Philine−沼の少女
謎の電話から数日が経ち、ドナート刑事は上司に捜査を打ち切りたいと申し出た。お蔵入りしたら最後、二度とそのファイルが開かれることはないと知った上での決断だ。

「馬鹿者!世間の目という目がこの事件に注視しているんだぞ!」
「捜査に進展が見込めないから止めたいなどと、私は言っていません」
「ならば尚更だ。お前はこの冷酷な殺人鬼を野放しにするつもりか?」

報告書の束をバサッと机に叩きつけ、警部はその上に身を乗り出した。近年とみに重くなった下腹にベルトが食い込み、腹立たしい鈍痛をもたらす。片手でぐいとスラックスをずり上げて、怠惰そのものである痛みを紛らわした。
その動作を冷やかに一瞥し、ドナートは何としても迷宮入りを拒もうとする上司のぎらついた目を見返した。それほどの執念があるならば、脂肪をすっかり消費するくらい事件現場で動きまわればいいのだ。そうすれば、希望の欠片もありはしない実情を、身にしみて理解するだろう。

「再犯を恐れているのなら大丈夫ですよ。この犯人は、もうドイツでは殺しません」
「なぜ貴様にそれが分かる?誰にも保証などできんだろう!」

犯人は凋落したマフィアの末裔を狩る者であり、無差別に人を殺して回る快楽殺人鬼ではない。数多の命を血の海に沈めたその手が、いわれなきドイツの民を殺すことはないのだ。ただ一人、奇蹟的に生き残った女の子――フィリーネ・エピフォーニアを除いては。だから、電話の少女はフィリーネをアメリカに送れと言った。

「大変です、警部!」

扉を壊さんばかりの勢いで、同僚の刑事が部屋に飛び込んでくる。その顔を見て、警部は事態がさらに望まぬ方向に進んだことを悟った。

「フィリーネの祖父母が、日本で遺体となって発見されました」
「なんだと?他殺か、自殺か?」
「他殺ですね。死因は毒、燐とヒ素です。イタリア産ワインに混入されていたようです」
「送り主は誰だ?イタリア人か?」
「いえ、それが……」

報告を躊躇い、同僚の刑事はかさかさに乾いた唇を舐めた。所在なさげに手を揉み、まったくもって理解し難い、何かの間違いではないかと言いたげだ。

「アヤネ・ヤマダ。夫婦の娘の、あの事件で殺された方です」
「馬鹿な!そんなはずないだろう、事件発生から何日経ってると思うんだ!」

死者が両親に毒入りワインを贈ったというのか。ミステリーならいざ知らず、現実には到底ありえないことだ。他の誰かが送ったか、ワイナリーの主人が注文を忘れていたかに違いない。

「ワイナリーの名前を聞いておけ。重要な手掛かりだ、絶対に調べ上げるぞ」
「はい!」
「捜査は打ち切りにはできない。わかったか、ドナート」

来た時と同様に、同僚はけたたましい調子で部屋を出て行った。扉が閉まったのを確認してから、彼は溜息をついた。何と言えば、得意げに笑う上司に勘違いだと教えることができるだろうか。

「警部、カンタレラをご存知ですか」
「いや。なんだね、それは」
「毒ですよ。イタリアの、それも貴族の毒だ」

燐とヒ素と聞いて、ドナートにはピンと来た。それはルネッサンス期のイタリアで、ボルジア家が多用した毒の成分とされているものだ。カンタレラ、正体不明にして、名のみを毒の歴史に華々しく残す貴族の毒。それが数多ある毒の中から選ばれたのには、理由があるはずだ。
一説によると、最も強いシチリアマフィアは格式ある貴族の家より生まれたという。ならば、これはマフィアの手によるものとなる。ただし、手口が違いすぎるから、エピフォーニア一家を殺した犯人ではない。

順当に考えるなら、犯人は電話の少女だ。フィリーネが確実にアメリカへ行くように、日本という選択肢を潰した。そして、それを教えるために、わざわざカンタレラを用いた。忠告を聞き入れない者に対する警告、そして自らに近付かんとする者に対する牽制。フィリーネを守るためならば、誰を殺しても構わないという覚悟。
そして、自分は決して捕まらないという絶対的な自信――汚職を嘆く一方で、その恩恵に浴すという矛盾。彼女が用いた毒は、そうしたものが混ざり混ざった末にできた悪意なのだ。

