彼女は守るべき約束を破り、後ろめたさと不安で途方に暮れている。初めて会った時の、落ち着き払った彼女とはまるで別人みたいだ。思えば、あの時の彼女はあまりにも完璧すぎた。嘘くさいほどに。
絵に描いた貴婦人より貴婦人らしく、何もかもを完璧に整合させて作った姿だったのだ。殻を剥がしてみれば、なんてことはない。彼女も普通の少女だった、ただそれだけの話だ。

「落ち着け、何もないならそれでいいだろう」
「何もないから不安なの。陰でろくでもない計画が動き始めてるかもしれないもの」
「そうだとしても、知らんのでは何もできん。今は待て、クレア」

クレアは額に手を当て、ため息をついた。ナックルの言わんとすることはわかるが、それでも心は止められない。

「あの人に何もなければ、いいのだけど」

クレアは自分のことなど、毛ほども心配していない。自分の身などジョットに比べれば何ほどの価値もないからだ。ジョット。彼が今も無事で、元気に生きてくれればそれでいい。運命の時まで、ただ彼が自由に生きてくれさえすれば。

「大丈夫だ。何もないということは、そういうことだ」
「……貴方って、太陽みたいな人ね」

自信満々に言いきるナックルが可笑しくて、クレアはくすくすと笑った。存外、彼の言葉を信じようと思えるのは、彼がジョットに似ているからかもしれない。勿論、彼はジョットと決定的に違う。彼は優しいようで、苛烈なのだ。クレアが秘密を隠した扉を、真正面から粉々に砕いたのだから。暴力的な正直さは、イタリアの太陽に似ている。それに充てられて、人が参ってしまう所までそっくりだ。



それから三年間、クレアは宣告を恐れながら過ごした。結局、待てど暮らせど、チェッカーフェイスが何か言ってくることはなかった。修道院への招待状も来なくなった。試しに訪れても、羊を差し出されることもなかった。レナータを問い詰めると、もう必要ないからという言葉が返ってきた。
確かに、クレアもこれ以上の実験は要らないと思ってはいた。既に十分すぎるくらいの経験があり、潮時と思える切欠があれば止められた。用は無くなったが、クレアは以降も人目を忍んで修道院を訪れた。ナックルに会い、相談や談笑をして日頃の憂さを晴らすために。彼は真実を知っても、それを口外しなかった。修道院で神に祈る毎日を送り、クレアを歓待してくれた。

アラウディは約束通り、姿を見せなくなった。噂ではナポリに行動拠点を変えたらしく、フィレンツェには一度も来なかった。周りは色々と邪推したが、クレアは全ての詮索を退け、沈黙を貫いた。そして、有象無象を適当にいなしながら、準備を完成させた。
学ぶべきことを学び、国内外を問わず必要な人脈を築いた。銀行を使って貴族から金と領地を巻き上げて、財を築いた。所有する領地はみるみる増えたが、クレアは決してガベッロットを使わなかった。手紙の遣り取りを可能にするために、神父を各地に派遣しただけだ。

管理に関する全ての判断は、必ずクレアが下した。年に何度も現地に赴いて、農民と膝を突き合わせて議論もした。そうした行動は、イタリアの貴族の常識とはかけ離れていた。しかし、表立ってクレアを批判する者はいなかった。義務を放棄して遊び耽ることを、誰もが本心では拙いと判っているからだ。だから誰もが、少しばかり生真面目すぎると、苦言を呈するくらいに留めた。
そうして迎えた、約束の日。ジョットと決別した日からちょうど十年目。クレアは別れを告げるべく、アルタヴィッラ公爵邸に赴いた。幸いにしてエレナは外出しておらず、クレアの訪れを歓迎してくれた。彼女の友人、デイモン・D・スペードと共に。

「デイモン、こちらに戻ってらしたのね。ジェノヴァで知識人のサロンに入り浸ってると思っていたわ」
「一昨日に戻りました。あちらの先駆的な思想は好きですが、いささか刺激が強いものですから」

神の愛した庭園に憩いを求めて、しばし戻ってきました。そう言って、デイモンはほんのりと幸せそうに笑った。彼はヴェネチア出身の貴族で、フィレンツェの大学に通っている学生だ。ヴェネトの堕落した社交界を毛嫌いし、普段はフランス国境沿いの町で思想家と戯れている。
当世風の長い黒髪と、二筋ばかりのジグザグした髪の分け目。顔立ちは少しフェミニンで、気障に思えるくらいいつも微笑んでいる。性格はかなり人を食った所がある。猫だと思っていたら虎だった、そんな風に人を騙しては脅かして遊びがちだ。しかし、浮いた噂は一つもなく、そういう意味では安心できる人物だ。エレナのサロン以外で見かけない所を見ると、恐らくそういう事なのだろう。

エレナの方も満更ではないのだろう。彼の行動を許しているということは、そういう事でもあるのだ。綻びかけた薔薇の蕾のような恋だ。クレアはいささか眩しく思いながら、二人を見つめた。彼らのような幸せが、今生で僅かばかりでも得られたならばと、そう願ってしまう。

「どうしたの、クレア。なんだか想い詰めた顔をしているわ」

エレナに問われ、クレアは目を細めて笑って見せた。大切な大親友の、人の何倍も優しい心を傷つけないように。

「今日はね、しばしの御別れを言いに来たの」
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