- 外と内
消灯時間を過ぎた後、学長に呼ばれて面会室に行けば、九代目の『晴』が待っていた。
硝煙と血の匂いを纏わせており、ここに来るまでに何かしら在ったことが窺える。
それよりも、彼が後生大事に確りと抱えているものが気に掛かった。白いレザーを使った、ボッテガ・ヴェネタのポーチだ。
余計な装飾を一切しない、職人技の光るエレガントなデザイン。上質の本革の良さを存分に引き出したそれは、明らかに特定の人物の持ち物だ。
その人は来ず、鞄を持った護衛だけが傷だらけでザンザスの元に来た。それだけで、ザンザスには大体の事情が分かった。
「受け取ってください。今日中に貴方に届けよと、言われたのです」
「それで、テメェはのこのこと此処まで来たのか」
「……っ、仕方がないじゃないですか。捜索は誰にでもできるが、これは私にしかできない」
ニーとて、すぐさま車を追いかけたかった。しかし、クレアはポーチを投げて言った。
招待状を兄に届けろと。兄の名誉の為に、今日中に届けろと。
自らの状況を理解し、それでも助けを求めなかった。その覚悟を踏み躙ってまで追いかけることはできなかった。
ニーは本部に連絡を入れて、自分にしかできないことを成すために走った。
「受け取ってください。でなければ、私は何のために来たのか……!」
「うるせぇ、指図するな」
そう言いながらも、ザンザスは招待状を受け取った。ニーの葛藤はどうでもいいが、クレアの意向とあれば無碍にはできない。
無事に任務を果たし、ニーはすぐさまクレア捜索に協力すべく踵を返した。
しかし、ドアノブに触れるより早く、ザンザスに呼び止められる。
「テメェ、ここまでヘリで来たな」
「ええ。帰りもヘリで本部に戻るつもりですが……」
机に乗せていた脚を床に下ろし、ザンザスは立ち上がった。その顔に獰猛な笑みを見て、ニーはぞっとした。
凶暴で手のつけられない暴君が、己の妹を攫われて激高している。
一挙手一投足に怒りが籠っていて、全身に憤怒の炎が迸っているようにさえ感じる。深紅の一瞥と共にニーに向かって放たれた言葉は、その最たるものであった。
「本部に伝えろ。九代目の長子たるザンザスが、カスどもに鉄槌を下すとな」
暗澹とした部屋の隅、積まれたがらくたの上。
そこが少年の定位置であり、彼はいつも其処から子供達を見下ろしていた。
十歩も歩けば壁に突き当たるような物置に、十数人の子供がいる。体力のある子は壁に寄りかかり、終わりの近い子は床に寝そべっている。
かつてはもっと、何十人もの子供がこの部屋に居た。この部屋に連れて来られ、一か月に満たない期間を過ごし、骸となって引きずり出されていく。
少年はこの部屋に来て、八人の子供を見送った。どの子も炎や血を吹き出して倒れ、体中を掻きむしりながら死んでいった。
痙攣する子供を見て、他の子供達は声を押し殺して泣いた。可哀相だからか、恐怖からかはわからない。
少年はそんな恐ろしい光景を、ただじっと見ていた。哀れに思うことも、恐ろしく思うこともなかった。
他所から誘拐されてきた子達と違って、少年は多くの情報を得ていた。
自分達を虐げる大人たちは、新興マフィアのエストラ―ネオファミリーであること。彼らは他のマフィアと折り合いが悪く、存在を誇示しようと焦っていること。
その焦りが実験をより過酷にし、死者を激増させていること。
金銭的にも頭数的にも、モルモットとなる子供の供給が間に合わないこと。そのために、彼らが下っ端の構成員に子供を差し出すよう命じたこと。
子供は必ずこの部屋にぶち込まれ、大体は一週間から一カ月で死ぬこと。親が助けに来てくれることはないこと。自分が親に見捨てられたことも、少年は知っていた。
進んで自分を死地へ追いやった親の、媚び諂う姿が思い出される。彼らは、我が子を見捨て、世界から――大人から見放したのだ。
その時点で、怖いものはなくなった。死も、苦痛も、死にゆく人さえも。
いずれは自分もそうなるのだろうと、動かなくなる体をただ見つめていられた。彼女が、この部屋に放り込まれるまでは。
少年がこの部屋に来てから、十日ほど経ったある日。一人の少女が、部屋の中に放り込まれた。
綺麗に巻かれたブルネットに、垢とは無縁の真っ白い肌。フリルをあしらった木苺色のドレスは、布地からして高そうだ。
労働を知らない指先はとてもきれいで、埃っぽい床の上できらきらと輝いているように見えた。少女は意識がないようで、転がされるままにぐったりと倒れていた。
少年は定位置を離れ、少女の傍へ近寄った。他の子供達は息を詰め、耳をふさぎ、遠巻きに見ているだけだ。
恐怖と絶望で神経過敏になっている時に、新参者のヒステリーなど聞きたくないといったところか。
「起きて、くれませんか」
そっと揺り起こしてみたが、少女は起きなかった。強い薬を嗅がされたのだろうか、不自然なくらい眠りが深い。
とびっきり美しい容貌は、埃で肌が少し黒く汚れたくらいでは褪せない。少年はその女の子の名前が知りたくなった。この地獄には似合わないその子の名を。
彼女が、絶望と苦痛に壊れてしまう前に。