匿名の電話
ドイツの田舎町で起きた惨殺事件は、様々なメディアでセンセーショナルに報道された。
特に生き残った可哀相な女の子に対する同情の声は強く、ドイツ警察にはただならぬプレッシャーが圧し掛かる。
しかし、意気込みに反して、捜査は全くと言っていいほど進展しなかった。沢山の人が殺されたというのに、現場からは犯人の情報を何一つ得られなかったからだ。指紋や髪の毛は勿論、家中の床を探しても足跡さえ見つからない。靴跡のスタンプで絵が描けるくらい、赤いインクはたくさん在ったというのにだ。

ベンヤミン・ドナート刑事の前で、デスクの電話が鳴った。彼はちらりと電話をみやり、相手を想像した――想像せずとも、歓迎できない相手だと分かる。部下からの報告は、基本的に携帯電話に掛かってくる。内線を使うのは、鑑識か上司くらいのものだ。

「はい、もしもし。こちら一課」

さんざん鳴らした後、彼はしぶしぶ受話器を取った。しかし、受話器から聞こえてきたのは、予想していたどの人の声とも違っていた。

「ああ、やっと繋がった。神様にかけてしまったかと思ったわ、あんまりに繋がらないものだから」

嫌味たっぷりな物言いに、ドナートは眉をはね上げた。このまま受話器を置こうかとも思ったが、そうしてはならない予感がして思いとどまる。それに、この電話は何かが変だ。ひどく冷やかな言い回しに反し、声がとても幼い。変声期などまだ先、おそらく十にも満たぬ年頃だろう。

「すまないね、忙しいものだから。それで、君は誰かな?」
「忙しいと言う割に、どうでもいい質問をするのね」
「名乗れないのか?やれやれ、悪戯電話の相手なんてしていられないな」

彼は苛々した気持ちを隠そうともせず、受話器を耳から離そうとした。ただでさえ展望のない事件に手を拱いているのに、イタズラ電話に割く時間はない。

「ことがシチリアマフィア絡みだと言ったら、貴方はどう考える?」

彼はさっと顔色を変え、受話器を耳に押しつけた。マフィア――それは今、刑事が一番聞きたくない言葉だった。怨恨の線で調べた結果、被害者の家系にはチェコやルーマニアの他、シチリア人の血が入っていた。それは、彼らがマフィアであり、一家惨殺は抗争の類だと示唆している。

「お前、何を知っている?」
「自分が知っていることは、全て知っているわ。それ以上は知らない」
「随分と尊大な言い方じゃないか。警察署でなら話せるか?」
「それは無理ね、貴方では私を呼びつけららえないもの」

確かに、一介の刑事に過ぎない彼には、マフィア絡みの案件に首を突っ込むだけの裁量は与えられていない。たとえ小娘一人であろうとも、警察署には呼び出せないだろう。くすくすと忍び笑う声が電話越しに聞こえ、彼は歯噛みした。

「その反応から察するに、少しはまともな仕事ができたようね。どこまで分かっているの?」
「守秘義務だ。どこの誰とも知れん者には話せん」
「そうでしょうとも。我が国の警察も、貴方達くらい法に忠実ならば……」

プリンチペッサ、と呼ぶ声が電話越しに聞こえる。イタリア語で姫を意味するその呼称に、刑事は眉を寄せた。彼の国に王家はなく、姫と呼ばれる人もない。相手の正体を探るヒントになればと思い、彼は手元のメモにその単語を書き付けた。

「貴方の働きに免じて、少し教えてあげましょう。犯人の目的は、とあるファミリーの血を絶やすことよ」
「どこのファミリーだ?」
「……しがない弱小ファミリーよ。随分と昔、戦でヘマをして、抹殺された。今ではその名を口にすることさえ嫌われているわ」

名は知らない方が良い――言外にそう伝わり、彼は眉を寄せた。イタリアには大小さまざまなマフィアがいて、そのほとんどは実態のつかめぬ存在だ。構成員が誰なのか、誰もが知っているが誰も知らない――そんな謎かけのような言葉が、そのまま事実であるというのだ。
警察に協力する者は一人もいないが、マフィアに恭順する者は警察の中にさえ居る。だから、彼女が詳細を語らない理由もわかる。かの国では、独り言であっても、マフィアの情報を音として発したが最後、命の保証はないからだ。

