猟犬を叩き起こせ
血のついた服を着替え、クレアは応接間に戻った。シーツに包まれた講師の亡骸が運び出されるところだったが、一瞥もくれず執務室へ向かう。

勢力図となった地図の前に座り、クレアは白のポーンを一つ取り去った。ストリッジョの欠けた地域を埋めるのは、容易いことではない。
いかに勢力が小さくとも、クレアにとっては大切な駒だった。護国の為の、大切な要だったのだ。

それを誰かが破壊した。クレアの思惑など露知らず、ただ己の憎悪を振りかざして壊したのだ。マフィアに対する憎しみ故の行動であっても、許し難い愚行だ。
罪を働いた者には、罰を下さなければならない。

「まったく、この忙しい時に余計なことを……」

デイモンとの戦いで手一杯で、他の事に回す余力など無い。しかし、このまま捨て置いたら、他の駒まで破壊されるかもしれない。
愚か者のせいで、デイモンとの戦いに影響が出るようなことがあってはならない。

駒を動かしながら、クレアはこれから先の事を考えた。沼の生き残りは恐らく、母方の叔母に引き取られるだろう。
その叔母は日本人で、アメリカで国際弁護士として活躍しているという。

アメリカには、P2の同盟者であるマフィアが多い。穏健派が解散する時、その多くが難を逃れるために出稼ぎを装ってアメリカに移住したからだ。
ドイツの警察が彼女をアメリカに送ってくれれば、P2の者で守りを固められる。

しかし、日本の祖父母の下に送られたら、打てる手が限られてしまう。何をしていなくても外国人はよく目立つので、あまり大っぴらに動けないのだ。
デイモンとてそれは同じだが、守る側と殺す側では立ち回りの大きさが違う。

ドイツ警察には、叔母の下へ送るべきと打診した方が良いだろう。もっとも、彼らはマフィアの干渉を受け付けないので、効果はさほど期待できない。
いくら事情を話したとて、法律と医療が適切と判断するところへ送るに違いない。

彼女の命運がドイツ警察の手に委ねられた以上、クレアが考えるべきは他の守護者をどう守るかだろう。

「ドイツには、氷河も居たわね……」

氷河の守護者の一族、レドヴィナ家。チェコの姓なのは、先々代の一人娘がチェコ人と結婚してそちらに移住したからだ。
ドイツにいるのは、彼女の孫二人のうちの一人だ。もう一人は、トスカーナ州リヴォルノに住んでいる。
狙われるとしたら、ドイツに居る方だろう。しかし、沼の所在が割れた今、ドイツへの連絡網もデイモンに知られている可能性がある。
ここでドイツの方を動かして、リヴォルノの方を突きとめられては困る。

先にそちらを隠してから、ドイツの方を動かすべきだろう。他の守護者達に連絡するのは、P2の内部を洗ってからだ。

クレアは万年筆とインク壺を取り出し、五線譜の上に暗号を書き付けた。
リヴォルノの氷河を守るファミリーへ、ピサの空港近くへ移すように指示する。必要とあらば、スイス行きの飛行機に乗れるようにするためだ。

「壁紙を張り替えました。絨毯は剥がしたのですが、いかがなさいますか」

執務室の戸口に、業者の一人が顔を出す。内装業者として働くP2の同盟者で、歳はまだ二十代と若い。夜中に業者を呼べば、下っ端の彼が顎で使われることは容易に予想で来ていた。

「そうね。せっかくだから、一新したいわ」
「一応、似た柄のものは持ってきているのですが……」

普通に会話しながら、クレアは常備薬から胃薬の薬包を幾つか取り出した。その中にそっくりに似せて折りたたんだ楽譜を混ぜ、彼のポケットに入れる。
鷹揚に答えながら、彼はポケットを叩いて頷いてみせた。

「お店に選びに行くから、そのままでいいわ。今日の所は、汚れた物を片付けてちょうだい」
「わかりました。いつでもお待ちしております」

年頃の青年らしく気障な笑みを浮かべ、彼は応接間へ戻った。入れ替わりに『雷』が顔を出したので、クレアはちょいちょいと手招きした。

「まだ、私を助けようという気はある?」
「助けられる事があるならな」
「ストリッジョファミリーを壊滅させた犯人を、見つけてほしいの」
「壊滅したのか?そりゃなんでまた……」

『雷』の知る限り、ストリッジョはどこかと抗争するタイプのマフィアではない。ちっぽけな街の、ちっぽけな平和を守る自警団のようなファミリーだ。
オンナは勿論、魅惑の白い粉や重火器を商いにせず、稼ぎも微々たるものだという。

