紅葉−森の少年
彼は走った。母に手を引かれ、人里離れた森の中を走った。先を行く男たちが、急げ、急げと低い声で囁く。日が昇る前にこの山を抜けて、洞窟に身を潜めなければならないのだという。

「母さん、足が痛いよ。もう走れないよ」
「耐えなさい、紅葉。あと少しの辛抱だから」
「でも……」

なぜこんな風に走らなければならないのか、紅葉にはわからなかった。木の根っこに引っ掛けて挫いた足が痛かった。野茨の茂みを突っ切ったせいで、両頬がチクチクする。夜の濃い闇のなか、胸が悪くなるくらい甘い匂いが漂っている。
父に聞けば、これは何の匂いなのかわかっただろう。しかし、父はここにいない。最後に会ったのは、山に入る前――母と紅葉に祝福のキスをして、ホテルの部屋で二人を見送ってくれた時だ。

「ねぇ、お父さんは?どこにいるの?」
「……っ、いいから走りなさい」

見上げると、母は何かを堪えるように顔をしかめている。今にも泣きそうな横顔を見て、紅葉は母も走りたくないのだと思った。手を振り払い、その場にしゃがみこんだ。もう絶対走らないぞと言わんばかりに、両手で膝を抱え込む。

「何をしているの!走りなさい、紅葉!」
「やだ!もうやだ、走りたくない!」
「わがまま言わないの!あと少しで安全なところに行けるのに、どうして……!」

振り向いた母が、足を滑らせないよう慎重に戻ってくる。しかし、あと少しというところで、何かが弾ける音がした。母の顔がこわばり、瞬きの間に虚ろになる。目だけがくるりと天を仰ぐように回り、全身の力が抜けたみたいに倒れ伏した。

「母さん?母さん?」

何かがおかしい――子供心にもそう分かり、紅葉は母に駆け寄った。揺さぶっても、母は動かず、返事もしない。先ほどまで、あんなにも走れ走れと言っていたのに。そういえば、同じように急かしていた男達の声がしない。先に行ってしまったのだろうか。それとも、紅葉があまりに遅いから、置いて行かれたのだろうか。

思わず耳を澄まして、紅葉は山を包み込む不気味さに気付いた。世界に一人ぼっちなのではと思うほどの暗闇が、彼を押し潰さんとばかりに迫っている。聞き慣れない山鳥の鳴き声は低く、悪霊のうめき声のように。風が木々を揺らす音はいやに大きく、彼をからかうかのように不意に響く。

紅葉は声を上げるのも怖くて、地面に横たわった母の上に身を伏せた。朝日が昇ればきっと、この暗闇に潜む怖いものはいなくなるはずだ。早く朝になれ、朝になれ――彼は一心にそう願い、朝になるまで身じろぎもせずに待った。

白くぼやけた朝日のもと、紅葉は気付いた。母の頭には二つの穴が開いており、冷たくなった両腕はもう自分を抱きしめてはくれないことに。彼は勇気を振り絞り、洞窟へ続く山道を歩いた。ほんの数メートル先で、母子を先導していた男達が死んでいた。洞窟の入り口では、別ルートで山に入ったらしい父が、腹を真っ赤に染めて倒れていた。

その指先で地面を引っかき、体の影に残した文字を見て、紅葉は泣いた。vivi,combattere――生きろ、戦え。拙いイタリア語しか話せない父が、母に内緒で教えてくれた言葉だった。
もう少し、たとえば暗闇を恐れないくらいの勇気があれば。父の死に目に間に合って、この言葉を直に聞くことができたかもしれない。もう少し――いやもっと、自分に力が在ったならば。母と父と、三人で幸せに生きることができたかもしれない。

彼は泣きながら、その文字を消した。イタリアと関わりがあることを、誰にも知られてはいけないからだ。母の下へ帰りながら、声を上げて泣いた。山の向こうの、そのまた向こうまで響き渡るよう、あらん限りの声を振り絞って泣いた。何も知らない親切な登山者が聞きつけて、助けてくれるまで。