「貴方達には、犯人を捕まえられないわ。生き残った子供のためにできることを、なるべく早くにしてちょうだい」
「具体的には?」
「生き残った女の子を、アメリカに居る叔母のところへ送って。そこなら、みんなで守れるから」
「皆ってのは誰だ?警察か、司法か?」
「そんなもので守れるのなら、貴方の国で彼女達が死ぬことはなかった。そうではなくて?」

再度、遠くから姫と呼ぶ声が聞こえた。少し待って、と少女がイタリア語で答え、まだ電話の方に戻ってくる。吹きすさぶ風の音が聞こえ、ドナートは思わず身を震わせた。なんと寒々しい音だろう、まるで死者の国に吹く風のようだ。

「殺された者がマフィアなら、殺した者も同じ。そして、マフィアを助ける者もまた同じ……そういうものなのよ、私の国では」
「生き残った子は、ただの民間人だ。品行方正な子だ」
「ええ、マフィアは品行方正よ……知っているでしょう」

自嘲めいた響きでそう言い、電話口の相手はほんの少し黙り込んだ。それは言うべきか悩む人の沈黙であり、そういう時は待った方がさらに情報を得ることができる。彼は喧しく振動する携帯を横目に、ふたたび彼女が話しだすのを待った。

「あの子には、何としても生き延びて貰わなければならない。生きて、血を繋ぐ必要があるの」
「それは、祖母の血筋に関係があるのか?」
「ええ。彼らは灯なのよ……今は強大な悪に脅かされ、細ろうとしているけれど。いつか必ず、未来を照らす光になる」
「――誰の灯だ?」

ドナートは知らず、そう訊いていた。その問いは無意識の外から出てきたものであり、なぜそんなことを訊いたのかも分からなかった。しかし、その問いは、思いがけなくも少女の意表を突くことに成功したらしい。ひゅっと喉が鳴らしたあと、彼女の声からはシニカルさがすっかり抜け落ちていた。

「国の、よ。それ以外の何であるというの」

真実が半分、嘘が半分――刑事はそう感じた。そして、『弱小のマフィア』は彼女の泣き所であることも。初めて言葉を交わす者にさえ分かるのだから、彼女の敵は言わずもがな。そう易々と弱点を見せてしまっては、勝ち目など無いだろうに。
またしても、姫と呼びかける声がして、彼女が苛立たしげに言い返す声が聞こえた。少し待ちなさいと言ったでしょう、と。

「とにかく、彼女の命は貴方達の計らい次第ということよ。賢明な判断をされると期待しているわ」

早口にまくしたてると、彼女は受話器を乱暴に叩き付けた。けたたましい音に閉口し、刑事はそっと受話器を戻した。そして、手元に書きつけたメモを見て、それを二重線で消した。
この電話は実に、たくさんの情報を彼に教えてくれた。犯人がマフィアであり、挙げることは不可能だということだけではない。事は政治の絡む案件であり、エピフォーニア一家はその闘争の過程において犠牲となったこと。

電話の少女は剣戟を交える者の一人であり、この一家は彼女の切り札だったこと。生き残った女の子も同じく切り札で、その血を絶やすことは彼女の敗北を意味することを、教えてくれた。おそらく、電話の彼女を探し出したとしても、これ以上の情報を得ることはできない。彼女の声は冷笑的である反面、常に緊張しており、自らが話せるギリギリまで話そうとしているように聞こえた。

情報の漏洩を懸念したからではない。不必要に情報を与えれば、罪なき人を巻き込みかねないからだ。刑事の命を守るため、彼女は細心の注意を払っていた。彼女の敗北がかの国に如何なる影響を及ぼすのかは、わからない。しかし、他者の命を守ろうとした人が、悪逆非道の道を歩くだろうか。
警察の怠慢を嘆く声に、嘘偽りはなかった。彼女の勝利を願い、刑事は事件のファイルを閉じることを選んだ。
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