火種を転がす
リヴォーリまで四時間、神父はエンジンが火を吹かないよう祈りながらフィアットを走らせた。
富裕層の住むこの界隈は、瀟洒な建物がたくさん立ち並んでいる。神父の住まう村の、煉瓦の崩れた掘立小屋みたいな家とは似ても似つかない。

きれいに手入れされた家々を眺めながら、神父は慎重に車を走らせた。
ボスの家に行ったことは一度もない。随分と昔、少し離れたところから、あの家の主にメッセージを届けるようにと父に教えられただけだ。

家の前に車を止めるのは恐れ多かったため、神父は少し手前で車を止めた。荷物はそのまま、身一つで門前の警備員に駆け寄る。
警備員といっても、筋骨隆々の若い男ではない。腰の曲がった、庭師のようないでたちの爺さんだ。
何か用かと問われ、神父は村と教会の名前を主人に伝えていただきたいと願った。

「それを伝えるだけで良いのかい。俺はてっきり、お布施を強請りに来たのかと思ったよ」
「まずはお伝えいただきたいのです。お願い事はその後です」
「わしは伝書鳩ではないんだがな。いいだろう、そこで待っているといい」

神父は指示された通り、門の脇のベンチに腰掛けた。そうして、爺さんが一人の青年を連れて戻ってくるまで、手入れされた庭を楽しんだ。

「ドメニコ神父だな。ボスのもとへ案内しよう」
「ありがとうございます。お名前をお聞きしてもよろしいかな?」
「ええ、もちろん。もっとも、貴方がトリノの人間なら知っているだろう。拾っていただく前は、相当な悪ガキだったからな」

右の頬に走った二本の傷に、富士額の三白眼。荒々しい風貌で、人相は人を何人殺したのかと思うくらい悪く、雑に切られた黒髪は獣の鬣のようだ。
軍人などよりよっぽど鍛えられた体が、黒いスーツの中で窮屈そうにしている。相当に腕が立つらしく、佇まいにまるで隙がない。

それでいて、その目はどこか子供っぽくて、きらきらと楽しげに輝いている。神父が噂に聞いた悪党とは、受ける印象がまるで違う。
きっと、彼は欲しかったものを見つけたのだろう。本当の家族というものを。

「俺はランチア、用心棒だ」



神父からメッセージを聞き、ボスは目を瞠った。そして、悲しげな顔を手で覆い、神よと呻いた。

「なんということだ。ああ、この日が来てしまうとは」

神父はお役に立つ日を夢見ていたが、ボスはそうではなかったらしい。思いがけぬ反応に、神父とランチアは戸惑った。
ボスは席を立つと、彼は執務机の後ろに飾られた油絵を外した。そして、額縁を外し、野暮ったい静物画の麻布をナイフで切り取った。

その下には、もう一つの絵が隠されていた。長い黒髪の、美しい女性の絵だ。フリルとレースをふんだんに使ったドレスをまとい、優しく微笑んでいる。
その絵を見た瞬間、神父は確信した。この人こそが、先祖が代々、盟主と仰いできた御方だと。

「おお、この方が我々の盟主なのですね。なんと美しい方でしょう、マリア様のように微笑んでおられる」
「ええ。我らは肖像画を隠し持つことが許されておりましてね。よければ餞別に差し上げましょう」
「よろしいのですか?ああ、ありがたい。ご尊顔を拝することができるとは」

ボスは額縁に嵌め直し、絵を簡単に包んで神父に渡した。ついでに、逃走資金にといくばくかの金を与える。
マフィアが逃亡を手伝うと、敵に嗅ぎ付かれやすくなる。違法移民達に紛れて国境を越えた方が安全なので、それくらいしかしてやれることがない。

「お互い厳しい道のりとなりましょう。健闘を祈ります」
「こちらこそ。キリストの兄弟をどうか、よろしくお願いいたします」

絵を確りと抱えた神父を見送り、ボスはファミリーで一番若い構成員に微笑んだ。
北イタリア最強と称されているが、彼はまだ十代の若造で、ボスにとっては息子も同然のかわいい子供だ。

