思い出の為に
スフォリアテッラを手に取り、クレアは口いっぱいに頬張った。このお菓子には、サクサクした食感のリッチャと、しっとりしたフロッラの二種類がある。
クレアはセモリナ粉の味がしっかりとしているフロッラの方が好きだ。生地がしっかりとクリームを守っているので、レモンリキュールの風味もよく感じられる。

しかし、今はどれだけ噛んでも味気なく、麩パンのようにしか感じられない。千里眼で見た、『森』の一族の末路と、生き残った少年の顔が、頭の中でぐるぐると回っている。
血腥さには慣れても、喪失にはなかなか慣れない。

「絵は買いに行かなくていいのですか?あのままでは変でしょう」
「え?ああ……」

パーティーは明日に迫っている。当日の衣装、会場の外装と内装、それにワイン。その他、万端あますところなく、細心の注意を払って整えた。
決まっていないのは、猟の結果で左右されるディナーのメインと、絵を外したままにしてあるところだけだ。

「いいの。みんな下見に来ているのでしょう?プレゼントの中から選べばいいわ」

無駄のない、しかし隅々まで心配りの行き届いた会場。その一角に、明らかに絵を外したままにした場所を無造作に放っているのだ。
壁紙の焼け方が異なる、長方形の白い壁――それは、継承問題に気を揉む多くの人の意識に、深く印象づくことだろう。プレゼントの中身は大方それで決まる。

「珈琲はいかがですか。紅茶は上手に淹れられるか自信がなくて……」
「ありがとう、いただくわ」

『晴』なりの気遣いを感じ、クレアはつとめて穏やかに微笑んだ。自分がどれだけひどい状態かは、指摘されずともわかっている。
泣き疲れて眠ってしまうくらい、泣きに泣いたからだ。

「ねえ、ニー。兄様は超直感をお持ちなのよね」
「はい。血が繋がっていないのであれば、ただ勘が鋭いだけかもしれませんが」
「私が秘密を知ったことも、察してしまわれるのかしら」

クレアは棚から睡眠薬の瓶を持ってきて、ニーの淹れた珈琲に二錠ばかり入れた。ニーとの交渉が済んだあと、深く眠るためだ。
ザンザスは今夜必ず、日記を確かめに行く。それを千里眼で見るわけにはいかない――見てしまったら、彼の傍に居られなくなる。

「私は、兄様と仲良くしたい。いつか道を違えるとしても、それまでは一緒に居たいわ」
「それは、……かえって、辛くなりませんか」
「いいえ、思い出が慰めになるのよ。地下牢では、そうだったもの」

ジョットの死を知った時、クレアは一人で地下牢に居た。当時を知る人も、心強い友もなく、心を慰めてくれたのは思い出だけだった。
裏切らず、傍を去らず、友に居てくれるのは思い出だけなのだ。

「だから、知ってしまったことを、その時まで『箱』にしまおうと思うの」
「そんな事が出来るのですか」
「ええ。自分で開けられないから、鍵を誰かに託さないといけないけれど」

クレアは懐から私書室の鍵を取り出し、テーブルに置いた。誰に知られることなく、ザンザスの出生を隠し続けてきた鍵だ。
同じ秘密を『箱』の中に封じるのだから、鍵はこれが相応しい。

「記憶の鍵は、貴方に任せたい。持っていて、くれるかしら」
「私に……?彼女たちにではなく?」

チェルベッロは、クレアが借り受けた手駒だという。言いつけを守れず、九代目に突撃するような自分より、よほど信頼できるのではないだろうか。
ニーは神経質に強張った手を握り締め、今さらながらに問いかけたことを後悔した。返事を聞くのが――彼女に肯定されたくない。

「貴方は私の味方でしょう、ニー」
「勿論です。貴方は九代目と同じ側に居るのですから」
「でも、彼女達は違う。鍵を任せるほど信頼もできない」

クレアは彼女達を信用している。しかし、決して信頼してはいない。彼女達の第一目的は安全かつ確実なリングの継承であり、継承者の適性に重きを置くクレアとは優先する者が違う。
ザンザスに肩入れしている現状では、彼女達に鍵を預けない方がいいのだ。