「ワイナリーを調べるなら、カラビニエリとの共同捜査になります。彼らは同国人の味方をするでしょう」
「だから無駄だと?」
「ええ。犯罪者の片棒を担いだ警官が一緒に居るんですよ。ワイナリーの主人も決して口を割りません。時間と税金の無駄です」

上司が机の上にぶちまけた報告書をまとめ、ドナートはそれをファイルに戻した。それを、現場からかき集めた証拠品の箱に入れた。

「生き残った子には、何て言うんだ」
「彼女は全てを知っているはずだ。説明など求めていない」



――いいかい、フィリーネ。これから話すことは一生の秘密だよ。誰にも話してはいけない。友達にも、未来の旦那さまにもだ。自分の子供に話す時まで、ずっと自分の心に秘めておくんだ。独り言もだめだ。誰に聞かれるかわからないからね。

――私達はシモンという自警団の一員だ。それも、初代ボスの側近の一人を祖とし、沼の指輪を継ぐ唯一の血族なんだよ。マフィアはシモンを迫害している。もし守護者だと知られたら、私達は殺されてしまうだろう。

――それでも、私達は生き延びなければいけない。たった一人になっても。這ってでも、泥水を啜っても、家族を見捨ててでも。いつかの約束を守る日、守護者の一人としてボスを補佐するために。シモンを再興するその日まで、私達は血を絶やしてはならない。


「パパ……?」

配膳台のけたたましい音で目を覚まし、少女は白い天井を見て現実を思い出した。もうパパはいない。ママも、グランマも、グランパもいない。大好きなマグダレーナ伯母も、ベルダ伯母も、オイゲン伯父も、もういない。シモンを迫害する者達の手によって、みんな殺されてしまった。
扉をノックして、看護婦が朝食の膳を持って入って来る。食べる気がしなくて、フィリーネは背を向けた。

「おはよう、フィリーネ。朝食の時間よ」
「……」
「朝食はちゃんと食べないとだめよ」

そう言って、看護婦は無理矢理、机に膳を据える。フィリーネはいやいや横目でみやり、いつもと変わらないメニューに嫌気がさした。ナイフもフォークも使わない、スプーンだけで食べられるものばかりだ。
フィリーネは膳を眺めまわし、皿の下に挟まれていたペーパーナプキンを抓みあげた。
看護婦の方を見ると、何でもないような顔でこちらを見ている。もしこれが彼女の知らない異物なら、この時点で取り上げられているだろう。

記者に金を握らされて、情報を聞きだそうとしたのだろう。フィリーネがここに入ってから、そんな人は何人もクビになった。この看護婦もそうなるだろう。ナプキンに書かれた内容を読み終えたら、ナースコールを押せばいい。

――敵の気配を感じたり、不安に思うことがあれば、ランドルフの店に行きなさい。近所のアイスクリーム屋さんよ。話せば必ず、彼とその仲間が何とかしてくれる。

インクの少し滲んだ、神経質な文字。きっとこの看護婦が書いたのだろう。記者の差し金ではなさそうだが、意図が読めない。

「……これは、誰から?」
「世界の誰よりも、貴方達を案じている人からよ」

フィリーネには、そんな人がこの世に居るとは到底思えなかった。もし本当にそんな人が居るなら、どうして家族を守ってくれなかったのだろう。案じるだけでは、意味がない。そんな簡単なことも、その人は知らないのだろうか。

「読んだなら回収するわ」

フィリーネの手からナプキンをひったくり、看護婦はそれを握り潰して口に放り込んだ。可食紙に水性インクを使っているので、食べても何ら体に害はない。

「あとで膳を下げにくるから、それまでには食べなさい。いいわね?」
「待って」
「待たない。誰も君のことなど待ってくれない……わかるでしょ?」

看護婦は聞き分けのない子供を窘め、容赦なく扉を閉めた。彼女には、フィリーネのこれから先に待ちうける幾多の苦難が容易に想像できる。それはP2の者が生きた日々と何ら変わらない、愛も希望もない血の道だ。
待ってと懇願しても、何も一緒に立ち止まってはくれない。敵の攻撃も、貴重な時間も、死にゆく仲間の命も。逃げるために走り、生きるために追わなければいけないのだ。
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