覚えていること
「見えますか。あれがフィエゾーレの丘です」

読書に集中していたクレアは、レナータの言葉に顔を上げた。彼女の指差す先には、優美でなだらかな曲線を描く丘がある。

「その手前の村がセッティナーノ。あちらはミケランジェロの丘です」

レナータはフィエゾーレの手前にある、絵画的な情景の村を指さした。そして、次に反対側の丘を指差した。こちらは丘というより町の一角に近く、赤煉瓦の建物と大きな広場が見える。それは緑なす麓から平地へ、谷に咲く花のように広がっている。

「あれが花の都、フィレンツェ……」

多くの詩人を魅了した、美しき都フィレンツェ。アルノ川のほとりに広がる街は、聞きしに勝る美しさを湛えている。待ち受けるものを忘れ、クレアは輝かんばかりに美しい街並みに見惚れた。


二人はフィレンツェ駅で降りて、辻馬車を捕まえた。都会では馬の管理が難しいため、貴族はもっぱら辻馬車を使う。そのため、辻馬車といえども内装は貴族好みの豪奢なものだ。チンツ張りの座面はふかふかで、旅商人の荷馬車とは似ても似つかない。伯爵夫人の棺は葬儀用の馬車に乗せられ、辻馬車の後ろを走っている。レースのカーテン越しにその影を見て、クレアはため息をついた。
この先には、夫人の親類縁者が集い、葬儀の時を悲しみながら待っている。その嘆きのなかに、クレアは母を失った娘として入るのだ。どう振る舞えば、それらしく悲哀に満ちた様子に見えるだろう。涙脆いたちではないし、見知らぬ人の死に痛む心など持ち合わせていない。

「……はぁ」

いっそ、実父の葬式に参列しているつもりになろうか。心の中で父を偲び、その死を悼めば、それらしく見えるだろう。父を亡くして悲しい気持ちは本当なのだから。脳裏に浮かびかけた父の死に顔を振り払い、クレアはため息をついた。

「緊張しておいでですか」
「ええ。演技なんてしたことないのだもの」

外の景色を見ようと、クレアは窓に身を寄せた。礼拝堂と思しき建物。鐘楼に、教会に、どこかの貴族の豪邸。階段に腰掛けて縫物をする市民。洗濯物を抱えて走る洗濯女。それらの前を通り過ぎ、馬車は丘を少しのぼって教会の前で止まった。後ろを走っていたガラス張りの馬車も止まり、御者が聖職者たちを呼びに走る。
レナータが先に馬車から下り、扉を抑えていてくれる。クレアも後に続こうと、タラップに片足を踏み出した。その瞬間、エスコートのための手が差し出される。顔を上げると、初老と思しき男性が立っていた。

「クレアお嬢様。私は執事のロレンツォと申します。このたびは急な――悲しい、お帰りで……」

そう言葉を濁した彼の肩ごしに、クレアは試練の時を見た。娘として振る舞え。決して疑われるな――そう己に言い聞かせ、クレアはその手に手を重ねた。

ロレンツォは手を差し出しながら、注意深くクレアの顔を観察した。いきなり現れた伯爵の娘という存在に、彼はある種の疑いを持っていた。彼女は伯爵が他所に作ってた庶子なのではないか。伯爵は葬式のゴタゴタに乗じて、彼女の出自を偽ろうとしているのではないか。見れば、この娘の顔立ちは伯爵夫妻とまるで似ていない。並はずれて美しく、将来が楽しみではあるが、血縁を感じられない。
それに、動作がいやに大人しくて、子供っぽくはしゃぐ気配がない。そうでなくとも、母を亡くしてショックならば、頬に泣いた跡くらいあっていい。もしこの疑惑が本当なら、夫人が不憫でならない。ロレンツォは不信感を募らせ、どうにか真実を引きずり出してやりたくなった。

「お嬢様。貴方の母君はとても素敵な方でしたね」
「ええ。お母様は、……お母様は、とても優しい方だったわ」

細く可憐な響きの声が、震えながら言葉を紡ぐ。ナポリの訛りが強い、舌ったらずなイタリア語だ。お付きのシスターも訛りが強いから、彼女の影響だろう。哀れみを感じさせる震え声に、執事は訝しく思った。
どこかしらよそよそしかった雰囲気が、明らかに揺れたからだ。ひょっとすると、彼女は幼いながらに抑制的で、感情を抑え込んでいたのかもしれない。横目でクレアの顔を注視しながら、執事は話を続けた。

「ええ。あの方は我々使用人にも優しい方でした」
「お体に障るから、少ししかお話しできなかったけれど。とても、優しかったわ」

舐めるような目線から逃れたくて、クレアはふいと横を向いた。不審な目で見てくるあたり、彼は何も知らされていないらしい。それはつまり、屋敷の中でも伯爵の娘でなければいけないということだ。周囲を欺くために、ずっと演じ続けなければならないのだ。おそらく、チェッカーフェイスの仕組んだ構図だろう。ヘマをしたら彼らの首が飛ぶと、クレアにプレッシャーを与えるために。

「まったく、趣味の悪い……」

執事に聞こえないよう口ごもり、わざと英語で悪態をつく。試練に試練を重ねてくれる忌々しい男を思い、クレアは目を眇めた。教会特有の回廊を通り抜け、三人は礼拝堂の隣室に入った。そこには親類と思しき貴族達が、めいめい派手な黒装束で集っていた。

「旦那様。お嬢様をお連れしました」
「ああ、ご苦労。こちらにいらっしゃい、クレア」

貴族の一人、いやに背の高い紳士が手招きをする。写真で見たペポリ伯爵その人だ。クレアは少し足早になって、その人の傍へと行った。

「修道院に預けていた私の娘、クレアです。クレア、挨拶をなさい」
「はい、お父様」

クレアはスカートを少し摘まんで軽く持ち上げた。片足を斜め後ろに引き、もう片足を軽く曲げる。カーテシーと呼ばれる、貴族の女性がする挨拶だ。今生では初めてだが、前世で魂に刻むほどしたからか、自然と体が動く。社交界の空気を感じたからか、口元に微笑みさえ浮かんだ。

「はじめまして、クレアと言います。以後、よろしくお願いします」
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