クレアは揺り椅子に全身を預け、目を閉じた。腹の上で両手を組み、両足を揺れるがままに任せる。少し意識して脱力するだけで、普段いかに緊張しているかが身に沁みてわかる。

「ずっと前から、いつも……」

ジョットの妹に生まれた日から、ずっと。何も見落としたくなくて、何も失いたくなくて。失敗するのが怖くて、何をするにも必死に頭を使った。それでも、幾つも間違えて、失った。人は万能ではないし、現実は思い描いたように動いてはくれない。
失ったものを数えると、心が折れる。だから、守れたものを数えるようにしてきた。しかし、今はそんな風に考えられない。『沼』の血が絶えてしまうのではないか。他の守護者の家も襲われてしまうのではないか――そんなことばかり、考えてしまう。

「……また、奪われる」

千里眼を開くと、山の中を走る二人の人影が見える。幼い子供と、その手を引いて走る母親だ。彼女の前には二人の黒服が居て、茂みをかき分けながら案内している。後ろにも二人、自動小銃を構えて周囲を警戒している。
生きようと頑張っているけれど、それは徒労に終わる。クレアが遣わせた人はみな、山の麓で一人残らず殺されてしまった。じきに彼らも、あの悪魔の手に掛かって死ぬことだろう。

二つ目を、奪われる。打てる手はすべて打ったけれど、駄目だった。他の家のことも、デイモンは知っているに違いない。なぜ知られたかは分からないが、それはいま考えるべきことではない。

「百を、奪って。それで、……時間を稼がないと」

かっと目頭が熱くなり、クレアは言葉を呑みこんだ。考えただけで、何もかもが呪わしくて、哀しくて。背もたれから身を起して、俯いた顔を震える手で隠す。暴風のように吹き荒れる感情に、ただ身を縮めて耐える。

デイモンを止めるには、彼が大切にしているものを――ボンゴレを攻撃するしかない。ボンゴレに大損害を与えれば、彼は立て直しに専念する。その間に、シモンの関係者達を安全なところへ移動させる。追跡できないよう痕跡を消し、職も名前も変えさせて、隠すのだ。
そのための手札は二つ、クレアの手元にある。一つはP2のメンバー全員での襲撃、そしてもう一つはザンザスを反乱に走らせること。後のことを考えると、使えるのは一つしかない。ザンザスに真実を教えて、九代目と争わせることだけだ。

「ごめんなさい、兄様。ごめんなさい。私、また、あなたを」

よく似た面差しの二人の兄を呼び、クレアは心の中で何度も詫びだ。ジョットを優先するあまり、彼の意を蔑にしたことを。同じように愛したくとも、どうしても差がついてしまうことを。寂しい顔を、させてばかりだったことを。辛い役目を背負わせてしまったことを。

「私、あなたを選べない……っ」

反旗を翻したら、ザンザスは罰せられる。反逆を許すほど、マフィアの世界は優しくない。九代目がそう望んだとて、ファミリーが許さない。二代目の生き移し、兄と呼んだただ一人を、犠牲にすることになる。
それに、もしそうなったら、九代目がどれほど心を痛めるか。想像するだけで胸が張り裂けそうになる。彼が生まれた時、クレアはその命を祝福した。幸きくあれと願い、そうはならない現実を憂えた。

ただデイモンの歩みを止めるだけの事に、大切な人を傷付ける。こんな手しか打てないことが、どうしようもなく惨めで、不甲斐ない。己の無能さが呪わしくて、クレアは目を閉じた。涙がほろりと頬へ落ち、肌に小さく痛みが走る。

最初の布石は、もうじき成ろうとしている。彼が戻って来て、それと知らずに成す。だから、クレアも次の手を打つ準備をしなければいけない。『箱』の炎を使い、ソファで酔い潰れて眠る『雷』を包む。善良な人。裏表のない、優しい人。
彼はきっと、こんなことを望まない。計画を知ったら、きっと阻もうとする。だから、今は――彼には、傍に居てほしくない。

「おやすみなさい、ガナッシュ。全てが終わった後に、会いましょう」

彼の入った『箱』を再び炎に戻し、クレアは扉が開くのを待った。駆け足で九代目の扉へ迫る『晴』が、千里眼に映った。
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