霞む前途
骸は山を下り、幻術で姿を隠しながら件の高級車に近付いた。なるほど確かに、町に不似合いな高級車だ。
綺麗に磨かれており、手入れに相当の金をかけていることが窺える。
町で一番良いホテルの駐車場にあるわけだ。見張りが付いていないことを考えると、ただの成金かもしれない。

いささか拍子抜けだが、戦わずに済むならそれに越したことはない。骸はそんなことを考えながら、背伸びして車を覗き込んだ。
金目のものは積んでいない。煙草で一杯になった灰皿と、助手席にビジネス用の黒革の鞄があるだけだ。

「っ……!」

鞄に刻まれた紋章を見た瞬間、移植された左目に激痛が走る。どろりと血の滴る感触がして、骸はたまらず目を抑えてしゃがみ込んだ。脳裏に目まぐるしく情報が駆け巡り、不意に記憶が弾けた。折りたたまれた紙を差し出す男、それを受け取るしなやかな手。手だけが見える人物は女性で、この記憶の主体だろう。彼女が紙を開くと、そこに紋章の図面が見えた。

支配者階級を表す青の盾、その中央には近代的な意匠である銃弾を一つ。盾の上には交差した二つのライフル銃、その上には天使の羽と永遠の象徴たる二枚貝。
盾の両脇には躍動感のある水流が、盾の下の巻物には文字が書かれている。alter Franciscus――『もう一人のフランチェスコ』だ。

「おい、ガキ」

背後から呼ばれ、骸は急に現実に引き戻された。女性の記憶が途切れ、情報の奔流も堰き止められたように大人しくなる。恐る恐る振り返ると、いかついモヒカンの男が背後に立っていた。黒いスーツ、黒い革靴、少し下がった左肩――間違いなく、銃を所持したマフィアだ。

商売が成功し、故郷に凱旋しにきた成金とは違う。穏やかだが一分の緩みもない雰囲気や、攻撃に即応できるように用心した立ち姿、どこをとっても堅気ではない。なにより、サングラス越しにも分かる荒んだ人殺しの目が、彼の職業を教えてくれる。

「傷なんて付けてないよ、見てただけ。こんなにカッコいい車、初めて見たから」

骸は咄嗟に振り返り、地元の子供を装った。もしホテルの中に男の仲間が居たら、狙撃される恐れがあるからだ。いかに優れた術者でも、相手を認識しなければ幻術を掛けることはできない。
悪戯好きの悪ガキと勘違いさせて、追っ払われよう。そうすれば、自然な形で逃げられるはずだ。殴られるかもしれないが、それくらいは仕方ない。骸はいかにも怯えたふりをして、男の怒鳴り声に備えた。
しかし、男は思わぬ反応を見せた。サングラスを外し、両目を見開いたのだ。まるで、亡霊でも見たかのように、震えながら指差して。

「その顔、まさか……!」

クロッカンは両目を見開き、少年の顔を凝視した。彼の顔はあまりに――あまりにも、記録にあるデイモン・スペードに似ている。他人の空似というレベルではない。多少の幼さは違えど、本部に飾られた肖像画とまったく同じだ。

あの情報は嘘ではなかったのか。驚嘆と困惑が胸中に去来して、クロッカンは当初の目的を思い出した。もし本当にデイモンがいたら、聞かねばならぬ。国を揺るがすほどの争乱を起こして、何を企んでいるのかを。

「なぜ、争いを巻き起こすんだ。沢山の人が巻き込まれて死んだんだぞ」
「争い?何のことだか、僕には……」
「しらばっくれるな。お前の正体はわかっている」

どうやら、子供のふりをしても無駄らしい。骸がエストラーネオの関係者であり、追われている者であることを男は知っているようだ。追手ではないようだが、さりとて見つかった以上は捨て置くわけにもいかない。
骸はホテルの窓を横目で窺い、舌打ちした。上品な分厚いカーテンに遮られて、何も見えない。敵の陣中で付け火をしたくはなかったが、やむを得ない。男が冷静になる前に先手を打つしかない。

「クフフ、おかしなことを聞く。始めたのは、貴方達だ」

骸は体を少しだけ捩じって、体の影で三叉の槍を作り出した。右目が熱を帯び、幻覚で作り出した霧が二人の間に漂い始める。男は幻覚に動揺し、デイモン――悪魔と叫んだ。陳腐な罵倒を鼻で笑い、骸は槍を振りかぶり、男に跳びかかった。



クレアは千里眼を使い、シモンの末裔たちの様子を見た。引っ越しに追われる者、隠れ家の屋根裏や地下で、息を潜めて生活をしている者。みな襲撃に怯えたり、不安からか落ち着きない動きをしたり、苛立っている。

『沼』の生き残りは、アメリカへ向かう飛行機の中にいた。隣にはアメリカから駆けつけた叔母が座り、前後左右をマスコミ対策のため警察関係者が固めている。叔母が何くれと話しかけているが、たまに頷くくらいしか返事はない。

『森』の子供は警察病院に居た。殺人犯やマスコミから守りながら、PTSDに対応するためだろう。少年――紅葉は、フィリーネよりもだいぶ強いショックを受けていた。暗所と赤色を嫌い、パニック発作を繰り返し、食事や睡眠もまともにできていない。両親の死を目の当たりにし、一晩も一人で山の中に居たのだから無理もない。

正直なところ、クレアには彼が生きていることが不思議でならない。なぜデイモンは彼を殺ず、捨て置いたのだろう。
『沼』の場合は見落とした可能性がないでもないが、『森』の場合は違う。デイモンは敢えて、『森』の子供を見逃したのだ。

シモンを憎悪し、滅ぼそうとしながら、子供は殺さない。どんな理由があれば、そんな矛盾した行動に説明を付けられるだろう。血を絶たねば意味がないことくらい、シチリアの誰もが知っているのに。

「……嫌な予感がするわ」

デイモンの奇妙な行動は大抵、きわめて質の悪い策謀へと繋がる。今回も、誰もが顔を顰めるような、陰湿で悪逆な手口で攻めてくるだろう。
現時点ではまだ、その策が如何なるものか予測さえできないのが腹立たしい。

「貴方は何を考えているの、デイモン」

黒のキングを突っ突き、クレアは溜息をついた。このままでは、シモンの血を絶やさずに済んだことを素直に喜べない。
いや、今は二つ目を奪われたことを危惧すべきなのだろう。

「……急がないと」

ザンザスは死の淵へ歩き出した。何かを間違えば、生死の狭間を用意に跳びこえて、向こう側へ落ちて行くだろう。
その可能性を考えるたび、クレアは胃を締めつけられるような不安に駆られる。

彼が生存しうる可能性は、九代目がゼロ地点突破に至るか否かに掛かっている。方法は授けたものの、果たして老人が修行に耐えられるだろうか。

耐えてほしい、奥義を習得してほしい。今となっては、ただそう祈るしかない。クレアは溢るるままに涙を流しながら、今後の予定を暗号に変えて書きとめた。
たとえ、秘密を忘れたとしても、成すべきことを成すために。
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