傷付いた鳥
「俺には、大切な人なんていない。だから、頑張れる気がしないんだ」
「お母様のことは、大切ではないの?」
「あの人は、俺を大切に思ってくれない。だから、俺も……」

大切に思っていないと、言えればどれだけいいか。グリエルモは言葉を詰まらせ、顔をくしゃりと歪めた。

「俺はいつか、この城を出て行く。自由になるんだ」
「自由は決して、良いことばかりではないのよ」
「それでも、うんざりするんだ、ここでの暮らしは」

大公のいるところでは、みんな優しい顔をする。庶子でも大公の血を引く子供だと、特別扱いしようとする。影で嘲笑っているくせに。汚らわしいと、愛人の子だと貶しているくせに。誰もかれもが、薄っぺらい敬意を示して、心の中で小馬鹿にする。
冗談じゃない。そんな顔に囲まれて生活するくらいなら、野垂れ死んだ方がマシだ。そう訴えると、彼女の顔から笑みが消え去った。

「家も身分もない人間がどんな憂き目を見るか、ご存知ないのね」

身元がはっきりしない人は、住む家も職も手に入れられない。親切な人が恵んでくれるものを食べ、着て、道に転がって眠るだけだ。垢と汚物にまみれた体を、虱に食われて。人としての尊厳を何もかも無くす。誰かに殺されても、花の一本も手向けてくれない。筵にくるまれて、川へ捨てられるだけだ。

「きっと後悔するわ。辛くて辛くて、死んでしまいたくなる」
「……でも、それはここでも同じだ。だから、俺は、絶対に……っ」

生き辛さに苦しむ彼の姿を見て、クレアは彼を救ってやりたくなった。鳥かごの鳥を、本来あるべき世界――大空へ、解き放ってやるように。どこにも行けない自分の代わりに、彼を自由にしてやりたい。ほんの少し手を貸してやれば、彼は自由になれるのだから。
庶子とはいえ、彼はトスカーナ大公の子だ。その脱走を手伝ったことが分かれば、死刑は免れないだろう。しかし、『箱』の力を使えば、誰にもわからない。痕跡を残すことなく移動させられるから、彼が連れ戻されることもない。

「わかったわ。約束を守れるのなら、私が貴方を自由にしてあげる」
「できるわけないだろ。どうぜ捕まって、連れ戻される」
「いいえ、私にはできるわ。その方法を、私は知っているもの」

困惑する彼の前に、クレアは指を三本立てて見せた。

「一つ。私のことを、決して口外しないこと」
「口外しないって、誰に」
「誰にもよ。誰に聞かれても、決して答えてはいけないの」

指を一本だけ折って、二本目の指を軽く揺らす。

「二つ。自分の素性を、決して口外しないこと」
「言ったら連れ戻されるんだから、言うわけないだろ」
「連れ戻されそうになくても、絶対に言わないでちょうだいな」

もう一本、指を折る。残った一つの条件は、彼にとって少し残酷なものだ。クレアは少しだけ躊躇い、それでも彼のために告げた。

「三つ。貴方が貴方であることの証明を、必ず持ってくること」
「俺が、俺であることの証明?」
「ええ。それを見れば、一目で貴方の素性がわかるものよ」

母の指輪でも良い。父から贈られたブローチでも良い。彼とともに身辺から消えたものだと、家族がわかるものを一つ、手に携えてくればいい。

「なんでそんなモンが要るんだよ。二つ目と矛盾するだろ」
「ええ。でも、それは絶対に必要なの。勿論、それを誰かに見られてもだめよ」

クレアの手助けで、城から逃げだせたとして。自分の素性を知られてはならず、クレアと会ったことも話してはいけない。しかし、自分の素性に関わるものを、隠し持っていなければいけない。それを誰かに見られやしないかと、怯えて暮らさなければいけないのだ。

「なんで、そんなもんが必要なんだ?」
「貴方が貧しい暮らしに嫌気がさして、家に帰りたくなった時に必要だからよ」

今は貴族らしく身ぎれいだが、町に下りれば小汚い身なりになるだろう。自分は大公の庶子だと言っても、それでは誰も聞いてくれない。だからこそ、身分を表すものが必要なのだ。家紋が入ったものを持っていたら、いかに無能な憲兵隊でも流石に聞き流せまい。

「……俺が、一つ目や二つ目の約束を破ったら?」
「すぐに貴方の居場所を大公に教えて、連れ戻してもらうわ」
「無理だろ、判るわけねーじゃん」
「わかるわ。私は千里先まで見通せるのよ」

追手に捕まらず、逃げ遂せる術を知っている。約束を破ればすぐにわかると言う。なんとも嘘くさくて、胡散臭い話だ。俄かには信じがたい。しかし、彼女の言動には一切、誇張的なところがない。できて当然の、当たり前の事実を話しているかのように見える。
信じてもいいかもしれないと、グリエルモは思った。成功すればラッキーだし、失敗したらこれまでと同じだっただけの話だ。

「準備ができたら、いつでもいらっしゃい。手配は済ませておくわ」
「ま、まだ手を借りるって決めたわけじゃねーよ!つけあがんな、ブス!」

罵った瞬間、クレアに両頬をガッと鷲掴みされる。間近に見た彼女の顔は、同年代の誰よりも美しく、そして今は恐ろしく見える。微笑んでいるのに、怒っているのがわかる。それもとてつもなく怒っている。グリエルモは本能的に命の危機を感じ取り、真っ青になった。

「少しお勉強しましょうね。まずは女性に対する礼儀と礼節を、骨の髄まで」


後にGと名を改めた彼は言う。あの時の彼女ほど恐ろしいものは、後にも先にもなかったと。
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