そんなところを襲うやつがどこに入るだろう。猫の額のようなシマと雀の涙程度の貯蓄を奪ったとて、抗争に使った弾代にさえならない。

「犯人はマフィアに強い恨みを持っている。執務室を荒らしていたから、次は友好関係にあるファミリーが狙われるでしょうね」
「マフィアに対するテロか。資料はあるか?」

講師が持って来た写真を渡し、クレアは状況から考えられる推理を話した。それが真実かは分からないが、今のところはそれ以外に考えられない。
『雷』もそう思ったらしく、写真をぺらぺらと捲りながら何度も頷いていた。

「事情はわかった。不可解な点はあるが、お粗末な点も多いな。食料なんて、その辺で買えるだろうに」
「そうね……買えない事情があるのかしら」
「一番可能性があるのは、マフィアの怒りを買った奴だな」

この国で身を隠す必要があるのは、マフィアの怒りを買った時だけだ。警察に指名手配されたくらいでは、誰も身を隠そうとはしない。
ピザを食べながら交番の前を通ったら、巡査はにこやかに挨拶してくれるだろう。

「とりあえず、マフィアのレッドリストに載ってる連中を探ってみるか」
「ストリッジョの屋敷で、証拠を集めて。指紋でも足紋でもいい、証拠になるなら髪の毛一本でも多く採取しておいてほしいの」
「そりゃあ骨の折れる話だな。経費がかかるぜ」
「その価値がある捜査よ。ボンゴレの傘下に、彼らと親しいファミリーが複数いたもの」

確かに、ボンゴレの傘下に手を出されては厄介だ。それも事前に情報が回って来ていた上で見逃していたとなれば、地方幹部会で揉めるかもしれない。
しかし、クレアの求めるレベルで捜査をするのは骨が折れる。

警察は、自分達の仕事が茶番に過ぎないことをよく知っている。大抵の殺人事件で犯人が捕まることはないし、捕まっても無罪で放免されるだけだ。
彼らの職業意欲が地を這うが如く低くても、誰が咎められるだろう。

まして、その原因であるマフィアが、彼らに真面目な捜査を求めるなど――皮肉以外の何物でもない。しかし、ボンゴレの庇護下に害が及ぶとなれば、躊躇しても居られない。

「ガナッシュ。敵を見くびってはだめよ」
「何故?お粗末な奴じゃないか。監視カメラの記録を見れば、簡単に見つかりそうだろ」
「それは無理よ。彼らは狡猾にも、きちんと破壊して行ったみたいだから」

『雷』の手から執務室の写真だけを抜き取り、彼の目の前に突き付ける。そこには、徹底的に破壊されたパソコンが十台、確かに映っている。
ハードディスクの損傷具合は判らないが、期待できる様子でないのは確かだ。

「金庫以外に破壊されたのは、デジタルデータだけ。そこに入っているマフィアの情報よりも、わが身の安全を選んだ――そんな判断、ただ復讐心に駆られただけの人間に出来ることではないわ」
「金庫を破壊したのは?」
「殺しの主犯とは別人ね。性格が違いすぎるもの」

金庫についた打撲痕からは、凶暴性と裏腹に極めて単純な性格が読み取れる。冷静にパソコンを破壊し、必要な書類だけを選別した人物とは思えない。
犯人は少なくとも二人いると見た方が良いだろう。しかし、この事件で真に恐れるべきことは、殺された人数でも、犯人の腕力や冷徹さではない。

「なにより怖いのは、主犯の殺意が強いことよ。決意……いえ、覚悟ができている。こういう手合いは厄介よ」
「マレルバの例もあるしなァ」
「なにか分かったら、教えてちょうだいね。私にはもう、手持ちを失う余裕がないの」

『雷』はローテーブルの上に乱立するチェスの駒を見やり、首を傾げた。切羽詰まった口ぶりに反し、白と黒の数は拮抗している。
ストリッジョにしても、規模から考えるに手痛い損失ではなかったはずだ。それとも、それくらい警戒しなければいけない敵なのだろうか。

「わかった。油断はしないし、小まめに報告を上げさせる」
「ありがとう。今日は色々なことがあって疲れたわ」

クレアは『雷』の横をすり抜け、寝室へと歩を進めた。月は疾うに空へと昇っている。明かりを消すと、冴え冴えとした月明かりが差し込む。
銀色の光に沈んだ彼女は頼りなげで、ガナッシュの目には哀しいくらい孤独に見えた。夜の影に命を絶ち、そのまま朝日の届かぬ死の淵に沈んでしまいそうなほどに。

ガナッシュが動揺した事に気付いたのだろう、彼女は月のように微笑んだ。その目には、ままならぬ全てに対する哀憫と諦念、そして母親の情に似た光があった。
彼女は憂えた声で、また明日と――ガナッシュの為に言った。
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