死した二人
不安を訴えるジョットに誓った日から、数日後。火に呑まれつつある居城から、クレアは暴徒に襲われる領地を見ていた。領民が今まさに、反国王派クロムウェルの軍に虐殺されている。その断末魔に共鳴するように、クレアの心も天を突かんばかりに慟哭している。腕に抱いた愛しい人の抜け殻に視線を落とし、クレアはその頬に落ちた己の涙を拭った。一発の銃弾は彼の体に小さな穴を開け、その命を一瞬で奪い取っていった。盾となる時間さえ、クレアに与えてくれぬままに。

「ジョットさま」

愛する人。彼は領地をよく治め、民の暮らしを重んじる、清く正しき貴族の一人だった。
所謂オールドイングリッシュに属し、イングランド国王には忠実だが、国教会には従わぬ人であった。彼は常に領民の為に有り続けた。その人生には、誰かに殺される謂れなどなかった。あるとすれば、カトリック信者であった事だけだろう。
宗教的な違いから、彼は国教会やプロテスタントとは相容れなかった。しかし、どう考えればそれは無抵抗に殺されるに値する理由となり得るのか。
プロテスタントは自分勝手に他方を異端と見做して武力を振るう。土地と食料と金品を略奪し、人々を無差別に殺す。どれだけ面の皮が厚ければ、慈悲深き神が蛮行を許したと言えるのだろう。この信心厚き信徒を、不意打ちのように銃殺する権利を、神が与えたと。

「ジョットさま」

彼は民を思って生きた。民の為に立ちあがった筈の議会派に、どうして彼が殺さなければいけないのか。土地がほしかったのか。自分達が積み上げた借金を帳消しにするために。
議会がそれを承認したから、誰もかれもがこぞってアイルランドで暴れまわるのか。
クレアはそっと、己の涙で濡れそぼった夫の頬に触れた。近くに轟々と燃える火があるのに、彼の肌は恐ろしいほど冷たいままだ。その冷たさが、彼はもうここに居ないという事実を突き付ける。

「私、貴方が居ない世界なんて、生きていけません」

クレアにとって、ジョットは自らの全てだった。愛であり人生であり、この世に生まれた理由であり、生き続ける意味だった。彼が死んだときに、その全てが失われたのだ。おめおめと生き永らえる必要はなくなった。背後を振り返れば、炎にまかれた居城の瓦礫が落ちてくるところだった。体がバラバラになるような衝撃が、轟音と共に襲い来る。
骨身の砕ける音を聞きながら、クレアは瓦礫の下敷きになった。痛みは不思議となく、肉の体から命が零れ落ちていく、奇妙な冷たさだけが感じられる。

瓦礫がぶつかる直前に握りしめた、ジョットの手。その感触がまだ手の中にあることに、クレアは心の底から安堵した。目だけで彼を探せば、思ったよりも近くにいた。殆どが瓦礫に埋もれていて、顔もろくに見えない。しかし、ひどい癖のある金髪が見えればそれで良い。繋いだ手が離れなかったのだから、それ以上を望みはしない。
目を閉じると、渇ききった筈の目から涙がこぼれた。


それから長い間、クレアの意識は深海で揺蕩うように眠っていた。胸を締め付けるような喪失感に囚われて、そこから動けなくなってしまったのだ。悲しくて寂しくて、目を開くことがたまらなく恐ろしい。涙は止まるところを知らず、海を作らんばかりに流れ続けている。
彼が居たらならば、その優しい手で涙を拭ってくれたならば。涙などたちどころに止まって、彼を見るためだけに目を開くのに。瞼の裏の暗闇に太陽はない。クレアの人生を遍く照らしたジョットが居ないからだ。

彼に出会う前のクレアの人生は、何もかもが中途半端な混沌だった。それを光ある美しい世界に変えたのは、他でもない彼だ。彼は雷のように現れて、クレアの世界にただ一つの秩序として君臨した。その存在が消えれば、世界は崩壊して無という絶望へ変わる。
彼が与えてくれたものは全て、彼の死と共に手から零れ落ちた。クレアがもともと持っていたものは全て、婚礼の日に彼が捨ててしまった。だから、クレアの手にはもう何も残っていない。彼の死という絶望の他は何も。

「――クレア」

喪失の世界に、音が生まれる。愛した人の声だ。そんなことはありえない。彼は死んでしまったのだから。死はエンド、つまり戻ることのできない終わりを意味する。彼という存在は、その死をもって完全に消え去ったのだ。寂しさが極まって幻聴を聞いたのだろう。そう考えた瞬間、頬に温かな人の手が触れる。覚えのあるその触れ方に、クレアはドキリとした。
壊れものを触れるように繊細な、しかし此方の意図などお構いなしな触れ方だ。自分が触りたいから触るのだと言いたげな、自由なところが大好きだった。

「起きなさい、クレア」

消えない手の感触と二度目の幻聴に負けて、クレアは目を覚ました。目を開いた瞬間に消え失せる幻でも構わなかった。心の傷を抉り倒すだけの幻覚をかき消して、再び眠れるのならば。久方ぶりに見る世界は、眩しいくらいの光輝に満ちていた。
奇麗な金色の髪に、男性にしては線の細い美貌。優しく輝く琥珀色の瞳。思い出しては泣いていたその顔が、吐息さえ感じるほど近くにある。瞬きを何度繰り返しても、その幻覚は消えない。どころか、幸せそうに目を細めて笑い、安穏と言ってのけた。

「おはよう、クレア。君しては珍しく、お寝坊だね」
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