「トリノ大学に日本人講師がいてね。名前はカトウと言ったかな」
「その人が、キリストの兄弟ですか」
「ああ。カトウ一家を、我らで保護せねばならん。ランチアよ、先行してカトウ講師にその旨を伝えてほしい」
「わかった。家族の方はどうする?」

ボスは執務室の扉を開け、廊下で待っていた右腕に視線を向けた。ボスの意を受けて、右腕は頷き、車の用意はできていると告げた。



ザンザスの部下から連絡が入り、九代目の晴はすぐさま第二邸へ車を走らせた。
出迎えの者との挨拶もそこそこに、急ぎ足でザンザスの執務室へ急いだ。

本来ならば、応接室にて悠然と待つべきだろう。ボスの息子といっても、ザンザスは守護者よりも低い階級に位置する構成員だ。

しかし、必要以上に体面にこだわるザンザスが、応接室に自ら足を運ぶとは思えない。
已むなく来るまで待っているほど、『晴』も気長な性格では無い。

既にエストラ―ネオ討伐に向けて準備し始めているらしく、第二邸にはとても慌ただしい雰囲気が漂っていた。
ひっきりなしに電話の音が聞こえ、人の出入りも常ならず激しい。

「『姫』!」

勢いよく扉を開け、『晴』はかの人の姿を探して部屋を見渡した。赤と黒の二色で纏めた室内は、照明から絨毯まで全てカッシーナで統一されている。

威圧感を漂わせる色調のなか、彼女はソファに腰かけていた。きれいな身形で優雅にカップを傾けるその姿には、何ら揺らぐところがない。
しかし、その澄み切った目は、『晴』を映すと鮮やかに色づいて見えた。

「あら、驚いた。思ったより早かったのね」

さっとカップをソーサーに戻し、クレアはソファから立ち上がった。踵まで覆うワンピースの裾を翻さないよう、ゆったりと歩く。

『晴』は膝をついて待ち、小さなお姫様の手を取ってキスを送った。くすぐったさにからからと笑い、クレアはキスを受けた手で彼の頬に触れた。

「心配してくれたのね。でも大丈夫よ、見ての通り怪我なんてしていないわ」
「それでも、私がすぐに追っていたら、怖い思いをさせずに済んだでしょう」

気遣わしげにそう言い募る彼に、クレアは思わず笑ってしまった。普通の女の子のように扱われると、くすぐったくてたまらない。
あれしきのことを恐ろしいと思うほど、クレアは初心ではない。

「私は『姫』よ。あれくらい、全然怖くなかったわ」
「怖いものは、何度経験しても怖いものでしょう。護衛でありながら、守ってあげられなかった。何とお詫び申し上げれば良いか……」
「いいえ、貴方はちゃんと務めを果たしたわ。招待状、届けてくれたのでしょう」

もし『晴』が招待状を届けに行かなかったら、ザンザスが駆けつけてくることはない。おそらく、ボンゴレ本部から『雷』辺りが来ていただろう。

クレアはザンザスに来てほしかった。あの時点ではまだ敵が判っていなかったが、彼を強くするための試練になるだろうと思ったからだ。
そして、敵がエストラーネオと分かって、その討伐を任せると決めた。

ザンザスに試練を課すことができたのは、ひとえに『晴』の誠実な働きがあってのことなのだ。
彼はちゃんと、クレアの思う通りに動いてくれた。それで充分なのだ。

「さあ、兄様の邪魔になる前に帰りましょう」
「その件ですが、『姫』。エストラ―ネオファミリーが貴女を攫ったというのは本当なのですか」
「ええ、本当よ。その討伐を兄様に委ねたのも本当」
「なぜそのようなことを?貴女にそのような権限はないはずだ」

『姫』はボスの系譜に生まれるが、継承問題に纏わる事以外に権限をもたない。たとえその身を誘拐した者に対してであっても、どう対処するかを決めることはできない。

そんなことは、『姫』であるクレア自身が一番よく分かっている。困惑する『晴』に、クレアは当然とばかりに微笑んで見せた。

「いいえ、私には権限が在るわ。試練を与える権限が、在るのよ」
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