二人目
地面に転がっていたチンピラが、呻き声を上げて目を覚ます。ニーは嘆息し、彼の頭上に立ち、洗濯物を仰ぐ男の腑抜けた顔を覗きこんだ。まだ完全に覚醒したわけではないのだろう、ニーを見てもぼんやりとしたままだ。

「このあたりに、産婆は居ますか?できればベテランがいいな、ずっと昔から生業にしてる人が良い」
「産婆……?産婆に用があるのか……?」
「この私が、臨月の妊婦に見えるとでも?」

ニーはボケた男の肩を爪先で蹴り、少し低い声で脅しをかけた。その途端、男は弾かれたように起き上がり、オドオドとした様子でニーに向き直る。マフィアを世間知らずの旅行者と勘違いしたとはいえ、最初に突っかかって来た時とは随分と態度が違う。

「産婆か?心当たりは一人いるな。もう七十の婆さんだが、ここいらじゃ他に居ないから今でも現役だぜ」
「それはいい。じゃあ、その人のところへ案内してもらおうかな」

ニーは折りたたんだ十ユーロ紙幣を取り出し、男の胸ポケットにそれをねじ込んだ。途端に男は愛想たっぷりの笑顔になり、両手を擦り合わせてこう言った。

「もちろん良いぜ、付いてきな。チップを払う奴ならどこでも大歓迎さ」

恐喝の時とは一転して恭しい態度に、呆れとも困惑ともつかぬ感情が湧く。阿ることに慣れた人間を見るのは、あまり気分のいいものではない。それを嘆く人がいると知れば――自分にも同じところがあれば尚のこと――、複雑な気持ちになる。毅然としてほしいと思う一方で、そうできない理由も理解できるからだろう。

産婆が何かしらの情報をくれることを願い、ニーは男の後を歩こうと一歩踏み出した。そして、背後から微かな気配を感じ、素早く身を翻した。しかし、背後には誰もいなかった。曲がりくねった道なのであまり見通せないが、人がいるような感じはしない。

暗殺者がいる。それも、半端者ではなく、相当に腕の立つ輩だ。勘付かれはしても、守護者であるニーにそれ以上を読み取らせない。何者かの命でニーを抹殺しに来た者か、それともザンザスの手先か。どちらにせよ、産婆のところで話を盗み聞きされては困る。

「用が済むまでは、目立ちたくないんですよ」

ここで一戦を交えて、住民に怖がられても困る。ただでさえ聞き取りに難航しているのに、誰も家から出て来てくれなくなってしまう。もっとも、立ち聞きを許すくらいなら、後々に困った方が遥かにましではある。ニーはホルスターから銃を取り出し、わざと音を立てて安全装置を外した。

本来ならば威嚇射撃の一つでもするところだが、ニーは案内人を気遣うことにした。もし彼に逃げられたら、産婆を探すために大いに苦労しなければならない。ニーは銃を握ったまま、ジャケットのポケットに突っ込んだ。片手だけだといかにも不自然なので、銃を持たぬ手も同じように隠す。

「なにかあったか?兄ちゃん」
「いえ、何も。すぐ行きます」

付いて来ないのに気付いたのだろう、チンピラが不思議そうな顔でこちらを見ている。ニーは背後を一瞥し、何食わぬ顔で今度こそ歩き出した。



腹の底から恐怖に染まった老人を見やり、涼やかな無表情のクレアを見やり、ガナッシュは溜息をついた。彼女はマフィアの手法を軽蔑しながら、全く同じ手法をもって己の正義を敢行する。それも、己の行いがあらゆる定義において間違っていることを承知の上で行うのだ。
そうすべきと――そうしなければ勝てぬと、彼女の頭脳が判断する限り。心が後悔の海に沈もうとも、彼女が手法を変えることはないだろう。

「首尾は上々かい、プリンチペッサ。何をしたのか聞いても、教えてくれないんだろう?」
「全てを知る権利は、神のみぞ有するもの。人は己の抱え得る以上を知ろうとしてはならないわ」

そう言いながら、クレアはハンドバッグから一掴みぶんの便箋を取り出した。封筒のサイズも色もまちまちで、宛先も送り主も全て違う。筆跡までも一通ごとに変えており、追跡者の目を潜ろうという強い意志が感じられる。クレアはそれらをガナッシュに投げてよこした。

「帰り路のどこかで、適当なポストに投函してちょうだい」
「情報はくれないのに?」
「何も知らない方が安全だからよ。乾いた雑巾を絞る人はいないもの」

クレアは唇をへの字に曲げ、ガナッシュに背を向けた。拷問にかけるのかと聞いた時、彼は明らかに傷付いていた。協力したいという純然たる善意を、クレアに踏み躙られたからだ。
クレアとて、あんな顔をさせたかったわけではない。警戒心が先立ったとしても、彼の示した親愛を拒んでしまったのは、クレアの落ち度だ。
一番大切なものと天秤にかける時ならばいざ知らず、――。

「……協力して、くれるのでしょう」

後悔の海に錆びきった声でそう請い、クレアはワイナリーの玄関へ歩を進めた。背後で大男がソファから落ちたような音がしたが、構わず子供の手には重い扉を押し開く。
燦々と降り注ぐ太陽を見上げ、クレアは目を細めた。シチリアの太陽はいつも、苛烈なまでに照っている。
見上げる人の心にかかった陰鬱な雲など、ものともしない。

「じいさん、これ頼むわ!注文票!」
「人に投げるんじゃない、馬鹿もの!老人への礼儀を教わっとらんのか!」

酔っ払いの上機嫌な声と、老人の罵声。葡萄畑の上を旋回し、実りを待つ鳥たちの囀りにしては、聞くに堪えないものだ。遅れて隣に並んだガナッシュを見やると、まるで賭けに勝利した子供のような顔をしている。腹立たしいことこの上ないが、いつものようにやり込めるわけにもいかない。

「なあなあ、次は何をするんだ?」
「しばらくは、パーティーの準備よ。これまでと同じように」
「しばらく、なぁ……次に動くのはいつだ?」

問われて、クレアは空を仰いだ。太陽の輝く蒼穹、その遥か彼方には遠からぬ未来を暗示するかのごとく、片乱雲の影が見える。次に涙雨が降るのは、シモンの守護者達の誰かが死んだ時だろう。柄杓を象る七つの星が一つ消え、二つ消え――柄杓にいっぱい入っていた水が、零れ落ちる。

彼らを失うことは、その先に燦然と輝くポラリスを見失うことに繋がる。それは、イタリアという帆船が、未来という名の大海で迷うことを意味する。それだけは、何としても避けなければいけない。何を切り捨ててでも。

「いつ動くかも、教えられないのか?」
「いいえ。そうね、次に動くのは……もしまた、母熊の尻尾が短くなるようなことがあったらね」
「……?ちっともわからん」

なぞなぞめいた条件に、ガナッシュは首を傾げた。酔っているせいか、もともと頭に知識が入っていないせいか、いくら頭を捻っても何も閃かない。嵐に聞けば、何か分かるかもしれない。勉強嫌いのガナッシュと違い、彼はとても頭が良くて物知りだから、なぞなぞにはめっぽう強い。
早々になぞ解きを諦め、ガナッシュは車に乗り込んだ。自分用に買い込んだ大量のワインが後部座席で見つかり、お叱りを受けることになるとは思いもよらずに。
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