霧けぶる世界
「どうして、貴方はあの時……」

暴徒の襲撃を受けて命を落とした――ジョットも、クレア自身も。こうして、のんびりと笑って会えるはずがない。クレアは体を起こし、そのままその場に座り込んだ。周囲に視線を巡らせるも、見えるのは濃淡のない霧ばかりだ。芝生と灰色がかった空は辛うじて見えるが、場所がわかるような建造物は何もない。
ぐいと肩を引かれ、クレアは慌ててジョットを振り返った。思ったよりも近く、先程と変わらないような距離に彼の顔がある。

「あの、私……」

気恥ずかしさから身を引くと、かえって強引に引き寄せられる。彼の胸に手をついて、クレアははっと息を呑んだ。彼の命を奪った傷がない。彼は死んだのに、確かに死んだはずなのに。クレアを置いて、一人で先に逝ってしまったのに。確かにあった別離の瞬間を思い出し、クレアはくしゃりと顔を歪めた。

「クレア」

最愛の人の声が、自らの名を呼ぶ。その奇跡に心を震わせながら、クレアは瞬いた。視界を曇らせていた涙が粒と頬を伝って落ちていく。

「ジョット、……ジョット」
「辛い思いをさせた。すまない」
「いいえ。貴方を、悲しませるくらいなら、私は」

もし自分が先に死んでいたら、ジョットが悲しむことになる。失う痛みを知って、どうして彼にその痛みを負わせたいと思うだろうか。世界が崩れてしまう――そんな絶望感を、彼に与えてしまうくらいなら。嗚咽を堪え、クレアはジョットの肩口に額を摺り寄せた。

「私が、悲しんだほうがいいんです」
「……っ、この、ばか」

ジョットに引き離され、クレアは驚いて彼を見上げた。すると、どうしてか辛そうな顔の彼と目が合い、思わずきょとんとする。

「知らないだろう?お前が悲しんでいるとき、俺は喜んでいたんだ」
「……?どうして、喜んでいたのですか」
「お前が死ぬだろうから」

よくわからない。そう言いたげな妻の顔を見て、ジョットはぽつりぽつりと説明した。

「俺は知っていたんだ。俺が死んだら、お前が死地を共にするつもりだって」

クレアには少しでも長く生きてほしい、それも辛い思いをするよりは幸せであればと思う。しかし、彼女が自分の傍を離れて幸せになることは許せないし、あってほしくないと思う。相反する二つの願いはジョットの胸の中で、拮抗しながら両立していた。そして、今わの際に均衡は崩れ、彼女の死を願ってしまったのだ。

「俺はお前が泣いたことに安心したんだ。一緒に死んでくれるって、わかったから」

絶望に満ちた涙を見れば、クレアがジョットの背を追うことは予想が付いた。死他の男に触れられることのない、死の世界へ連れていくことができるのだ。つらつらと吐きだされる本心を聞きながら、クレアはパチパチと目を瞬かせた。本当に彼が言っているのだろうか。都合のいい幻聴ではないのか。クレアは思わず自分の頬を抓り、夢や幻でないことを確かめた。その仕草を誤解したのか、ジョットはさっと蒼褪めた。

「失望した、だろう。すまない、だがわかってくれ、俺は」
「いいえ、失望だなんてとんでもない。私はとても幸せよ。昇天してしまいそうだわ」
「えっ、なんで」
「だって、貴方の期待に添えたのだもの」

死ぬ前に少しだけ、クレアは後追いすべきか悩んだ。なぜ生きなかったと詰られる可能性も、無くはなかったからだ。しかし、結局は彼のいない世界に耐えきれず、故意で事故死を選んだ。その選択が彼の心に適ったのならば、それ以上の喜びはない。

「そういうものなのか?」
「ええ。私は貴方に独占されるの、とても好きよ」

独占欲は、多くの人間にとっては煩わしい――時に恐怖にさえ値する――ものだ。しかし、ジョットの示す独占欲は、クレアにとって最上の愛情なのだ。彼のために生まれて、彼のために生きて、彼のために逝く。己の全てが彼を中心に形作られることが、クレアにとっては何よりの幸せなのだ。
有りっ丈の愛情を込めて微笑めば、ジョットは狐に抓まれたような顔になった。そして、照れくさそうに笑み崩れて、安心したと言わんばかりの声音で言った。

「俺の愛した人が君で、良かった」


ひとしきり再会を喜んだあと、二人は現状に対する疑問に触れた。視界を覆い隠すほどの霧の中を並んで歩き、現在地を知る手掛かりを探す。その結果、この平原に小川があり、それ以外には何もないことを知った。領地より遥かに広大なのに、建物はおろか小石一つ見当たらない。誰かが小川と下草と霧で誂え、それ以外を排除したかのように。行き場をなくした二人は、取りあえず小川のほとりに腰を落ち着けた。

「此処はどこなのでしょう」
「さあ……現世ではないだろうが、天国でも地獄でもないようだ」

教義で聞いた天国は、神の御許であり楽園とされていた。そして地獄は責め苦を受ける場であり、血の池や灼熱地獄があると聞いた。しかし、二人が死後に目覚めたこの場所は、どちらとも似つかない。楽園と言うにはもの寂しく、地獄と言うには平穏すぎる。

「手掛かりらしいものは全くないし、これは考えても無駄だな」
「そうですね……では、どうせならば、この世界を楽しみましょうか」
「ああ。お互い死んだ身だ、人目を気にせず遊んでもいいだろう」

元来は楽観的な二人は、早々に追及を諦めて遊び始めた。小川以外には何もない世界だが、二人いれば遊ぶ方法には困らない。なにより、その世界には自由があった。しきたりと衆目に縛られて生きた貴族にとって、それは何よりも魅力的な要素だった。
意味もなく湖畔を追いかけあったり、芝生の上を転がったり。ジョットは裸になって泳ぎ、クレアもスカートの裾をたくし上げて浅瀬に入った。どれも生前にすれば顰蹙を買う行いだが、この世界でそれを咎める者はいない。のびやかに、ありのままに振る舞える喜びを、二人は目一杯に謳歌した。
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