空は見えない
受話器を叩きつけた後、クレアは心の底から目一杯の苛立ちを込めて溜息をついた。視界の端で楽しげに笑っている男を一瞥し、また溜息をつく。

「ワインがお気に召したようね、ガナッシュ」
「おう!マルサーラワインは最高だ!」
「それなら、酒樽で葡萄と一緒に泳いでいらっしゃいな。アルコール漬けの頭も熟成させれば少しは使い物になるわ」

すっかり出来上がっている彼に冷や水のごとき言葉を浴びせ、クレアは溜息をついた。マルサーラに来たのは、三つの用事がここで済むからだ。一つ目は誕生日パーティで出席者に振る舞うワインを選び、注文すること。そのため、ワインの味見を彼に頼んだのだが、ただ飲むだけでちっとも選んでくれない。

マルサーラのワインはシチリア屈指の上物で、フォーティファイド・ワインに分類される。発酵の段階でブランデーなどのアルコールを追加するため、アルコール度数は通常ワインよりも四パーセントほど高い。しかし、子供の頃から飲み慣らしている人にとっては、四パーセントなど誤差の範囲だ。

「パーティで供するワインを選びに来たのよ、ガナッシュ」
「わかってるって。味見してから、ちゃんと選ぶよ〜」

間延びした語調には、何ら真剣みを感じない。クレアは手を額に宛て、溜息をついた。朝早く、出発の際にガナッシュが運転を部下に任せた時点で察するべきだった。名前を付けるくらい大切にしている愛車を、彼がやすやすと他人に預けるはずがないのだ。

「ガナッシュ、あなた始めから飲む気で来たのね?運転手を用意したのはそういうことなんでしょう?」
「さぁ、どうだったかな〜」
「呆れたひと!パーティで恥をかいたら、本当にワイン樽に漬け込むわよ」

クレアは踵を返し、二つ目の用事を片付けるべく、カウンターの方へ向かった。アグリツーリズモに来た観光客に応対するため、畑を引退したと思しき初老の男性が座っている。

「知人にワインを贈りたいのだけど、郵送手続きはここでもできる?」
「もちろん、できるよ。少し割高だが、構わないのだろう」

クレアの着ていると服をちらりと見やり、男性は笑った。ラウラ・ビアジョッティのドレスや香水を付けている子供なら、親が支払いを渋るはずがない。用紙を渡すと、子供はさらさらと変わった文字を書いた。小学校も出ていない彼にも、それがイタリア人の名前でないことは一目で分かる。

「おや、これは君の名前かね?」
「いいえ、友達の名前よ。読みを上に書いておくわね」

クレアは適当な嘘をつき、名前の上にアルファベットで読みを書いた。それは先だってドイツで殺された日本人女性の名前だったが、初老の男性は知らないらしい。

「そういえば、もうニュースはご覧になって?」
「いいや、テレビの調子がおかしくてね。なにか面白いニュースでもあったのかい?」

宛先の住所を書きながら、クレアはニーを振り返った。ワインで真っ赤になった顔をだらしなくして、案内役の女性を口説いている。聞いていないのを確認し、男性にだけ聞こえるよう声を潜めた。

「そうねぇ、パパはサッカーがどうとか言っていたわ。でも、ママはドイツの殺人事件の方が気になるみたい」
「はは、殺人事件なんてどこでも毎日あるだろうに」
「それがね、普通の事件じゃないの。一家全員が殺されたんですって」
「一家全員が?そりゃまたどうして」

そう言って、クレアは書き終えた書類を差し出した。すると、老人は怪訝そうにしながらも、書類を受け取ろうとした。しかし、明らかに渡すつもりで差し出しておきながら、クレアは手を離さなかった。

「さあ、知らない。もしかしたら、悪いことをしたのかしら」
「え?あ、ああ……そうだね」
「たとえば、言ってはいけないことを誰かに言ったら、それは悪いことになるでしょう?」