「鍵を受け取ったら、九代目の傍に戻って。私は記憶を消して、兄様の庇護下に行くわ」
「な……それは危険すぎます!真実を知ったら、彼は……」

ニーは言い淀み、首を横に振った。継承をめぐる争いに、彼女は長く身を置いている。誰がどう動くかなど、ニーが語るまでもない。
真実を知ったら、ザンザスはまずクレアを問い詰めるだろう。そして、彼女が知らないと分かれば、九代目を責める。彼の激しやすい性格を思えば、殺し合いにまで発展するかもしれない。

しかし、たとえ九代目を殺したところで、血筋ばかりはどうにもならない。血族でなければ、指輪を継承することも、ボスの座に付くこともできない。
彼がそれらを諦められないのなら、またクレアのところに戻ってくる。拒まれることを承知の上で、自らを選ぶよう強要するために。

「大丈夫、殺されることはないわ。私が居なければ、継承式を開くことはできないもの」
「……拷問されるかもしれません」
「いつものことよ。そして、私が屈した事は一度もないわ」

きらりとクレアの目が光るのを見て、ニーは唾を飲み込んだ。決意を固めた九代目と同じ、決して揺らぐことのない覚悟の光だ。この目をした九代目には、『嵐』でさえ勝てたことがない。
ニーは敗北を認め、鍵を手に取った。数多の秘密を束ねたそれは、陽光を閉ざす雲のように重い。

「いつまで、彼の傍に?」
「貴方が助けに来てくれるまで」
「間に合わなかったら……」
「いいえ。貴方は必ず、私を助けに来てくれる。信じているわ、ニー」

ニーは鍵を懐に入れ、クレアの体から『箱』の炎が立ち上るのを眺めた。記憶を封印するという作業が、実際に何をどうするものなのか。
ニーには想像もつかないが、クレアの様子を見れば、決して簡単でないことは窺える。その身を炎で焼く彼女の顔を見て、ニーは改めて彼女の心痛を思った。

ザンザスのことがよほどショックだったのだろう、彼女はここ数日で更にやつれてしまった。身形だけはいつもと同じようにしっかり整えているのが、かえって痛々しいほどだ。
今の彼女を見れば、ザンザスでなくとも彼女の変化に気付くだろう。

炎が消え、クレアは目を開いた。その目に苦悩の色はなく、やがて困惑の色が滲む。忘れてしまったものを探すように、彼女の視線が中空を彷徨う。

「……?ごめんなさい、ニー。私達、何の話をしていたのかしら」
「覚えていらっしゃらないのですか」
「え、ええ……絵の話をしていたのは、覚えているのだけど。その後は……」

本当に記憶を封じてしまったらしい。ニーは一瞬、今ここで鍵を出してしまいたい衝動に駆られた。記憶を取り戻した彼女には叱られるだろうが、辛い未来からは遠ざけてやれるかもしれないと思ったのだ。

しかし、ニーは瞬き一つの間に諦め、衝動を抑え込んだ。鍵を出したところで、彼女は覚悟を曲げたりしない。また同じことをする羽目になるだけだ。
二度目は鍵を預けてくれないかもしれない。それなら、このままの方が良いだろう。

「途中で眠ってしまわれたのです。疲れているのでしょう」

ニーは微笑み、クレアの頬に触れた。親指の腹で目の下の隈をなぞれば、敏い彼女は無駄な反論を止めた。珈琲をくいと飲み干し、お休みの挨拶をして寝室に下がった。
クレアは鈴を鳴らし、メイドを呼んだ。ニーが声をかけてくれたのか、さほど間をおかずにやってくる。彼女に髪を解いてもらいながら、クレアは明日の予定に目を通した。

明日は誕生日パーティーだ。オペラ・ブッファのごとく、全ては予定調和に終わるだろう。
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