仮面の男
瀉血処置を受けた翌日、クレアは記憶の渦から現実へと浮上した。自然に目を開くと、鬱々しい夜の暗闇に見慣れた屋根が広がる。首を横に傾ければ、寝台に頭を乗せて眠るジョットが見えた。涎を垂らして眠る、少し間抜けな寝顔が可愛らしい。彼を腕に抱いて死に、彼の腕の中で目を覚ましたことが思い出される。今、クレアはまた彼に見守られて目を覚ましたのだ。
目の前で失われた来世。それを取り戻すために払った代償は大きい。それでも、生きている彼を見て、こんなにも幸せになれるのならば、誤りではない。

「ずっと、傍にいてくれたのね」

確りと握り締められた手を慎重に解き、クレアは眠る彼の頬に触れた。今はただ、生きて血の通った彼に触れられることが嬉しい。

「……goodnight, my love」

少年らしくまろい頬にキスを落とし、クレアは寝台を離れた。



靴を履くと音を立ててしまうため、クレアは裸足で家を抜け出した。乾いた土と芝草の感触に、あの霧の世界が思い出される。彼の手を掴めなかったときの絶望感。そして今、その手を掴んでいる幸福感。そのどちらもを与えた人を、どう思えばいいのだろう。

「近くにいるのでしょう、セピラ」

『眼』を使わずとも、セピラが近くにいることはわかる。記憶が戻ったとしても、あまりにも情報が足りなすぎるからだ。

「ちゃんと説明してくれないと動きようがないわ。それって、貴方達にとっても望ましくないことなのでしょう」
「まったく、可愛げのない物言いだ。英国の華が聞いて呆れるな」

道沿いのオリーブの木の傍に、黒い炎が立ち現れる。それは紳士然とした男の姿を露わにして、跡形もなく消え去る。その男の口から前世での呼び名が出たことに、クレアは微笑みを浮かべた。

「あら、花だからこそでしょう。愛されたくもない人に綻ぶ花があるのなら、お目にかかりたいものだわ」
「ふ、いかにも貴族らしい言い回しだ」
「おかげさまで。私の記憶が確かなら、貴方とは初対面のはずなのだけど」

皮肉めいた笑みを浮かべ、クレアは男に名を名乗るよう促した。セピラを呼んで、代わりにこの男が来たのには少し引っ掛かる所がある。しかし、彼がセピラの仲間である事は、先の言動から間違いないだろう。

「チェッカーフェイスと呼ばれている」
「そう。では私もそう呼ぶとしましょう」

クレアは彼を手で促しながら、家から離れて畑へと続く道へ進んだ。ジョットは眠っていたが、両親とロヴェッロは起きている。話し声を聞いた彼らがこの場に来るようなことは、たがいにとって望ましいことではない。畑へと続く野道を歩き、家の明かりが見えなくなった所で足を止めた。

「私の魂が守っているあのリング、トゥリニセッテの一角を担うというものだけど」
「ああ」
「あれは、明日にでもジョットさまに渡せばいいのかしら」

特別な力をもつリングだということは、霧の世界で聞いた。それを外せば、命を削るほど生命力を奪われることもないと。しかし、彼らがほかのデメリットについて意図的に口を噤んでいる可能性はある。ジョットに渡す前に、クレアは全てを確認しておきたかった。

「いや。あれを渡す前に、いろいろと準備が必要だ」
「そうでしょうね」

クレアは道端の切り株に腰かけ、ため息をついた。正直なところ、病み上がりの体にはこれだけの距離を歩くのも辛い。盗み聞きされる心配がなければ、家のベッドで話したかったくらいだ。

「あのリングは生命力を強制的に奪う代わり、使用者に大いなる力を与える。単純な戦力で換算するならば一旅団、いやうまく使えば一師団相当の力だ」
「一旅団?それはまた大層な力ね」

軍隊でいう一旅団はおおよそ一千五百から六千、一師団は六千から二万の兵力を意味する。最低でも一千五百人の兵士に相当する力といわれても、規模が大きすぎる。証拠がなければ信じがたいと、クレアは声音にいくらか揶揄を混ぜた。すると、チェッカーフェイスは懐から人の眼球を模した不気味なリングを取り出した。トゥリニセッテとは全く違う印象のそれを、手袋の上から指に嵌める。すると、眼球の瞳にあたる部分がぎょろりと不気味に動いた。

「これは石を砕いたときに零れた屑石の一つでね。どうも割れ方が良くなかったらしく、少し悪い癖がある」

白濁した宝石から藍色の炎が迸り、天を突かんばかりに広がる。炎の圧というべきか、凄まじい強圧に周囲の草花が一瞬でなぎ倒された。炎は攻撃する意図を伴わない、単純な力の顕現なのだろう。しかし、内包される力は強大にして苛烈、そのまま叩き付けても甚大な被害を与えられる代物だ。

「このようにリングに生命力の炎を灯せばいい。それがリングとの契約になる」

クレアは炎に恐れ慄きながら、それを悟られまいと両手を握りしめた。炎を一目見ただけで、男の言葉は冗談でなかったことがわかる。それが屑石で出せる力ならば、ジョットが持つ筈の指輪はどれほどの力を擁するのか。考えるだにおぞましい、そんなものを彼に渡さなければいけないとは。

「……ならば、その方法を教えてちょうだい」

話を先に進めるべく、クレアは問いかけた。全ては未来のためと、己の心に言い訳しながら。
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