旅立ちの時
彼女が何を言いに来たか、エレナには一目で判った。かつて、ナポリの女性修道院に行くと言った時と同じ表情だったからだ。嘘と秘密で痛苦と悲嘆を覆い隠した、とてもきれいな微笑み。普段の鉄壁ぶりを想わせない、メランコリーに満ちた表情だ。
瞳は昏く輝き、勝たねばらなぬ戦場へ往く将軍のような決意を帯びている。なだらかな肩は緊張し、思わず宥めてやりたいほどに張り詰めている。
何が彼女を駆り立てるのか、エレナは知らない。彼女の憂いを払う術も知らない。それでも、彼女のためにできることを一つだけ、知っている。待っている。神に愛された楽園、この花の都で待つのだ。貴族の精神を掲げ、人知らぬ戦場へ往った、大親友の凱旋を。


お別れを告げると言っても、すぐに踵を返して去るわけではない。クレアは二人と相対するように、ソファに腰を下ろした。

「聞きましたよ。また面倒な者に目を付けられたとか」
「いやだ、もう耳に入ったの」

デイモンの持ち出した話題に、クレアは思わず顔を顰めた。クレアはここ最近、ある男に付け回されている。フィレンツェで人気を誇る、フィランジェリ家当主の甥だ。見目も家柄もよい男だが、派手に遊び歩いていて醜聞は絶えない。結婚する気もないのに生娘に手を出したとか、耳に入る噂は大体がロクでもない。その彼が、何を思ったのかクレアに目を付けたのだ。

友人の家に行けば、十分もしないうちに偶然を装って来る。サロンで談笑していたら、何食わぬ顔で割り込み、傍に座ろうとする。パーティに出れば、ダンスを申し込もうとして傍に張り付かれる。挙句の果てには、自室のベランダに出ると向かいの家からウインクしてくる始末だ。勿論、全てはただの恋愛遊戯であって本気ではない。かつてのジャンフィリアッツィ家の男が、そうだったように。

「エレナが言うには、結婚の約束をしたと吹聴しているそうですね」
「ありえないわ。私には想う人がいるもの」

ばっさりと切り捨て、クレアは紅茶を口に含んだ。香りも味も一級品のものだ。これともしばらくはお別れかと思うと、ゆっくり味わいたくなる。

「アラウディ様のこと?」
「そうだったら世話はないわ」

言外に否定して、クレアは壁掛け時計をちらりと見た。公爵邸にお邪魔して、十五分ほどが経過している。件の男はクレアの動向を掌握するため、ありとあらゆる家の使用人を買収している。これまでの経験から考えるに、彼がここに来るまで五分もないだろう。

「そろそろお暇するわ。鉢合わせしたくないもの」
「それは残念です。次はもう少しお話がしたいですね。いつ頃お戻りに?」
「デビューの日までには戻るつもりよ。予定が狂わなければね」

背後に控えるレナータに合図し、クレアは席を立とうとした。しかし、腰を浮かすより早く、エレナに手を掬い取られてしまう。思わず見上げると、彼女はさっと目を伏せた。言葉を探して、薔薇色の唇が苦しげにひきつれる。クレアは少しだけ思案し、彼女の望むところを理解して嘆息した。この優しすぎる友人は、とても寂しがりやでロマンチストなのだ。

「エレナ。今度は、私の慕う人を連れてくるわ」
「連れてこれるの?」
「ええ。そのために、行くようなものだから」

クレアの言葉に、エレナはくるくると賢い頭を回転させた。覚悟を決めた兵士のような顔で、慕う人を迎えに行くなんて、どんな事情があるのだろうか。

「とても素敵な人よ。会ったらきっと、エレナも惚れてしまうわ」
「まあ。そんなに素敵な人なら、本当に会ってみたいわ」

ころころと笑うエレナの隣で、デイモンは憮然とした顔つきになる。クレアは微笑を浮かべ、冗談よとばかりに手を軽く振ってみせた。それでも、彼はいたく機嫌を損ねたとみえて、笑みを返してはくれなかった。エレナと共に玄関先まで見送りに来てくれたが、それは儀礼的なものに留まった。


クレアが去って間もなく、アルタヴィッラ邸を一人の男が訪れた。フィランジェリ家当主の甥っ子、サヴェリオ・マッシミリアーノ・マッツォだ。彼はトリノで育ち、一昨年に両親を事故で亡くして単身フィレンツェに来た。現在はフィランジェリ家に身を寄せており、将来は従妹と結婚して爵位を継ぐと言われている。
もっとも、醜聞を鑑みれば、本当に従妹と落ち着くかは甚だ疑問なところではある。エレナの乳母も評判は聞いているのだろう、案内したまま部屋から下がらない。付け入る隙を与えないよう、デイモンはエレナより少しだけ前に出た。たとえ彼がクレアにご執心でも、安心できる要素はどこにもない。

「アルタヴィッラ邸にようこそ、ドン・マッツォ」
「……?僭越ながら、どこかでお会いした事が?」

デイモンがさもアルタヴィッラ家の者のように出迎えると、彼は不思議そうに眉を寄せた。互いの活動する街が離れすぎており、面識がなくても仕方はない。

「これは失礼。私はデイモン・スペード、エレナの幼馴染で普段はジェノヴァで活動しています」

困惑する彼を内心でほくそ笑みながら、デイモンは適当な自己紹介をした。フィレンツェに長く滞在するつもりも、彼と親しくする必要性もないからだ。

「それは失礼しました。何せ、ジェノヴァに行ったことがないもので」
「そうでしょうとも。ですが、私は貴方のことをよく存じておりますよ」
「噂で……ですか?どうせ、ろくでもない噂なのでしょうね」
「おや。事実ではないと?」

彼の言い回しが他人事じみており、デイモンは皮肉たっぷりに聞き返した。
すると、彼はいかにも悲しくてたまらないと言わんばかりに眉を寄せる。

「大方は事実ではありません。私につれなくされた女性達が、憂さ晴らしに嘘を言っているのですよ」
「はぁ……」
「それに、私は本当は一途な人です。ご存知でしょう、私が誰を愛しているか」
「ええ、よく、よく存じておりますとも」

本当は飽きてつれなくしたら、女性に復讐されただけだ。あちこちで時の恋人と熱っぽく見つめあい、積極的に親密にしていたくせに何を言うのか。社交界に身を置く者ならば、そんな嘘など鼻で笑って聞きもしない。とにかく一刻も早く彼を追い返したくて、デイモンはやけっぱちに頷いだ。

「それで、いったい何の御用です?愛する人が居るなら、その方の元へ行けばいいでしょう」
「まったくもってその通り。実は、私の愛しい駒鳥がこちらにお邪魔していると聞きましてね。彼女はどちらに?」
「残念です。すれ違ったようですねぇ」
「……頭でっかちの思想家が」

ちっとも残念に思っていない声調に、さすがに気分を害したらしい。彼は顔をしかめて、聞こえてもお構いなしとばかりに罵った。しかし、デイモンは度胸のない挑発をせせら笑い、ひらひらと手を振った。それで怒って帰ってくれればと思ったのだが、何を考えたのか彼は許しも得ずにソファに座った。
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