大空へ放つ
彼と約束をした日から、ちょうど一年後の昼だった。グリエルモが、追手を撒きながらクレアの所へ駈け込んで来た。その時、クレアはサンタ・クローチェ教会にジョットの鐘楼を登っていた。愛した人と同じ名前の人が作った、建造物を見るために。
たとえその人が、全く関係のない赤の他人でも。建物の殆どは弟子が作ったもので、当人は基底部分しか関わっていなくとも。愛した人の響きを感じる場所を、見たかったのだ。
四百十四段ある階段を、三十ほど上ったところで、クレアは足を止めた。荒い息遣いと、落ち着きのない足音がガンガンと響いたからだ。その音の原因はすぐに階段を上って、クレアの前に来た。

「連れて行ってくれ、頼む。ちゃんと約束のものを持って来たんだ!」
「まあ、どうしたの、そんなに急いで」

悲痛な、けれど何処か憤怒にも駆られているように見える表情。震える手には指輪が握られている。新年の祝いの時に、彼が母に強請ったものだ。

「大公の兄が、死んだんだ。神聖ローマ帝国の、皇帝が」
「では、次の皇帝は?」
「大公――俺の父がなるらしい。家族みんなで、愛人とその子も一緒にウィーンに移るって」

外から、彼を呼ぶ声が聞こえた。おそらく、彼を探して追いかけてきた憲兵隊だろう。

「冗談じゃない!オーストリアに妾制度はないんだ。絶対、今よりも奇異の目に晒される!」

愛人である母は、正妃と仲がいい。だから、大っぴらに苛められる事はない。しかし、グリエルモは嫡子達と仲が悪く、母の立場も弱いから絶対に苛められる。大都会の、魔窟そのものの社交界に、彼の精神が耐えられるとは思えない。フィレンツェの宮殿でさえ、彼は適応できていないのだから。

「俺はウィーンに行きたくない。行きたくないんだ。だから、助けてくれよ……!」
「私の手を取れば、貴方は貴方でなくなるわ。それでもいいのね」

自由を得る代わりに、彼は大公の庶子グリエルモ・モイランディという個を失う。誰とも全く縁のない、一人ぼっちのただの子供になるのだ。

「いい。だから、頼む」

藁にも縋る勢いで、ドレスの袖を掴む手。絶望と不安が入り混じった表情。彼は何も覚悟していない。ただ逃げてきただけだ。そして、逃げた先で、生きることは須らく戦いなのだと知るだろう。生きるために賢くなれば、クレアの苦労も無駄ではなくなる。

「わかったわ。助けてあげる」

クレアの返事に、グリエルモは安堵した。彼女が助けてくれるなら、逃げられる。そう思った瞬間、背後から凄まじい衝撃を受けた。為す術もなく倒れ、階段を四、五段ほど転がり落ちる。目だけで見上げると、クレアと並んでシスターが立っていた。手には鞘におさめた剣を握っており、それで殴られたのだとわかる。目の前で人が殴られたというのに、クレアにはまるで怯えた風がない。
微笑んだ彼女の顔は、依然美しいままで。この暴挙は彼女が仕組んだものなのだと、その微笑が物語っている。コツ、コツと音を立てて、彼女が階段を下りてくる。すぐ傍まで来ると、彼女は傍に跪いた。逃げたいのに、頭がくらくらして立つことさえできない。

「な、にを……」
「ごめんなさいね。貴方に見られると困るのよ、いろいろと」

疑念に満ちた彼の目を、クレアは手で覆った。クレアの纏う雰囲気がざわりと変わり、その体から黒い炎が立ち上る。その身を燃やすように広がる、黒い炎。これはセピラがくれた、『箱』の力だ。それはグリエルモの体を包み、一つの『箱』へと変わっていく。
彼を隠し、安全に持ち運ぶためには、こうするしかないのだ。指輪の『箱』とは別の、魂の一欠片を切り分けて作った『箱』に収めるしか。

「心配しないで。きっと、親切な人に助けてもらえるわ」

『箱』は殆ど完成している。あとは、目を覆っている手を引けば終わりだ。

「できれば、その人の傍にいてあげて。とても優しい人だけど、傷付きやすい人だから」
「……?誰の、話を……」

彼の問いを無視し、クレアは手を離した。黒い炎はまたたく間にその隙間を埋め尽くし、一つの完成された『箱』となる。その輪郭はすぐに綻び始め、また黒い炎へと戻っていく。『箱』のまま運ぶと人目につくため、一度クレアの魂に戻すのだ。『箱』を魂に戻しても、中のものはそのままだ。次に『箱』にするまで、全く変わらぬ状態で保存される。
黒い炎はクレアの胸元へ流れ込み、その魂へと戻っていく。欠けた一ピースが埋まる感覚に、クレアは思わず安堵のため息をついた。

「彼をどうされるおつもりですか」
「ジョットの元へ送るわ。彼の親友にぴったりでしょう」
「地位も権力もない人物が必要だと?」

クレアは階段を下りる足を止め、背後のレナータを振り返った。彼女には心底理解できないらしい。確かに、そうかもしれない。神聖ローマ皇帝の庶子として成長させた方が、役に立つかもしれない。しかし、クレアがグリエルモに見たのはパトロンとしての価値ではない。

「彼は、最も身近で、全幅の信頼をおける仲間になるの。パトロンなんて他でも務まるでしょう」
「はぁ」
「右腕になれるのは一人しかいない。わかったら、早く帰りましょう」
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