遠く離れた地へ
ザンザスの邸に着き、クレアはその外観を眺めて溜息をついた。
すっかり現代らしく改装されたその建物は、少しも美しくなかったからだ。

イタリアは美しい国だ。街も、建物も、石畳の模様さえ美しい。
古代ローマから綿々と育んできた美意識のままに、全てを美しく作ったからだ。
しかし、親から子へと受け継がれるはずの精神は、統一戦争の中で絶たれた。美しきもの、古き良きものを愛する心は消え、即物的に富を求めるようになってしまったのだ。

貴族も庶民も、新しきものを求めた。古い家具を捨て、アメリカ発のモダンな家具とやらを飾ったのだ。
漆喰が禿げたままの建物に、渡来の安っぽい家具を置いて、それを富と謳い。最先端のものにどっぷり浸ることを富と信じて、本物の富を流失し、そして零落した。

二度の世界大戦で奇跡的に残ったものも、失われつつある。この国から歴史的な美しさを消し去りかねない勢いで、マフィアが次々に壊しているからだ。

ボンゴレ第二邸。そこはかつて八百年の歴史を有する絢爛豪華な城で、青い山々の中に荘厳に建っていた。

ミラーガラスを張り巡らした、のっぺりとした鉄筋コンクリートの建物ではなかった。
いつから人は、こんなにも醜い建物を好むようになったのだろう。

「まるで、死の島みたい。あなたは此処を出るべきだわ」
「そう言うなら、此処よりいい場所を用意しろ」

クレアの言葉を昇進の約束と思ったのだろう、ザンザスは口角を上げて笑った。

「良いでしょう。そう遠くない未来に、準備します」



ザンザスの執務室で、クレアは電話を借りた。デイモンが動き出した今、早急に対策を取らねばならないからだ。

現代の電話は実に便利だ。店に借りに行く必要もないし、交換手に頼む手間もない。
番号の入力も、一つ一つジーコジーコと回さなくていい。ボタンをプッシュするだけでいいのだ。

何より便利なのは、自動で録音し、メッセージを転送してくれることだ。これがあるおかげで、追跡を遅らせることができるようになった。

しっかり暗記しておいた番号を入力し、コールが終わるのを待つ。相手は山奥のあばら家に置かれた電話なので、誰かが出ることはない。
すぐに留守番電話に切り替わり、メッセージの入力を促すアナウンスが再生された。

「キリストの子らよ、悪魔が来た。ミカエルに祈り、異教徒の弾圧からキリストの弟を守りなさい」

傍らで、ザンザスが驚く気配がした。明らかに暗号であるメッセージを、人が居るところで口にするとは思わなかったのだろう。

しかし、クレアは知っている。この場に居る全て者が知恵を絞ったとしても、この暗号の意味を知るのは十数年も先のことだ。
そして、その時に分かったとて、全てが終わった後ならば何も問題はないのだ。

「キリスト教が生まれる以前、紀元前の世界は絶望そのものだった」

戦火は絶えず、犯罪と疫病が人々を蝕み、猜疑心が和を乱す。裏切りは友情よりも、絶望は希望よりも多い時代だった。
人々には、希望が必要だった。信じること、心の支えとなるものが必要だった。

「そこに、神の子と彼の説いた神の教えが、希望の灯となって輝いた。今日の輝かしい世界は、迫害に耐え、信仰を未来に繋いだ使途達の功あってのものである」

キリスト教に限らず、世界に数多ある宗教は皆、人々に希望を与えるものだ。正しき教えを、正しき心で用いる時、それらは真に世界を照らす光となる。

「しかし、希望の光は全てを照らしてはいない。悲しいことに、世界には未だ絶望に鎖された地がある」

どんなに素晴らしき教えも、正しい心で用いなければ悪となる。口減らしのため、領土的野心のため、聖戦を謳いながら歩いた十字軍は、各地で虐殺と犯罪を働いた。
恨み嫉みから隣人を魔女と謗った者達は、少なくとも四万人を火刑台へ送った。

クレアが掲げる正しさも、宗教と何ら変わらない。正しい法手続きの下に執行されれば正義となり、マフィアと同じ手法を用いれば悪となる。
哀しいのは、この国では法律が正しく執行されないことだ。だから、クレアは毒を以て毒を制すべく、悪道を往く。

「我らには、人知らぬ希望がある。今は未だ小さき灯だが、それらはいつか必ず、遍く世界を照らす光となるだろう」

希望。それはジョットとコザァートが遺した、二つの小さな灯だ。今はまだ小さく、守られるばかりの弱い希望。
しかし、二つの希望が手を取り合う時、それは闇を打ち払う強い光になる。必ずなると、クレアは信じている。
その時が来るまで、どちらも欠けないように守るのが、クレアの仕事だ。

「我らは罪深き者、かつて過ちと知りながら誤った者達。果実を齧った罪を償うため、キリストの兄弟を守りなさい」



クレアが電話をかけてから、数時間後。国境を幾つも越えたあと、メッセージはイタリアに戻って来た。
トリノの鄙びた田舎町の教会で、電話が鳴り響く。

「んん、なんだ」

電話の前で聖書を読んでいた、でっぷり肥った神父が受話器を取り上げた。
機械音声が転送されたメッセージであることを告げると、まどろんでいた両目がはっきりと見開かれる。

猫のように丸まっていた背骨をしゃんと伸ばし、神父は一言も聞き洩らすまいと両手で受話器を耳に推しつけた。
ピーという長い機械音の後に、メッセージが再生される。

「キリストの子らよ……」

可憐な少女の声に、神父は陶然としてその声に聞き入った。一族の主、真に正義を行使するその人のお役にたてる事が嬉しかった。

彼は――彼の先祖は、この日が来ることをずっと待ち望んでいた。
たとえ、電話を受けたが最後、それまでの暮らしの全てを捨てることになっても、後悔など爪の先ほども感じない。

電話番を務めていた者は皆、子でも孫でもない、自分こそがこの電話を取ることを夢見ていた。
彼の父も祖父もそうだったし、彼も今か今かとこの時を待っていた。
一週間後には次代に譲る予定だったから、喜びはひとしおだ。自らの老いを悟り、役目を子孫に譲る時の不甲斐なさと言ったら――。

メッセージを消した電話を少ない持ち物と一緒にトランクに詰め、神父は意気揚々とおんぼろのフィアットに乗り込んだ。
姿をくらます前に、しなければならないことがある。神父は悪魔の手を逃れる白き伝書鳩、戦場に命令を届ける伝令なのだ。

「たのむから、エンストしてくれるなよ」

真にメッセージを受け取るべき人の下へ行かなければいけない。普段はマーケットまで走らせるだけの愛車に声をかけ、キーを回した。
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