- 二人の内緒
「彼を探してくるわ。私が機嫌を損ねてしまったからだもの、きっと」
「私も付いて行ったほうがいい?」
「いいえ、一人で大丈夫よ。後で会いましょう」
宮廷の数多ある部屋の打ち、子供の出入りを許されているのは七部屋だけだ。それらの中で、一人きりになれそうな部屋は一つ、ギャラリーしかなかった。
「素敵なギャラリーだけど、子供には陰気くさく思えるのね」
ラファエロの再来と謳われたレーニ。細かなスケッチが見事なバルビエーリ。珍妙な肖像画で知られたアルチンボルド。クレアは時代を象徴する画家たちの作品を見ながら、奥へと歩を進めた。そして、女流画家の作品を集めたブースの端で、絵が取り去られたらしい空白に気付いた。
アルテミジア・ジェンティレスキ、ソフォニスバ・アングイッソーラと来て、その空白はやたら目立つ。残された名札を見ると、空白の部分にはルブランの作品があったらしい。
「ルブランの……」
ルブランはフランスの女流画家で、優しい色使いと繊細なタッチが見事な、優美で美しい絵を描く。彼女がフランス王妃と懇意だったため、革命の影響を懸念して絵を外したのだろう。
「残念だわ、絵に罪はないのに」
反対側の壁際に置かれたソファに座り、絵と絵の間に開いた空白を見つめた。ルブランの欠けた、女流画家の作品を展示したギャラリー。此処にルブランの作が在った時を想像し、クレアは無性に悲しくなった。遠くに居る家族の姿が思い出されて、身を擲って泣いてしまいたくなる。
しかし、胸が張り裂けそうなほど辛いのに、頬が濡れることはなかった。この国に来てから、クレアは一度として泣いていない。一人になる時間は幾らでもあったのに、どうしてか涙が出なかった。運命が動いた以上、もう何も元に戻らないと、わかったからだろう。
クレアは視線を横へずらし、呆然とした顔でこちらを見ている少年に微笑みかけた。シルクの長いコート、膝丈のキュロットに清潔な白のタイツ。毛先だけ癖のある髪をきれいに撫で付けられた、王族の庶子。なんと声をかけようか悩み、ふとクレアは彼の背後にかけられた絵に気付いた。赤子のイエスを抱えた聖母マリアと、彼らに手を差し出す綺麗な女性の絵だ。
「聖カタリナの神秘の結婚」
グリエルモはびくりと体を震わせた。彼は明らかに狼狽している。クレアはその絵が、彼が内に秘めた羨望なのだと知った。
「アンニーバレ・カラッチの作ね」
手を差し出す女性は、アレクサンドリアの聖女カタリナだ。彼女は砂漠の修道士にキリストの教えを受け、改宗した後にキリストとの神秘的な結婚を幻に見た。この絵はその場面を描いたもので、カタリナはとても幸せそうだ。キリストが指に嵌めてくれる指輪を見て、甘美な微笑みを浮かべている。
赤ん坊のイエスは少し腕白ぎみで、聖母マリアは優しげながらも、少し物憂げな表情をしている。大抵は超越した存在として描かれる聖母子に、人間味をもたせた表情だ。カタリナの背後には天使とマリアの夫ヨセフの姿があり、この結婚が神と両親に祝福されたものであることを示している。
画題自体は昔からさんざ描かれたもので、目新しさはない。画家によってそれなりに違いはあるものの、見ればタイトルさえ判ってしまう。
「貴方はこの絵が好きなのね。よく見に来るの?」
「……そんなこと、お前に関係ないだろ」
祝福された結婚。それがカタリナの幸せだ。祝福されぬ愛人関係。権力者の愛人である母の苦難、その子である自らの苦境。
「私と貴方は、正反対だわ。貴方は大公の血を引いている」
「……?お前は、伯爵の血を引いていないって言うのかよ」
クレアは人差し指を唇にあて、声を落とすよう求めた。聞かれて拙い話であると判ったのだろう。彼は囁きが聞こえるよう距離を詰めた。
「そして、貴方は大公の後継者にはなれない」
「お前は伯爵家の跡継ぎになる。確かに、正反対だな。でも、なんでこんな話を?」
「さあ。貴方ならわかってくれそうな気がしたからかしら」
不相応と相応に挟まれて育った彼なら、わかってくれるのではないか。同じように、相応と不相応を内包しながらこの場に立つ苦しさを。
「内緒にしてね。でないと私、とっても困るの」
「お前が困るのか?伯爵じゃなくて?」
「ええ。私は、大切な人のためにここに居るの。伯爵のためでも、私自身のためでもないわ」
クレアのすぐ隣に、グリエルモは膝を抱えるかたちで座った。膝を抱えた腕に鼻先まで隠して、ぽつりとつぶやいた。
「……うらやましいな」