期待はずれ
鐘楼の外に出ると、道は憲兵隊で溢れかえっていた。その中の一人がクレア達を見つけ、駆け寄ってくる。

「シニョーラ、グリエルモ殿下を見かけませんでしたか?」
「鐘楼の中ですれ違ったわ。上へ昇ったかはわからないけれど」
「ご協力、ありがとうございます」

憲兵隊をかわし、クレアは辻馬車に乗って家に戻った。騒動が静まるまで、彼を隠した『箱』は送れない。憲兵隊に検閲を要求されると困るからだ。

「騒動が静まるまでに、準備をしなければね」
「準備ですか?」
「ええ。せっかくなら、より役立つ人になってほしいもの」

彼の頭脳を鍛えるための教材と、彼の生活を支えるための資金が必要だ。貧農暮らしの合間にも、彼がジョットの右腕に相応しく育つように。グリエルモは、大切なものがほしいと言っていた。そのために頑張れる人になりたいと。彼はきっと、ジョットのために頑張る人になるだろう。

「楽しそうですね」
「ええ。まるで大空を羽ばたいている気分よ」


グリエルモの失踪から半年が過ぎた、ある雨の日。レナータは例の『箱』を、シチリア北西の山頂に位置する街へと運んだ。その街には、ジョットとその家族が住んでいる。ほんの二か月前まで、彼らは匪賊に追われてイタリア中を逃げ回っていた。
匪賊を嗾けたのは、チェッカーフェイスだ。修行に最適なこの街に追い込んで、他所へ行かないようにするために。

昼夜を問わず襲撃され、彼らの母は恐怖のあまり正気を失ったらしい。ジョットもロヴェッロも、だいぶ人格が変わったと聞いている。レナータは、どんな風に変わったかは知らない。さほど興味もないし、仕事をする上で必要な情報でもない。ただ命令されたとおりに、件の少年を路上に捨てればいいだけだ。彼らの家の前で『箱』を開き、意識のない少年を石畳の上に転がす。あとはなるようになるだろう。人目を気をしながら、レナータはその場を後にした。


そして、彼女が去ってすぐ、ジョットは行き倒れと思しき少年を見つけた。赤い髪の、身なりの良い少年だ。年のころはジョットと同じくらいだろう。傍には手紙と小銭の入った財布が転がっており、何かしら事情があるらしかった。とりえず部屋の中に運ぶと、彼はすぐに目を覚ました。そして、ジョットが差し出した手紙をじっくりと読んで、突然怒りだした。

「ふざけんなあああ!あンのクソアマ絶対殴る!ブン殴ってやる!」

手紙をびりびりに破って窓から捨て、叫んだ言葉がこれである。財布を床に叩きつけ、彼は肩を落として問いかけた。

「ここはどこなんだ?あんたはこの家の人か?」
「あ、ああ……そうだが。ここはエーリチェだ」
「エーリチェ?」
「ひぃっ」

鋭い眼光で睨まれ、ジョットは反射的に飛び上がって弟の陰に隠れた。身なりの良さから上品な人だと思ったのに、言動はまるっきりチンピラだ。尋常ない怒りようも相俟って、怖いことこの上ない。命がけの逃亡生活で、ジョットは悪人面で粗暴な人が苦手になった。正直なところ、そういう人を見ると怖くてたまらなくなる。
弟の陰で震えていると、少年は少し傷付いたように顔を背けた。その横顔は、群れから逸れた羊みたいに、不安で彩られている。恐ろしい形相がやにわに寂しげに見え、ジョットは目を瞬かせた。彼は床に叩きつけた財布を拾い、埃を叩いて懐に仕舞った。

「……邪魔したな」

そう言って出て行こうとする彼の服を、ジョットは咄嗟に掴んだ。なぜかわからないが、彼をこのまま送り出してはならないと思ったのだ。

「おまえ、名前はなんて言うんだ?」
「名前?俺はグ……」

――二つ。自分の素性を、決して口外しないことクレアの声が耳元で蘇り、グリエルモは慌てて口をつぐんだ。

「名前なんか、ねーよ。じゃあな」

ジョットの手を振り切り、グリエルモは雨の降る街へと駆け出した。引き留めようとする声が聞こえたが、振り返らなかった。失望と怒りが胸に込み上げ、噛み締めた歯がギリリと音を立てる。あの女は、嘘をついた。なにが、親切な人が助けてくれる――だ。
拾ってくれた少年達は、社交界の連中と何も変わらない。黒髪の少年の目には侮蔑と嫌悪の色があった。金髪の方は、恐れ、関わりたくないと言わんばかりの目付きだった。

どちらも、社交界でいやというほど見てきた目だ。それらから逃れるために来たのに、結局同じような目で見られるのだ。グリエルモは勢いのまま、城門を出て山道を転がり降りた。どうやら街は山の頂上にあるらしく、麓を見れば雨のなかに明かりが見えた。こんな、石畳の街ではだめだ。もっと田舎の、農村の、貧しいところへ行かなければ。
クレアの言った、優しい人はそういう所に居る筈だ。グリエルモは希望を信じ、山道を下って、明かりの方へと急いだ。


フィレンツェの自室で、クレアは彼の姿を千里眼で見ていた。堕ちてなお理想に縋りつく彼に、思わずため息が出た。

「どこへ行っても、そんなものはないのに……」
「どうなさいますか」
「だめね。せっかくの機会を、ふいにするなんて」

彼はジョットの元を去るべきではなかった。何に傷付いたかは知らないが、それは誤った選択だった。

「用済みだわ。身元を明かそうとしたら、始末して」

冷徹にそう言い捨て、クレアは自らの勉強に戻った。
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