相槌を打ちながら、彼はどうにか早くこの話が終わらないかと祈った。彼女の言葉一つ一つが、標本の昆虫に刺さる針のように思われてならない。相手はほんに幼い子供だというのに、彼は妙な気迫に圧されてしまっていた。

「あなたは良きシチリア人だから、そんなことは分かっているでしょうけれど」
「あ、ああ、勿論、心得ているとも」
「良かった」

クレアは書類を手放し、心の底から無邪気に笑った。相手が思ったよりも察しが良く、交渉が速く済んだことが嬉しかった。後はワインの注文が確定すれば、もはやこの件は終わったも同然だ。

「でも、気を付けないといけないわ。私も、――あなたも」



九代目の『晴』ニー・ブラウjr.は、ナポリのトレド通りの近く、スペイン人の居住区にいた。そこは治安の悪さはナポリの中でも指折りの区域であり、観光客はもちろん住人以外の人は滅多に寄り付かない。ニーは足元に転がるチンピラを軽く蹴りつけ、意識が在るか確かめた。しかし、少し強く痛めつけすぎてしまったらしく、男はぐうの音も上げない。

「さて、どうしたものか……」

この地区は建物が密集しており、不案内な者にとっては迷路も同然の造りになっている。どこを歩いても建物に押し潰されそうな細道ばかりで、ニーは入ってすぐに現在地がわからなくなった。天を仰げど目印になる者など何もなく、所狭しと吊るされた洗濯物が見えるだけだ。

三分で役に立たなくなった地図をチンピラの上に放り、ニーはこれからどうしたものかと考えた。ザンザスの母親はこの地区で生まれ育ったという。しかし、丸一日かけて聞いて回っても、彼女を知る人物には会えなかった。

前情報によると、この地区の人間はよく入れ替わるらしい。病気や喧嘩で死んだり、スリや窃盗で刑務所に行ったり、行方不明になったり……人が消える理由には事欠かない場所だ。ここで聞き込みを続けても、収穫は得られないだろう。戸口の階段に腰掛け、ニーは手帳を開いた。そこには、ボンゴレの公式記録から抜き出した情報を書き付けてある。

ザンザスの母、名はアデリーナ・デフィジョ。このスペイン人地区に生まれ、ボンゴレの保護下に置かれるまでの四十年あまりをここで過ごした。狭いアパートに母子二人で暮らし、春を売って生計を立てていた。父親はいなかった――母の客だろうが、責任を取ってくれるひとはいなかったそうだ。
アデリーナは十八の時に母と死に別れ、三十二の時にザンザスを身籠った。そして、七つまで育ってから、九代目と息子を引き合わせた。ぼろぼろのスカーフ、擦り切れたシャツとスカートーー彼女が息子と引き換えに要求するものなど、服装を見れば明らかだった。

彼女は当初、九代目の後妻に入ることを望んだ。しかし、身分や教養、品性など全ての素養において彼女は不適格であり、叶う望みではなかった。その代わり、彼女は庶子を産んだ愛人として、サルディーニャの別荘と何不自由ない暮らしを得た。
別荘を与えられたと言っても、別に軟禁されているわけではない。監視付きならば、どこに行っても良いことになっている。旅行することもできるし、その気があれば息子に会いに行くこともできる。

しかし、彼女が息子の下を訪れたという話は聞いていない。ザンザスの方も、母との面会を望んだことがない。九代目に引き取られる以前から、そういう親子関係だったのだろう。愛のない親子関係。貧困にあえぐこの地では、人間関係はスモッグより儚いものと見える。アデリーナの過去を知る者など、探すだけ無駄かもしれない。

――貴方なら信じられるわ。お願いね

ニーが願い出た時、クレアはそう言って任せてくれた。半端な調査をして、彼女からの信頼を損ないたくはない。この地区の人間全てを当たってでも、何かを掴まねばならぬのだ。
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